鳥取旅行記 2022年6月下旬-17
旅行期間:2022年6月下旬(1泊2日旅)
小さな砂丘!
約30分かけて登山道を登って、辿り着いた鳥取城の本丸跡。標高263mの久松山の山頂に造られていた本丸だが、周囲に大きな建造物や山が無い事もあって、鳥取市内が一望できる景観が見られる場所となっていた。
鳥取城の本丸跡にて
こちらは鳥取駅周辺に大きな建物が立ち並ぶ鳥取市内の景色。昨日宿泊したスーパーホテルも鳥取市内では大きな建物の部類に入るので、ここからでもその建物を確認できた。
こちらは南側の景色で、奥になる程に山が連なっている景色が見えている。この高さから眺めているだけだと、簡単に奥に見えている山に行けそうに思うけど、実際に移動してみると、それなりの距離なんだろうが。。
文句を言いながらなんとか登ってきたオカンは、とりあえずベンチに腰掛けて休憩していたけど、この本丸跡からの素晴らしい景色を見れて、満足している御様子だったようだ。
という事で、山城の山頂に登ってきた記念撮影を撮る。昨日は鳥取砂丘で帽子を飛ばされてエラい目に遭ったオカンであるが、この久松山の上ではあまり風が吹いていなかった為に、2日連続で帽子が飛ばされるという事は残念ながら起きなかった。
もし、帽子が飛ばされたら、アンタが代わりに取りに行きや!
そして上下を黄色で統一した男も、嬉しそうに記念撮影をしていた。
ただ、どうやら服も上下の色を一緒にしてしまうと、その色のインパクトが薄れてしまうようだ。その為に、このように上下黄色に統一すると、誰からも声を掛けられなかったのであるが。。
変態にしか、見えんゾ!(笑)
変態が変態を見て、笑ってる!(笑)
それとこの鳥取城が築かれていた久松山の東側にある、標高252mの「本陣山」に戦国時代に鳥取城を攻めにきた羽柴秀吉が本陣を築いた山だったという。
その本陣山には、秀吉が戦の為に築いたとされる大きな土塁や堀の遺構が残されているという。ただ、同じようになかなかな登山道を登って行かないといけないのかと思っていたけど、山頂までは道路が舗装されているので、比較的楽に行けるようだった。。
この奥にある本陣山に拠点を急ごしらえして、周囲を取り囲んだ鳥取城を兵糧攻めにした羽柴秀吉。
そして約4ヶ月に渡る厳しい兵糧攻めで、鳥取城内では多くの農民や兵士達が餓死していった。今思うと残酷で惨い話に思えるけど、戦国時代には”喰うか、喰われるか?”の時代だっただけに、徹底的に攻撃しないと、逆に自分が滅ぼされてしまう立場にあったのだ。
そして本丸跡には、こちらの柵で覆われた「車井戸」という、江戸時代初期に移封されてきた池田長吉が改修工事を行った際に、掘られた井戸だという。
それなりに深そうな井戸に思えたけど、周囲に柵がしてあった為に、近くに寄ってその井戸穴を覗き込む事が出来なかったので、その深さについては不明であった。
そんな本丸跡の北西側には、一段と高い天守台の石垣が見られる。そしてそこにはわざわざ階段が設置されているので、是非ここも登ってみる事にした。
先程山頂付近で年配の女性2人組を見かけたけど、真っ先にこの天守台にやって来て、登り切った満足感と共にお喋りに花を咲かせている様子が見られた。
本丸跡の天守台にて
そして天守台の上に登ると、今では何も建造物の無い展望台のような景色が待ち受けていた。
この天守台には戦国時代頃に天守の建物が造られたとされており、その時に三層の天守が建てられたという。
そして江戸時代になって移封されてきた池田長吉時代に、二層の天守に改装されたが、1692年に落雷で焼失してしまったという。その後はこの本丸に天守を再建する必要性が無かった事もあって、それ以後は再建されずに今に至っている。
天守台からの景観! 動画
そして天守台の北側には、昨日訪れた「鳥取砂丘」もこのように見られる。しかし、その手前にある防砂林の影響で、その砂丘も少ししか見えない。。
ここからやと、砂丘も小さく見えるな。。
強烈な直射日光が照り付けていた鳥取市内。その為に撮影した写真も、特に明るさを調整する必要もなく、逆にちょっと暗めに調整しないといけない程に明るく写真に写っていた。
こちらは鳥取市内を縦断して日本海に流れ込んで行く、一級河川「千代川(せんだいがわ)」が中央に見られる。
古来より、この千代川を流れる雨水が土砂などを運んできて、それが最終的に鳥取砂丘のある場所に堆積していった。しかし、現代では河川の護岸工事などが行われた影響で、川の流れに土砂が含まれる割合が少なくなっている為に、鳥取砂丘がそのままでは消滅してしまう可能性が出てくるようになってきてしまっている。。
砂丘が無くなったら、俺の居場所がなくなるラク・・・
天守台には単なる空き地ではなく、天守という建物が造られていただけに、その跡地のような石が転がっているのが見える。ただ、今ではこのように雑草が生い茂っているだけに、その礎石などは直接は見にくくなっている。
そしてこの天守台から南西側の斜面には、何層かに渡って砦が築かれていた跡が残されている。戦国時代に築かれた鳥取城では、この斜面に沿って石垣が築かれて、それぞれの段に砦が造られていたという。
しかし、江戸時代には必要の無くなった砦跡の石垣は、山下ノ丸を改修する際に流用されたりしているので、今ではその面影はあまり見られなくなっているようだが。
日本国内でも最も人口が少ない県となっている鳥取県だけど、逆に経済発展しない代わりに、昔ながらの自然が他の都道府県に比べると多く残されている訳でもある。世界は18世紀の産業革命から、技術革新のスピードを格段に上げて進化してきたけど、その裏で多くの環境破壊が行われている。
その為に、これからの世界ではこのような”自然”が残されている事が、逆に恩恵を与えてくれる時代になる可能性がある。
自然があるからこそ、地球上で生物は生き残れるラク!
昨日と違った帽子で、嬉しそうに鳥取砂丘をバックに記念撮影をするオカン。
冗談でまた昨日の砂丘で帽子が飛ばされた経緯の話を振ると、
ホンマにあのまま帽子を取りに行ってたら、死んでたかも知らんな・・・
と昨日の様子をしみじみと振り返っていた。。
戦国時代までに多かった山城も、平穏な江戸時代に入ると、あまり重宝されなくなっていった。登城しにくい城よりも、周囲に大きな堀や土塁を設けた平山城などが多くなり、籠城戦よりも普段の使い勝手の方が重要視されていったのかもしれない。
鳥取市内に住んでいると、天気の良い日には毎日登りたくなってしまうような、素晴らしい景観が待ち受けていた本丸跡。
高過ぎもなく、また低すぎる訳でもない久松山は、足腰を鍛える為にもちょうどいい登山が出来る山である。
運動不足の人は、是非鳥取県に来てラク!
そして約20分間ほど本丸の景観を楽しんで、これから山頂を降りていく事にする。その前にさっき見えていた、こちらの休憩所にちょっとだけ立ち寄ってみる事にした。
特に何があるという訳でもない、質素な休憩所。ただ、強烈な直射日光が照り付けている時期には、その直射日光を避けれる場所に入るだけで、体感温度が全然違ってくる。
夏場の紫外線には、注意するラク!
そんな休憩所の中には、こちらの「山城番付」というボードが置かれていた。見た感じにはそれなりに古そうな物だったが、山城のランキングでもその城が築かれている標高ではなく、”その城を治めていた大名の石高”でのランキングとなっていた。
山城の標高ランキングでは、岐阜県の岩村城が一位ラク!
時間に余裕があれば、この標高263mの山頂でもっとゆっくり寛ぎたい所だが、これから昼食を食べて、更に博物館と仁風閣を見学して、更にカフェで休憩してから、17時40分頃発の高速バスに乗らないといけない。
その為に少々名残り惜しかったけど、鳥取城らしさを満喫した事もあって、そろそろ本丸から下界に降りていく事にしたのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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