鳥取旅行記 2022年6月下旬-26
旅行期間:2022年6月下旬(1泊2日旅)
多くの人が死んだ鳥取城!
ここは”全国で最も人口の少ない鳥取県”にある「鳥取県立博物館」。
日本全国でもマイナーな観光地となっているものの、これまで過ごしてきた鳥取の歴史は、勉強してみるとかなりの味わいを感じれるものばかりであると感じた。
住所:鳥取市東町2-124
営業時間:9時~17時頃
(※定休日:月曜&祝日の翌日)
電話番号:0857-26-8042
入館料:※常設展示 大人180円/学生以下無料/70歳以上も無料
「鳥取県立博物館」の見学!
こちらは「山名 豊国(やまな とよくに)」の肖像画である。山名豊国は中国地方を中世時代から支配してきた山名家の人物であるが、城を追われてしまい、尼子氏の残党の勢力に助けられて再興を目指したが、毛利家の軍勢に降伏して、毛利家の傘下に入る。
そして鳥取城の城主に任命されて、織田信長から派遣された羽柴秀吉の軍勢を迎え撃つ『第一次鳥取城攻め』で、約3ヶ月に及ぶ籠城戦をした後で、家臣達からは徹底抗戦を訴える主張が多かったが、山名豊国は単身城を抜け出して秀吉と和議を結んで、織田家の支配下に入った。
しかし、織田軍に寝返った鳥取城に再び毛利家が入ってきて、再び毛利家の傘下に鳥取城は下る事になる。その後は、何人もの城主が入れ替わり、吉川経家が城主となってきた後に再び秀吉は鳥取城攻めを開始するのであった。
このように秀吉による鳥取城攻めは2度に渡って行われているが、壮絶な餓死者が出る程の籠城戦として有名なのは、『第二次鳥取城攻め』であった。
秀吉にとっては既に一度鳥取城を攻略して信長にその旨を報告していた事もあって、赤っ恥を掻かされたような気分だったのかもしれない。それもあってか、この2度目の鳥取城籠城戦で徹底的に毛利家側を搾りあげて、多くの餓死者が出ても手を緩めない冷酷な司令官となったのかもしれない。。
2度目に失敗したら、信長に首を斬られていたかも知らんな!
こちらは、そんな秀吉の『第二次鳥取城攻め』で、3~4ヶ月に及び籠城戦で多くの餓死者を出して、地獄のような修羅場と化した鳥取城を止む無く明け渡した、毛利家側の城主:吉川経家が残した「遺言状」となっている。
吉川経家は秀吉に対して、自分の首を差し出す事によって、他の家臣を助命する事を嘆願して自害した。
秀吉も当初は吉川経家の自害を求めていた訳では無かったが、吉川経家からの強い訴えを聞き入れて自害を許す事で、鳥取城を巡る戦いは終結する事になる。
こちらは『第二次鳥取城攻め』の際に、毛利家と秀吉軍勢がどこに布陣していたかを説明してくれている図である。
鳥取城は日本海に近かった為に海側から食糧を入手しようとしたが、秀吉は先手を打って兵糧を買い占めて、また港周辺も押さえて、毛利家側の補給ルートを断絶したのである。
こちらは江戸時代前期に、鳥取藩内で因幡国の伝記や資料などをまとめた『因幡民談記』である。
その中には『第二次鳥取城攻め』の際に、鳥取城周辺に布陣した武将達の名前も書かれているのが見える。
そして鳥取城は織田信長勢力の手に落ち、信長亡き後に天下を手中にする秀吉の勢力内に組み込まれていく。
その後は宮部継潤が城主として入り、秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に加担した為に、後に東軍に加担していた亀井茲矩によって、攻め落とされてしまうのであった。
こちらは戦国時代後半の武将である「関 一政(せき かずまさ)」の肖像画。関ヶ原の戦いでは当初は西軍側についていたものの、途中で寝返って東軍に加担した事により、領地を与えられる。そして江戸時代に入ってからは、伯耆国の黒坂藩主へと移封されて、関家は旗本として明治時代まで存続したという。
こちらは1799年頃に制作された、鳥取藩などを治めた池田家の家系が説明されている「池田家:御家系」という本である。
外様大名の中でも池田家は、天下を統一して江戸幕府を興した徳川家康の娘を貰っていた為に、その子供が家康の孫として譜代大名並みの扱いを受けて繁栄する事になる。
こちらは1593年に、当時関白の職にあった「豊臣秀次」が朝鮮出兵中の武将に送った”朱印状”となっている。
豊臣秀次は秀吉の姉が産んだ長男で、子供が居なかった秀吉の養子となり、この時は豊臣家を継ぐ予定で関白まで出世していた。しかし、この朱印状が発行された年に、淀姫が秀吉の晩年の子供「豊臣秀頼」を産んだ為に、その2年後に切腹させられる事になるとは思いもよらなかっただろう。。
やっぱり、人は我が子の方が可愛いと思うラク!
こちらは秀吉の家臣として取り入った後に、秀吉死後は見切って家康の元に取り入って、出世した「亀井 茲矩(かめい これのり)」が書いた手紙である。関ヶ原の戦いの後に、西軍の鳥取城を攻めて陥落し、その褒美として”鹿野藩初代藩主”に任命される。
鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩は、江戸幕府の許可を得た上で、今のフィリピンやタイなどの交易も行っていたという。
この書は長崎に派遣した家臣に対して、ルソン(フィリピン)と交易する計画の為に造船をするよう指示した内容となっている。
復元した鳥取城の模型を眺める!
そしてこちらには、江戸時代の鳥取城を再現した模型が展示されていた。今では復元計画が進みつつあるけど、江戸時代には約30万石の大きな大名だった池田家の居城だけあって、このようにとても大きな城郭が築かれていたようだ。
戦国時代の鳥取城は、主にこの久松山の上に造られていた箇所を示すが、江戸時代になって池田家が封入されてきてからは、普段使いしやすい山下ノ丸に拠点が築かれて、山の麓で藩政などが行われるように移り変わっていった。
鳥取城は山城としても有名だけど、昔にはこんな山の上に櫓や塀などを築いていたというから驚きである。
現代人からすれば、その山の上に登るだけでも大変な場所だったのに、そんな場所に重たい資材を抱えて運び、このような城郭を築いていたのである。
現在の鳥取城では、このような幕末まで存在していた建造物の復元計画が行われていっているので、30年後ぐらいにはこのような姿となっている可能性がある。今の鳥取城跡にはほぼ石垣しか残されていないが、このように塀が復元されるだけでも、だいぶ見た目が城っぽく感じるようになるだろう。
この「中ノ御門」は鳥取城の大手門として既に復元されている門で、堀に架る「擬宝珠橋」も合わせて復元されている。
ただ、今は中ノ御門の奥側の「二の門」が新たに復元中だったので、中ノ御門は通行中止となっていたが。。
さっき鳥取城跡を訪問して散策している時には、その全容が分かりづらかったけど、このように緻密に復元されている城郭模型を見ると、改めてその規模の大きさが理解できる。
鳥取城は約50億円を投じて、このような江戸時代の姿に戻す予定となっている。ただ、実際にどこまでこの模型ほどに復元できるかは分からないけど、出来る限り復元していって欲しいと思う。
鳥取城復元計画に寄付してラク!
そして再び鳥取藩を治めていた「池田家」について、またお勉強となる。池田家は織田信長の重臣だった「池田恒興」から派生して、その跡を継いだ「池田輝政」が家康の娘を娶った事もあって、その間に生まれた家康の孫にも領地を与えられて、一大勢力となっていく。
こちらは「池田 光仲(いけだ みつなか)」の肖像画で、父親の死に伴い幼少で岡山藩主を継いだものの、幼年だった為に叔父が藩主をしていた鳥取藩と入れ替えで移封されてくる事になる。
池田光仲は徳川家康のひ孫であった為に、改易される事もなく鳥取藩を治めて、その鳥取藩は江戸時代を通じて入れ替わる事なく、明治時代まで存続していった。
池田家は江戸時代まで存続した鳥取藩と岡山藩以外にも、姫路藩・淡路藩・赤穂藩・洲本藩などを治めている時代もあった。しかし、その全てが安泰だった訳ではなく、時には改易された池田家もあり、必ずしも家康の末裔という事で身分が保証されている訳でもなかったようだ。
こちらは和歌山藩第6代藩主:徳川宗直の5女だった「桂香院(けいこういん)」(久姫とも)の肖像画となっている。
桂香院は鳥取藩第4代藩主:池田宗泰の正室となり、嫡男の「池田 重寛(いけだ しげのぶ)」を産む。しかし、池田重寛が産まれて2年後に父親で藩主だった池田宗泰が亡くなった。当初は2歳での家督を池田重寛が継ぐ事に反対の声が挙がったが、母親が紀州徳川家の娘であり、また初代藩主の池田光仲も幼少で藩を継いだ事例もあった為に、池田重寛が家督を継ぐ事が認められたのである。
初代藩主の池田光仲の夫人が”紀州徳川家”から来ていた事もあって、鳥取藩の池田家は御三家との繋がりも強かったようだ。ただ江戸時代後半には紀州徳川家ではなく、”水戸徳川家”からも養子をとって跡継ぎにしており、幕末まで徳川家との結び付きは強かったようだ。
こちらは江戸時代の1737年に当時の征夷大将軍:徳川吉宗が書いた、因幡国と伯耆国の領地を認める内容の『領地判物』の控えとなっている。なお、この書は”写し”の為に、実印ではなく「御判」と書かれているという。
こちらの書物は、江戸時代に『松葉蟹』という呼び名が書かれている最古の文献だという。
この書は1782年頃に書かれた物とされており、この頃に鳥取藩主から津山藩主に贈答品として、「松葉蟹」を送ったという内容が書かれていたようだ。
この時代から『松葉蟹』ブランドが誕生したラク!
鳥取藩を治めた池田家にも分家が2つあり、支藩となった「鹿奴藩(しかのはん)」(※東館新田藩とも)は池田光仲の次男:池田仲澄が祖となり、「若桜藩(わかさはん)」(※西館新田藩とも)は池田光仲の4男:池田清定が祖となっている。
こちらは上級武士が被っていた「陣笠」で、鹿奴藩の東館池田家の家紋であった『丸に揚羽蝶』がデザインされているのが見られる。
こんな旅はまた次回に続きます!
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