鳥取旅行記 2022年6月下旬-13
旅行期間:2022年6月下旬(1泊2日旅)
綺麗な石垣が残る!
ここは江戸時代に鳥取藩の居城となっていた「鳥取城跡」。
そんな鳥取城内でも「二ノ丸」と呼ばれた、江戸時代初期には藩主が住んでいた御殿などが築かれて、藩政の中心地になっていた場所を散策します。
「二ノ丸」の見学
そんな二ノ丸の中でも、明治時代まで現存していた「御三階櫓」が建っていた石垣が、今でも綺麗に残されている。
こちらには明治時代に撮影された「御三階櫓」が、写っている古写真も記載されている。
ちなみにこの御三階櫓は江戸時代中期以降に天守が無かった事もあって、長い間、鳥取城内では天守代わりの存在感を出していた建物でもあった。また、当時に存在していた三階建ての櫓の中でも、国内では最大級の大きさだったとされている。
そんな御三階櫓が建っていた石垣の上に登る事ができる。ただし、この御三階櫓は現在鳥取城が行っている城の復元計画に含まれており、20年後位にはこの場所に新しく復元された櫓が建っている光景が見られるかもしれない。
鳥取城では明治維新を迎えた際にそれなりの建造物が存在していたが、明治9年(1876年)にこの鳥取県が島根県に編入されてしまった為に、島根県の県庁所在地にあった松江城1つだけを残せばいいだろうという事もあって、この鳥取城の建造物は殆ど解体される事になってしまった。
そんな約150年前の人々が取り壊した建物を、現代人が50億円近くを投じて、またその建造物を再建するというのだから、本当に人類の生き方ってのは皮肉的であり、また無駄な行為が多いように感じる。
本当に人間はゴミを作るのが上手い生物ラク!
こちらはさっき通ろうとしたら、奥の門が復元工事中で通れなかった「中ノ御門」。高麗門となっている「表門」は2021年に復元済だけど、その内側にあった「二の門」を復元中の為に、残念ながらこの門の通路は通れない状態となっていた。。
そんな門の脇に見えるのが、明治時代の終わりに建造された西洋建築の「仁風閣」。
明治維新を迎えた官僚らは、西洋列強から取り残された日本に危機を感じて、急速に西洋の最先端文化を取り入れて近代化を図った。その為に明治時代には多くの西洋建築や、西洋風建築物が建てられる事になった。
ただ、明治時代に建造された西洋建築物は、木造建築ばかりだった事もあって、現代にまで現存している建物は全国的に少なくなっている。その為に今でも現存している明治時代の西洋建築物は、文化財として保護されている建物ばかりとなっている。
そして御三階櫓跡から本丸のある久松山の山頂を眺めてみるが、このように山頂周囲に木々が生い茂っている事もあって、ここからだと全くその様子が見られない。
そしてこの鳥取城を居城としていた鳥取藩は、石高32万石という大大名でもあったので、この二ノ丸も結構広い敷地となっている。個人的にこの鳥取城に訪れるまでは、勝手に”小さな城”と勘違いしていただけに、この広さに驚かされたのである。
鳥取城を舐めてんじゃね~~ラク!
「走り櫓跡」にて
そして御三階櫓跡から東南側に歩いて行くと、こちらの「走り櫓跡」という碑が見えてくる。この二ノ丸の南東隅に「走り櫓」がかつて造られており、先程の御三階櫓との間に土塀が築かれて繋がっていたそうだ。
そして走り櫓跡からは、このようにまだまだ櫓が築かれていた石垣跡が、何層か見えている。
中央に見える石垣は「菱櫓」という菱形の櫓が建てられていた場所で、更にその奥に見えている大きな石垣は「天球丸」という、江戸時代に入ってから入城してきた池田長吉の姉「天球院」が住んでいた屋敷があった場所となっている。
遠くから鳥取城を見ている分には、この久松山の麓にこれだけの高さのある石垣が築かれているとは思えない光景だった。
しかし、32万石という大名レベルだった城だけあって、近くで見てみると、かなり立派な城郭が築かれていた。
このように今では櫓が消え去ってしまっている石垣にも、幕末に存在していた櫓の復元計画があるので、この辺りの景色も20年後位には大きく変化してしまっているのかもしれない。
「菱櫓跡」にて
そしてさっき見えていた「菱櫓跡」の石垣に向かう。ただ、この6月下旬は夏がもう始まっていた事もあって、かなり日差しがキツかった。その為にこの鳥取城二ノ丸の見学をしていると、あまり日影が無かったので、紫外線対策に日傘なども持参した方が良さそうな場所となっていた。
この「菱櫓跡」はそこまで広くはないけど、2階建の櫓が明治時代まで現存していたようだ。
また、ここの石垣から「菱形」に造られており、その為にここに造られた櫓まで「菱櫓」と付けられていたようだ。
このような江戸時代に造られた櫓などの建造物は長方形や正方形の四角い形だけかと思っていたけど、その立地によって、菱形の建物も造られていたようだ。現代でもそこまで菱形の建物を見る機会がないけど、江戸時代にもその場所に合わせて特別仕様で造られた建物だったのかもしれない。
この菱櫓跡なども、二ノ丸内に桜の木が植えられている事もあって、桜の花見の時期にはシートを敷いて花見するには最高の場所かもしれない。ただ、ここは城跡でもあるので、ここで実際に花見できる可能性は少なそうだが。。
そしてまだ奥に「天球丸」の立派な石垣が見られるし、更にはこの山の上に本丸が築かれていたという事から、まだまだワクワクする気持ちが湧いてきて、”堪らない鳥取城”という雰囲気だった。
そして山の上に向かう階段には、先程見えたガイドツアー一行が登って行っていた。
ただ、このガイドツアー一行はこれから山頂にある本丸まで登る訳ではなく、この階段近くにある場所を見学しただけで、降りてきていたのであるが。。
そして菱櫓跡の石垣には、このように石を割る際に入れられた「矢穴」の跡が見られた。
石垣に使われた石も、元々は大きな石だったのを割ってから、削って使っていた。その為にこの石も当初はもっと小さな石に割られる予定だったのが、予定変更してこの場所に使われたのかもしれない。
今では雑草が生えた地面と、綺麗に積まれた石垣跡しか見られない鳥取城跡。
見方によっては今から1000年以上も昔の古代文明の遺跡みたいにも思えるが、実際には江戸時代に使われていた城なので、今から約300年前頃に賑わっていた場所である。
天球丸の石垣下へ向かう!
そして菱櫓の後ろにあった立派な「天球丸」の上に行く前に、ちょっと寄り道しておきたい場所があったので、その場所に先に向かう事にした。
しかし、その道はこのように「立ち入り禁止」となっていて、入れないかとガッカリした。
しかし、その「立ち入り禁止」にすぐに諦めるのではなく、その周囲に別の入れる道がないかを探してみる事にした。
私は諦めて、先に進みたかったけどな・・・
こちらは先程上に登った「走り櫓」の石垣で、下から見てみると、それなりの高さの立派な石垣が築かれている事に気付く。
このような立派な石垣を見ると、『鳥取32万石』が伊達では無かった事を実感するのである。。
そして脇道を降りていくと、これから行きたいと思っていた場所に向える小道を発見して、嬉しくなって飛び跳ねてしまいそうな感じで、先を進んで行く。
そんな小道の先にあるのは、こちらの案内板にも書かれているように”国内唯一の球面石垣”だとされている「天球丸の巻石垣」である。
この鳥取城では「登り石垣」や「巻石垣」など、他の城跡では見かける事の出来ない構造物が残されている。
ただ、「登り石垣」は彦根城でも見かける事が出来たけど、この「巻石垣」はこの鳥取城でその存在を始めて知ったのである。。
そしてその小道を進んで行くと、奥の石垣の中に、「巻石垣」と呼ばれる球体に石が積まれた珍しい部分が見えてくる。
石垣は「角」が基本な構造で積まれているのが大半なので、「何でこんなに丸く石が積まれているの??」という疑問が頭に思い浮かんでしまう場所でもあった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓鳥取旅行記:初回↓↓