斜めの敷地に造られたマンション、残った架線柱を辿って見えたその理由!【南海平野線跡⑪】

南海平野線跡(2023年6月)-11

訪問:2023年6月

全てに理由あり!

阿倍野区 阪神高速道路脇にある架線柱

約40年も前に走っていた南海平野線の線路跡を辿って、阿倍野区の阿倍野交差点付近までやってきた。

そこには、このように今では使われなくなっている南海平野線の架線柱が、今でも立ち並んでいる光景が見られた。

 

チェック

【南海平野線の駅】

・今池駅(阪堺線と共通)
・飛田駅  ⇐今回はココ
・阿倍野駅(斎場前)
・苗代田駅
・文ノ里駅
・股ヶ池駅
・田辺駅
・駒川町駅
・中野駅
・西平野駅
・平野駅
※天王寺駅前方面は含まず

 

 

架線柱を辿って西に進む!

阿倍野区 ベルタ周辺のマンション

天王寺駅~阿倍野交差点までの道路を挟んだ西側一帯は、1970年代から実施された『阿倍野再開発事業』によって、今では多くの大型マンションや商業ビルなどが乱立するエリアとなっている。

 

「阿倍野再開発事業の移り変わり」(1979~83年&2017年頃)---地理院地図より加工済

「阿倍野再開発事業の移り変わり」(1979~83年&2017年頃)—地理院地図より加工済

その『阿倍野再開発事業』でこの一帯は、小さな家などの建物は全て取り壊されて、大きな建物が立ち並ぶエリアとなった。

 

そしてその一帯は天王寺駅まで歩いて行ける立地のいい場所でもあったので、多くの人が流入してきた。

 

しかし、最近は南端に造られた商業ビルも兼ねた「あべのベルタ」の中に入っていたテナントが、ガラガラとなってとても寂れてしまっている。

ただ住むだけだと、便利な駅近くのいい場所にあるが、商売の流れは天王寺駅近くの「あべのキューズモール」や「天王寺ミオ」などの商業ビルに大きく奪われているのが現状である。。

オカン
オカン

確かに最近は「ベルタ」に行かんようになったな・・・

 

千秋通りを西に進む 並ぶ架線柱

そんな再開発事業で建てられた大きなマンションなどを横目に、手前の道を西に進んで行く。

この道路を挟んだ北側には南海平野線の架線柱は残されていないが、こちらの歩道側には奥まで架線柱が続いていた。

 

阪神高速道路脇 大阪市設南霊園

なお、先程見た「阿倍野駅跡」は、かつては「斎場前駅」という名前だった。

 

「戦前の阿倍野墓地」(1936~42年)---地理院地図より加工済

「戦前の阿倍野墓地」(1936~42年)—地理院地図より加工済

というのもこの阿倍野交差点の南西側一帯には、明治時代の初期にこの場所に移転してきた「阿倍野墓地」と、その移転と同時期に造られた「斎場」があったからだ。

 

ちなみにこの「阿倍野墓地」は、千日前と飛田にあった墓が移転してきたものである。

江戸時代には『7墓』と、大阪では7つの決められた場所にしか墓がなかった。

 

その1つである「千日前墓地」は、大阪に古くから住む人は当然の如く知っている事だが、今の「ビックカメラ なんば店」が建っているエリアにあったという。

今ではミナミの繁華街を代表する一等地となっている「千日前墓地跡」も、墓地が移転した明治初期には墓跡という事で、誰も引き取り手がいなかったという。

 

その為に『灰処理代』として、千日前墓地跡の土地を購入する人向けに援助金を出して、販売しないといけない程に不人気な場所だったようだ。

沈沈クン
沈沈クン

タイムスリップして、その時代の千日前の土地を買い占めたいワ!

 

千日前にあった『楽天地』( 「楽天地 (大阪)--Wikipediaより引用)

千日前にあった『楽天地』(楽天地 (大阪)–Wikipediaより引用)

そんな風に無理やり千日前墓地跡を販売して、見世物小屋などが立ち並んで墓跡や刑場跡の雰囲気が忘れられた1914年頃に、こちらの『楽天地』というレジャー施設が造られたという。

 

「千日前にあった楽天地」(1928年頃の航空写真)---地理院地図より加工済

「千日前にあった楽天地」(1928年頃の航空写真)—地理院地図より加工済

1928年頃の航空写真を見てみると、確かに「ビックカメラ なんば店」のある一画に、それらしき円錐形の屋根をした建物らしき物体を確認する事が出来る。

 

 

「千日前にあった大阪歌舞伎座」(1936~42年頃の航空写真)---地理院地図より加工済

「千日前にあった大阪歌舞伎座」(1936~42年頃の航空写真)—地理院地図より加工済

そして千日前が賑わう繫華街として発展し、その跡地には大阪歌舞伎座が建設されて、ミナミの中心地として更に賑わう事になる。

 

それから大阪歌舞伎座は1958年に南海難波駅前に造られた「新歌舞伎座(初代)」に移転し、その歌舞伎座の建物は改装されて『千日デパート』という商業ビルが誕生する。

※上のGoogleマップ・ストリートビューは、新歌舞伎座(初代)の跡地に造られている「ホテルロイヤルクラシック大阪店」の建物。

 

この『千日デパート』という名前を聞いた70歳以上の大阪人なら、誰もが頭に思い浮かべるのが有名な「千日デパート火災事件」だろう。

この火災では死者118人を出し、かつて処刑場だった千日前で殺された人の怨念だとも言われた事件であった。

知り合いに、この日に建物内のスナックで飲んでたという人も居ましたね。。

オカン
オカン

この時はエラい騒ぎで、見に行ったわ!

 

「ビッグカメラ なんば店周辺の航空写真」

「ビッグカメラ なんば店周辺の航空写真」(2017年頃)—地理院地図より加工済

火災を起こした千日デパートは数年放置された後の1981年に解体され、その跡地に「エスカールビル」という地下2階&地上9階建ての商業ビルが建設された。

この商業ビルは「プランタンなんば」として営業し、後にダイエーの建物に移管して、今では「ビッグカメラ なんば店」の建物となっている。

 

 

阪神高速道路脇 大阪市設南霊園 内部の景色

このように大阪市内に存在していた「7墓」と呼ばれた墓地の歴史を調べてみると、色々と出てくる。

また、今では焼き場は喜連瓜破に移転したものの、「大阪市設南霊園」として明治初期から設置されているお墓が今でも並んでいる。

 

大阪市設南霊園  五代友厚のお墓

それとこの霊園には、幕末の薩摩藩出身で大阪市と日本の発展に大きく貢献した「五代 友厚(ごだい ともあつ)のお墓も安置されている。

沈沈クン
沈沈クン

大阪市の発展に欠かせない人物やで!

 

 

阪堺電車の架線柱を辿っていく!

千秋通りを西に進む 並ぶ架線柱と電線

そのような歴史を垣間見ながら、更に南海平野線の架線柱と電気ケーブルは西に向かって延びていく。

 

南海平野線 千秋通りを西に進む車窓から

南海平野線:阿倍野駅西側に進む車窓【Youtube動画】『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』より引用)

このように過去の動画を見ると、確かに今歩いている「千秋通り」とも呼ばれる道のど真ん中に、南海平野線の線路が存在していたようだ。

 

『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』

 

千秋通り 架線柱間の電線 600V危険の文字

そして南海平野線の架線柱間に繋がるケーブルには、このように『600V危険』(阪堺電気軌道KK)という文字が見られる。

この表示から、まだこの電気ケーブルが阪堺電車で使われている事を暗示する内容となっていた。

 

千秋通りを西に進む 

そして西平野駅周辺から、かつての南海平野線の線路脇を通っていた阪神高速道路は、ここで大きく右側(北)にカーブしていく場所に出てくる。

この阪神高速道路は南海電鉄の所有する土地の上に建造された高速道路だが、南海平野線とはここでオサラバとなるようだ。

 

千秋通りを西に進む 飛田手前の場所

そしてこの阪神高速道路が北側に向っていく先には、奥には通天閣が小さく見えているが、その手前には飛田新地がある。

 

その飛田周辺にも「鳶田墓」という、『大坂7墓』の1つである墓地と処刑場が存在していた場所のようだが、今の飛田新地があるエリアから、やや北西寄りにあったとも考えられている。

火事を起こした罪人は、その鳶田処刑場で死刑になっていたとか。。

 

千秋通りを西に進む 坂道を下っていく

このように今では何気なく通っている場所も、意外と江戸時代の墓地や処刑場の上だった事も普通にありえるのだ。

ただ人間という生き物は自分に都合の良い事だけを選択して生きガチな生き物なので、目の前に死体や墓石が見えなければ、そういった”死人の霊”などを意識する事もなく、墓地跡でも平気で歩けるようだ。。

ブッダ君
ブッダ君

地球が誕生してから50億年近いので、何かが死んだ場所だらけじゃよ!

 

南海平野線の「鳶田手前の下り坂」

南海平野線の「鳶田手前の下り坂」【Youtube動画】『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』より引用)

目の前に見える下り坂には、南海平野線の線路が道路の中央を走っていて、その当時には歩道は設置されていなかったように見える。

 

ただ線路が撤去された今では、道路の真ん中を往復1車線ずつ車が走り、その脇には専用の歩道が設置されている。

 

千秋通りを西に進む 高速道路下の架線柱

そしてその歩道の脇にも、先程の阿倍野交差点から続いて並んでいる架線柱が、まだまだここから先へと延びて並んでいる光景が見られる。

沈沈クン
沈沈クン

どこまで続いているか、カンの良い人はもう気付いたヤロ?!

 

千秋通りを西に進む 高速道路下

このカーブしていく阪神高速道路の先には「阿倍野入口」が設置されているが、そこまでの間は飛田新地の中を貫くコースで高速道路が設置されているのだ。

 

「飛田新地を貫く阪神高速道路」(1936~42年&1974~78年&2017年頃)---地理院地図より加工済

「飛田新地を貫く阪神高速道路」(1936~42年&1974~78年&2017年頃)—地理院地図より加工済

この航空写真を見れば、阪神高速道路の松原線阿倍野入口周辺では、飛田新地を貫通してその高速道路が造られていった様子が見て取れる。

沈沈クン
沈沈クン

これで立ち退きなった人は、エエ金貰えたんちゃうかな!

 

千秋通りを西に進む 高速道路下の架線柱2

そんな高速道路の下を通過して坂を下っていくと、ここでも左手に架線柱が並んでいるのが見える。

ちなみに左の下の空き地には公園らしきスペースが設けられているが、ここで子供が楽しそうに遊んでいる光景を見た事がないのだが。。

 

千秋通りを西に進む 高速道路下をくぐる

そのまま坂を下っていくと、「千秋通り」と呼ばれる道は西に向かって花園町交差点へと向かうが、南海平野線はこの辺りから右側にカーブしていくポイントだった。

 

 

「飛田駅跡」にて

千秋通り 飛田駅跡周辺

この辺りから緩やかに右側(北側)にカーブしていくポイント途中に、かつて「飛田駅跡」が存在していた場所でもある。

今ではこのように南海平野線の線路跡の土地は、金網で区切られた場所となっていて、ここでもその痕跡が垣間見られる。

 

【飛田駅跡】

住所:大阪府大阪市西成区山王3-16

 

 

千秋通り 飛田駅跡周辺 斜めの敷地に建つマンション

そんな「飛田駅跡」があった場所の奥には、こちらの10階建の横幅が細いマンションが、方角にして東南方向を向いて立っているのが気になった。

 

「南海平野線の線路跡に造られたマンションの航空写真」(2017年頃)---地理院地図より加工済

「南海平野線の線路跡に造られたマンションの航空写真」(2017年頃)—地理院地図より加工済

航空写真を見てみると、このように”斜めに建てられた”というよりは、「斜めに走っていた線路跡の土地に合うように、斜め向きに建てられたマンション」というのが正解かもしれない。

 

千秋通り 飛田駅跡 空き地

そのように線路跡の空き地に建物が建って活用されている土地もあれば、この飛田駅跡は金網で囲われていて、その中では家庭菜園が行われている景色が見られた。

 

この飛田駅には道路を斜めに対向車線を貫いて南海平野線が走っていくのだが、対向車線には踏切に遮断機が設置されていなくて、危なっかしい踏切にしか思えない場所ともなっている。

沈沈クン
沈沈クン

東南アジアの町中を見ているようやな!

 

千秋通り 飛田駅跡 空き地とマンション

この場所には南海平野線が開業当初から設置されていた「飛田駅」が存在していた場所だが、この辺りから斜めに湾曲するように線路は北側に曲がっていき、その先の道路を横切って阪堺線に合流していた。

 

「飛田駅跡周辺」(1974~78年)---地理院地図より加工済

「飛田駅跡周辺」(1974~78年)—地理院地図より加工済

なお、この飛田駅から阪堺線に合流するポイントは、盛り土された高台に線路があった為に、堺筋の道路を横切った後にそれなりの勾配ある坂を一気に登る必要があった。

そんな登り坂も普通の時であれば特に問題ないが、恵美須町方面の電車が詰まっている際に、車両間隔の調整で坂の手前で停車する可能性があった。

 

 

阪堺線との合流ポイント【Youtube動画】<a href="https://www.youtube.com/watch?v=w4-hsq0tL78&t=549s">『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』</a>より引用)</span>

阪堺線との合流ポイント【Youtube動画】『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』より引用)

この動画ではその坂の勾配は分かりにくいけど、手前で一旦停まってから動き出すには”難易度の高い勾配”となっていたようだ。

沈沈クン
沈沈クン

それで「平野線運転士の腕の見せ所」とも言われたな!

 

千秋通り 飛田駅跡 空き地 ベンチ

そんな飛田駅跡の金網フェンスの中には、このように寛いでお茶を楽しむようなテーブルと椅子も見られる。

しかし、この金網フェンス内には人の姿は確認できないし、施錠されていて中には入る事も出来ない。。

 

千秋通り 飛田駅跡周辺 斜めの敷地に建つマンション 見上げる

斜めの方角を向いて建っていたマンションと共に、その土地に隣接する建物も同様に斜めに沿って境界線があった。

 

別に道が斜めになっていたりするのはごく普通の事で、東西南北に対して斜めに建っている建物などは幾らでも存在している。

しかし、航空写真を見れば、周囲の建物に比べて目につく”斜め”となっているのも、南海平野線跡の名残だったのである。。

 

 

※電車好きでもない人間が調べた内容なので、間違っている情報や追加情報などがあれば、コメント欄にてご指摘頂ければ幸いです。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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