鳥取旅行記 2022年6月下旬-11
旅行期間:2022年6月下旬(1泊2日旅)
生まれ変わる城!
さて駅前近くから徒歩で約30分かけて辿り着いた、鳥取藩の居城があった「鳥取城跡」。
標高263mの「久松山(きゅうしょうざん)」の山頂に本丸が造られており、二ノ丸など藩政が行われた場所は山の麓周辺に築かれていた。
鳥取城跡へ向かうには、手前の「山の手通り」沿いに水が張った内堀があるので、それを渡るか、迂回して城内へと進む必要がある。
鳥取城跡にある吉川経家の銅像
城の手前に左右に延びる山の手通りの道路脇に、1体の銅像を見かけたので近寄ってみた。
すると、こちらは1993年に設置された「吉川 経家(きっかわ つねいえ)」という人物の銅像で、戦国時代に毛利家の家臣であった武将であり、晩年にはこの鳥取城の城主を任されていた人物だった。
この吉川経家が活躍した時代は、織田信長が台頭してきて近畿を掌握し、更に西の中国地方へと侵攻してきた頃である。織田軍は中国地方の侵攻に羽柴秀吉を抜擢し、秀吉が毛利家の支配下にあった中国地方の城を次々に攻略していった。
そしてこの鳥取城も羽柴秀吉の軍勢に落とされて織田家の城となったが、後に毛利家に奪還された為に、再び羽柴秀吉の軍勢が攻めてくる事になる。その際に秀吉は中国地方の城を攻める時に行っていた『兵糧攻め』を、この鳥取城でも展開する事にしたのである。
こちらの説明では、鳥取城に籠城した毛利家の城主:吉川経家の元には、およそ20日分の食糧しか備蓄されていなかったようだ。そこに秀吉は更に周辺の農民2000人程を追い立てて、鳥取城に逃げ込ませて、その周囲20km範囲を取り囲んで物資の供給を断ち切った。
毛利家からは食糧の援助が送られたが、秀吉の敷いた包囲網によって、鳥取城内に食糧は届けられずに、どんどんと時間が経過していった。すると1ヶ月も経たない内に食糧が尽きて、伝説としても語られる程の『壮絶な飢餓』が鳥取城内の吉川経家軍勢と農民たちに襲い掛かった。
それでも白旗を挙げなかった吉川経家の元で、更に1~2ヶ月が経過すると、多くの農民や兵士達が餓死していき、更には死んだ人間の人肉を喰らう”壮絶な地獄絵図”の修羅世界に化していったという。
人間も死に掛けた極限状態に陥ると、共喰いを始めるラク・・・
そして籠城戦を開始してから約4ヶ月が経過した所で、周りの人達が次々に餓死していく姿を見させられて、吉川経家は遂に観念した。そして開城し、自分が切腹する事で残りの人間を助けるという条件を出して、和睦した上で切腹して果てたのである。。
戦国時代の戦いというと、兵士達が刀で斬り合ったり、騎馬隊が突撃していったりするシーンを思い浮かべるけど、このような実戦を行わない「籠城戦」が意外と多く採用されていた。籠城戦だと無駄に兵士を戦死させる事もないので、相手との”コンクラーベ”のような持久戦で、ギブアップするまで続けられる事が多かったようだ。
復元された「擬宝珠橋」と「中ノ御門表門」
そして鳥取城の正門があった場所には、こちらの「擬宝珠(きぼし)橋」と大手門であった「中ノ御門表門」が、それぞれ2018年と2021年になって復元されている。
この鳥取城跡では、2006年から約30年の歳月と約51億の予算を費やして、幕末時代の鳥取城の姿を復元する計画が行われている。その計画に先立ち、擬宝珠橋と中ノ御門表門がまず復元されていたのだ。
鳥取城が築城された久松山の山頂には本丸が造られていたが、そこにあった天守は1692年の落雷によって焼失してしまっている。そしてその落雷後に天守の建物は再建されなかったので、今の所は天守が再建される可能性は低そうだ。
2021年に復元された大手門だった「中ノ御門表門」は、明治時代初めまで現存していたが、明治8年に陸軍によって取り壊されてしまった。その際に他の現存していた門なども殆どが取り壊されてしまい、ほぼ江戸時代の建造物が見られなくなってしまっている。
擬宝珠橋からの眺め! 動画
鳥取藩は江戸時代に外様大名としては、全国で10番目近くの規模が大きかった大名だった事もあり、それなりに大きな城となっていた。鳥取市内は”鳥取砂丘”が全国的に有名な観光地になっているが、建造物がほぼ現存していない鳥取城跡は、意外とマイナーな存在になっている。
しかし全国的に10番目の大大名でもあった鳥取藩の居城:鳥取城は、想像していた以上に大きな城郭となっていた為に、その跡地は見応えがあった。そしてかつての姿を取り戻すべく、復元作業も進んでいるので、建造物が増えて行けば一般観光客も足を運ぶ人が増えていきそうにも思える。
そんな鳥取城跡にあった建造物の復元では、鉄筋コンクリート造りなどではなく、昔ながらの築城技法が使われた木造建築となっているので、江戸時代の雰囲気を感じやすい建物ともなっている。
ただこの訪問時期は、中ノ御門表門の先にあった「中ノ御門渡櫓門」の復元工事中だったので、これ以上ここから中に入る事が出来なかった。
【鳥取城跡「中ノ御門渡櫓」の復元】
鳥取城の大手門だった中ノ御門では、江戸時代の城でよく見られた枡形の形になっており、その”二の門”である渡櫓門が2024年中の完成を目安に復元工事中となっていた。
建造物が全く無い城跡だと、”城マニア”は想像を膨らませて昔の姿を脳内で妄想して楽しむ事ができるけど、一般人は「何もない場所・・・」としか認識できない。その為に今後のインバウンド事業も兼ねて、このような昔存在していた建造物を復元し、観光客に判り易い観光地として、鳥取城の復元に力を入れているようだ。
復元中で通り抜け出来なかった中ノ御門から擬宝珠橋を戻って、山の手通りを西側に迂回して、鳥取城内へ向かう道へと進む事に。それにしても鳥取城の本丸が山の上にあった久松山も、今ではこのように木が生い茂っており、本当にこの山頂に本丸があって、そこに天守の建物が建っていた時代があったとは想像しにくい光景であった。
実際に山の上に登ってみると、本丸があった事がよく分かるラク!
そして内堀沿いにあった山の手通りは、ご覧のように綺麗に舗装された道路となっていて、その脇にはレトロな雰囲気を感じさせてくれるガス灯っぽい街路灯が並んでいる光景が見られる。
久松公園の入口にて
そして西側の入口には、こちらの「鳥取城跡/久松公園」という文字が彫られた碑が見られる。
この鳥取城跡もその跡地に公園があって、それ以外にも「仁風閣(じんぷうかく)」という明治時代の洋風建築物や、「鳥取県立博物館」なども造られている。
こういった城跡を案内する地図だけを見ていると小さく見えていたけど、実際に鳥取城跡の敷地内を歩き回ると、さすが30万石の大名の居城だっただけに、かなりの広さに感じた。。
山頂の本丸に登る人は、それなりに覚悟が要るラク!
この入口から先に車も入れるようになっていたけど、中は博物館の駐車場に行けるだけとなっている。
山頂の本丸跡までは車で行く事が出来ずに、今では徒歩での登山だけでしか行く事ができない。1969年にロープウェイが運行開始された時代があったが、利用客が少ない事もあって、約7年間で廃止されてしまっている。
そんな久松公園の入口には、「ウサギ追し~彼の山~♪」でお馴染みの童謡『故郷(ふるさと)』を作曲した、作曲家「岡野 貞一(おかの ていいち)」の出身地という事もあって、こちらの楽譜が刻まれたレリーフが嵌め込まれた石碑が見られた。
童謡『ふるさと』を作詞した「高野 辰之(たかの たつゆき)」は長野県出身だが、このふるさとの歌碑はここ鳥取と共に長野県にも設置されているという。
【故郷 /ふるさと】
そんな歌碑の脇には、このようなボタンを押すと『ふるさと』の音楽が流れる設備が置かれていた。
なお、この機械では何と8種類の歌手違いで歌われた『ふるさと』の曲が内蔵されていた。
その為に、色んな人の好みによって選曲が異なるが、それぞれに満足できるカテゴリーの歌手となっていた。
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再生される『ふるさと』の音楽!
岡野 貞一はキリスト教徒として育ち、教会に通っていた際にオルガンの演奏を覚えていく。
そして岡野 貞一は学校唱歌と共に、100を超える校歌の作曲もしている。
懐かしい童謡『ふるさと』の曲が流れる、鳥取城跡の内堀。
ただ、昨日と同様に今日も天気が良かった事もあって、6月下旬にしては強烈な日差しが照りつけていた。その為に、撮った写真を見返しても、かなり明るい写真ばかりとなっていた。
この道にもかつては「北ノ御門」という門が造られていた場所だった。
しかし、この北ノ御門も戦乱が無くなって、新しい時代となった明治時代にはその姿を消してしまうのであったが。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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