犬山城&岐阜城旅-11:訪問 2022年9月下旬
旅行期間:2022年9月下旬(当日旅)
信長一色!
岐阜市内の長良川沿いにある標高300m近くの金華山頂に造られている、こちらの復興天守である「岐阜城」の天守前にやっと到着した。
住所:岐阜県岐阜市金華山天守閣18番地
営業時間:9時30分~17時30分頃(※年中無休)
※10月17日~3月15日は16時30分頃まで
電話番号:058-263-4853
入館料:大人200円/子供(4歳~16歳未満) 100円
※車での登城コースは無し
岐阜城にて!
山頂付近まで登ってくると、さっき近くで眺めてみた長良川もこのように遥か遠くに見えている。
この岐阜城が配置されている場所は長良川の畔にあって、長良川が天然の外堀として防御機能として活かされていた。
模擬天守に入城!
現在金華山の山頂に造られている天守閣の建物は、昭和31年(1956年)に新しく再建された物となっている。
江戸時代にはこの場所に城はなく、明治時代の終わりに木造の模擬天守が造られるまで約300年に渡る長い間、ここに天守閣が存在していなかったのである。
明治時代終わり頃に建造された木造の初代:模擬天守は、1943年に失火で燃えて全焼してしまったそうだ。
近くで焚火をして、その火が燃え移ってしまったとか・・・
岐阜城を燃やした奴は成敗するんじゃ!(怒)
そして戦後の1956年に再び模擬天守が、今度は鉄筋コンクリートの3層4階建てで建造された。
今度は簡単には燃えないぞ!
なお、入城チケットに印刷されていた岐阜城と月が重なる写真は、最近写真家の間で人気の構図になっているようだ。
調べてみるとどうやら岐阜に住んでいる人が撮影したのが人気となり、それにメディアも便乗して大きく取り上げた事により、この城と月を重ねて撮影する写真構図が広まったようだ。
アンタのスマホでは撮影できんね・・・
まずは「岐阜」という、この地に付けられた名前についての説明から始まる。
この場所は元々は”美濃国井之口”にあった山で、「井口」や「稲葉山」などと呼ばれていた。
その後に信長がこの地に城を築く際に、中国故事などから選んだ文字で「岐阜」と命名したと考えられている。
こちらには表面が金色の織田信長像のミニチュアが展示されていた。
このミニチュア像は2009年に『岐阜市制120周年』を記念して、JR岐阜駅の北口広場に造られた銅像を小さくした物。
岐阜駅前に設置されている実際の信長像は、高さ約3mでなんと外側は金箔貼りとなっているそうだ。
外側だけ金じゃなくて、丸々金で造って欲しかったぞ!
戦国時代までの山城では、山頂に造られた天守付近に住んでいる城主もいたようだ。
この岐阜城を本拠地とした織田信長も、この山頂に築いた城を邸宅としており、さっき見た麓の御殿は奥方や来客をもてなす為に使っていたという。
そして2階へと登っていくと、その先に織田信長が麓に築いていた御殿を再現シュミレーションした写真が飾られていた。
この岐阜城麓の御殿にしろ、滋賀県にあった安土城にしろ、その戦国時代には前例のなかったような豪華な建造物だったと考えられている。
しかし個人的には、織田信長という人物が歴史的に評価され過ぎており、このような建物もその持ち上げられたイメージで過大評価されているようにも思えてしまう。
個人的には戦国時代で一番好きな武将なんですが。。
無礼者め、斬り捨ててやるわ・・(怒)!
こちらは現在の金華山の山頂の様子を、ミニチュア模型で制作した物。
こうやって見ると、天守閣の位置が周囲のチャート断崖で阻まれて、天守への侵入路が少なくて攻めにくいように思える。
織田信長時代に築かれた岐阜城天守は、その後に廃城となって江戸時代早々に姿を消してしまった。
そしてその時代の資料が残っていなかった為に、明治終わりに建てられた天守は”観光用模擬天守”として、元の城とは違う建物が造られる事になった。
また現在の2代目天守はその明治時代の初代天守を再現した訳ではなく、他の現存する天守を参考に新しく設計された物となっている。
こちらは岐阜城麓の御殿跡を発掘調査した際に、出土してきた”元々金箔貼りだった菊紋瓦”を復元した物となっている。
南蛮文化の影響で豪華絢爛な装飾を好んでいたと考えられている織田信長の居城らしく、当時の贅を凝らした金瓦となっていたようだ。
こちらは一緒に出土した、同様に”元々金箔貼りだった牡丹瓦”である。
これらは出土後に金箔が貼られて、当時の姿が復元されているようだ。
こちらは山城だった岐阜城を織田信長が治めていた時代の様子を、推定して再現したグラフィックである。
後に本拠地として移す安土城のように、天守へ登る階段脇には家臣などの屋敷も配置する事によって、守りも固めていたのだろう。
そして次は、何やらそれなりに威厳のある人物の座った木像が見えてくる。
この木像はあまり見慣れない顔をしているが、誰なんだろうか?
さすが織田信長の岐阜城だった事もあって、ここに展示されていた木像は「織田信長坐像」(複製品)であった。
この木像は京都市の大徳寺:総見院に収蔵されている、1583年に織田信長の死去から一周忌を迎えた法要の為に作られた物とされている。
織田信長の一周忌法要の為に建立された大徳寺:総見院で、この「織田信長坐像」は2体作られて、その1体は遺骸の代わりに火葬され、この1体はそのまま残されて今に至っているという。
もう少し男前だったんじゃが・・・
こちらは昔に描かれた日本とその周辺国の地図だが、この当時はまだ北海道は日本国として認識されていなかった事もあって、北海道の土地のサイズが小さく見える。
この「遠眼鏡」(望遠鏡)も、戦国時代にポルトガルから伝来した物。
それまでは城の物見台からは肉眼を凝らして敵が攻め込んでこないかを確認していた時代だったから、この遠眼鏡を始めて使った人は、この道具で遥か彼方まで見渡せれる事にいたく感激した事だろう。
そして見えてきたのが、日本国内の鎧兜には思えない程豪華な装飾が施されている、織田信長が使っていた鎧兜のイメージで作られた「銀箔押南蛮具足」である。
織田信長が実際に使っていた鎧兜は残されていないけど、この鎧兜は中世ヨーロッパの王様風デザインのように見える。
ただ、現代に新しく想像して作られた物なので、だいぶ近代の”織田信長イメージ”が含まれた物ともなっているが。。
こんな鎧兜を着てみたかったぞ!
こちらは京都に存在した南蛮寺礼拝堂内に描かれていたと考えられている、織田信長の肖像画である。
南蛮文化を気に入っていた信長らしく、キリスト教の礼拝堂内に織田信長が描かれていたなんて、想像するだけで面白く思えてしまう。
そして明るい光が差し込んでいる、岐阜城天守の最上階を目指して階段を登っていきます。
そしてこちらが1956年に完成した模擬天守:岐阜城の最上階。
戦国時代の覇権をこの手に収めつつありながらも、家臣に裏切られて果ててしまった織田信長。
ただ、このような織田信長が実際に居たと考えられている地を訪れると、「もし、織田信長が生きていたら、日本はどうなったか?」と思わず考えてしまいそうになるのであった。。
歴史に『IF』はないぞよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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