南海平野線跡(2023年6月)-7
訪問:2023年6月
針中野の由来!
大阪市内を東西に走っていた南海平野線。
その痕跡を探しにやって来た東住吉区針中野に、かつて存在した「中野駅」跡の痕跡が匂う場所を見つけた。
「針中野」の由来を探して!
そしてここから次の平野線の駅跡を巡る前に、ちょっと寄り道する事にした。
いつもながらの”脱線的な寄り道”であるが、そこには南海平野線の面影を残す物が現存しているからでもあった。
この辺りの地名は「大阪市東住吉区針中野」となっている。
大阪市に住んでいる人からすれば、この「針中野」という地名を耳にしても特段驚く事もなく、聞き馴染みのある地名なので、特に深く考えない事だろう。
しかし、地名には全て何かしらの意味や理由があって付けられているので、この「針中野」にも勿論その由来がある。
ただ、その「針中野」の由来について、簡単に答えが出てくる人も意外と少ないのではないだろうか。
読み方は知ってても、意味までは全然知らんデ!
というボクも針中野の由来については最近知ったばかりなのであるが、その由来は南海平野線の面影を残す道標がヒントにもなっている。
街中にはこのような古い道標が道路脇に残っている所もあって、この針中野の路地にあった道標には
「👈はりみち」
「👉でんしゃのりば」
と文字が彫られていた。
※道標の下部分は道路に埋まっているようです。。
この道標に記されていた「👉でんしゃのりば」こそ、南海平野線の「中野駅」であり、南海平野線が存在していた面影を残す物として未だに見られるようになっている。
そんな道標のもう一方に彫られていた「👈はりみち」の方向に進んで行くと、ここからは右側へ行くようにという案内になっていた。
現代は車社会ともなっているので、このような道端に設置されている道標の重要性も少なくなっており、今ではあまり見かける事が出来ない物となっている。
「中野鍼」を発見!
そんな道端の道標に導かれるままに進んで行くと、こちらの古そうな建物が見えてくる。
ただこの一帯は昔のままの町割りとなっているので、道路が真っ直ぐ延びている訳でもないので、初めて車でやって来た人には不向きな道ともなっている。
住所:大阪府大阪市東住吉区針中野3-2-17
この「中野鍼」は平安時代から約1000年も続く鍼灸院らしく、北斗神拳みたいに『一子相伝』でその奥義が伝授されてきたという。
明治時代には西洋医学も取り入れて治療にあたった事で大いに反響があって、一日数百人が来院する程に人気となったそうだ。
その為に施術を待つ患者が待機できるようにと、この待合室がわざわざ造られる程に多くの人が押し寄せていたという。
こちらの看板には「小児鍼」「各種鍼灸」などの文字も見られる。
ただ、営業しているような雰囲気は無くて、静かでひと気を感じられなかった建物。。
そして反対側に回ってみると、このように立派な家屋と蔵の姿が見られた。
どうやらこちらの南側の方が「表門」らしく、2019年に建物が”国登録有形文化財”に指定されている。
まだ建物が綺麗に見えるのは2017年頃に補修工事を行ったからで、トタン板が張られていた外壁も取り替えて、昔風の外観を再現したそうだ。
それと隣の道路脇には「中野鍼:専用駐車場」(7/8番のみ)も用意されていて、このような住宅街の中でも”専用駐車場を用意している鍼灸院”というのが、それだけの歴史を感じさせてくれる。
なお、肝心の「針中野」という地名は、この中野鍼の当主が近鉄電車の敷設に大きく尽力した事もあって、最寄りの近鉄駅がその貢献により「針中野」と名付けられたという。
それが回りまわってこの地区の地名も「針中野」になったとか。
ちなみに先程見てきた道標も、南海平野線が開業した頃に中野鍼の当主が中野駅の間に7個設置し、現在でも残っている2個だった。
町の発展に尽力した人は、後年になっても感謝されるね!
ただ、中野鍼脇の通路を歩いて行く学生らしき数名グループは、そんな針中野という地名の発端となった鍼灸院に興味を示す事もなく、近鉄:針中野駅へと向かって楽しそうにお喋りをしながら歩いて行った。
そしてこちらが、近鉄:南大阪線の「針中野駅」である。
大正12年(1923年)に開業した針中野駅は、戦後に高架駅となって今に至る。
それと近年では2022年にリニューアル工事した際に合わせて、副駅名を「長居公園 植物園前」と付けて、長居公園まで近鉄の駅から歩いて行ける距離である事をPRしている。
確かに今まで近鉄:針中野駅から”長居公園まで歩いても行ける”と考えた事がなかった。
一応、針中野駅から長居公園の北東側の植物園出入口までは、Googleマップ曰く、850mの徒歩11分で行けるという。
ただ個人的に長居公園の歴史を調べて驚いたのが、昔は田んぼしか無かった場所に、戦後になってから「大阪市営:大阪競馬場」が造られていた時代があったという事だった。。
ついでに競輪場もあったらしいデ!
(地理院地図の1936~1942年/1945~50年/1961~69年/1978~83年の航空写真より)
そして大阪市内でも”3大商店街”とも称される事のある「駒川商店街」を少し歩く。
この駒川商店街は他のアーケード商店街に比べてもまだ活気がある方で、いつも多くの人が行き交う場所となっている。
商店街が繁栄するキッカケとなったのが鉄道の駅で、その駅と共に運命共同体になっているのが商店街の宿命でもある。
※電車好きでもない人間が調べた内容なので、間違っている情報や追加情報などがあれば、コメント欄にてご指摘頂ければ幸いです。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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