南海平野線跡(2023年6月)-3
訪問:2023年6月
市民の想い出が消えた駅跡!
ここはかつて南海電車が平野区内に向けて走っていた「南海平野線跡」の、終着駅だった「平野駅跡」。
南海平野線が1980年に廃止となった際に、この平野駅も廃駅となって、後に解体された。
住所:大阪府大阪市平野区平野本町2-3
平野駅跡地にて
このかつて平野駅があった場所には、後に「平野駅跡地プロムナード」として整備されて、ここに走っていた電車や駅跡の面影を残していた。
そんな平野駅跡プロムナードを見ていく前に、昔の平野区周辺について、簡単におさらいをしておく。
こちらは地理院地図で見れる”最も古い航空写真”(1928年頃)で、南海平野線が1914年に開業してから約14年後の1928年頃の写真となっている。
この写真だけ見ていると、平野郷という集落の北端に関西本線(後に国鉄⇒JR)の平野駅があり、南西側に南海電車の平野駅が造られている。
そしてその2つの駅が結ぶのは、昔から存在していた「杭全神社」と「大念佛寺」だったようにも見える。
こちらの写真は地理院地図で1928年頃の次に見れる、”1936~42年頃の航空写真”。
上の航空写真の約10年後であるが、そこまで大きくは発展していないものの、徐々に平野周辺に住宅が増えだしているのが分かる。
そしてこちらの写真は、”1961~69年頃の航空写真”。
2つ目の写真から一気に約20年後に飛んだので、戦後復興と高度経済成長期が合わさって、昔まで田んぼだった場所が大きく開発されて住宅街が多く形成されていった。
人類の発展スピードは”特急並み”ヤデ!
この平野区の「平野」という地名の由来は、平安時代に征夷大将軍ともなった「坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)」の子供で、この地域の領主となった「坂上 広野(さかのうえ の ひろの)」から来ているとされている。※諸説あり
のちに坂上氏庶流の「平野氏七名家」がこの地の支配権を得て、周囲に「平野環濠」という水堀を築いて守り続けた土地でもある。
そして徳川家康が”大坂:夏の陣”の際に、本陣を築いたともされている場所である。
ただその大坂:夏の陣の際に、徳川軍に痛手を浴びせた真田幸村の軍勢が勢いに乗って、この本陣まで攻め込んできたという。
いきなりの急襲でスキを突かれた家康は、真田軍の追手に見つからないように、周辺の背の高い草むらの中に逃げ込んで息を潜めて隠れる事にした。
すると、幸村軍はそれを察知して自分の馬をいななかせ、それに釣られて家康の連れていた馬もいなないた為に、居場所がバレてしまい必死に逃亡したとかいう話も残っているのだとか。。
家康も紙一重で生き抜いたんだな!
この「平野駅跡」も先程訪れた西平野駅跡の公園と同様に、当時電車が走っていた線路の状態そのままを残している訳ではなく、”当時の線路跡”をイメージして整備されている。
昔の動画を見ている限りでは、隣の西平野駅からこの平野駅までは、このように直線の線路となっていたようだ。
今の「平野駅跡プロムナード」内は、その当時の線路があった様子とはある程度異なった景色となっている。
『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』
その平野駅跡プロムナードの中間付近には、こちらの平野駅舎跡をイメージしたオブジェが設置されていて、路面電車の絵が描かれている壁なども見えてくる。
そんな小さな広場風の場所に設置されていて、この中途半端なベンチのような物。
これは平野線が開業した大正時代に造られた、”大正レトロ”な建造物だった「平野駅跡」の名残を残す為に、駅舎が解体された後に造られた物。
平野駅舎の屋根には八角形と言われた、突き出た傘のような部分があった。
しかしこの平野駅舎は平野線が廃線後に、地元市民の保存活動が行われたものの、残念ながら解体されてしまって、今ではその姿を見る事はできなくなっている。
ただ、平野駅舎取壊しの際に住民が保存活動に立ち上がった事がキッカケで、平野駅舎は取り壊されてしまったものの、平野区内の歴史的な建造物や街並みなどの保存活動『平野のまちづくり運動』が積極的に行われるようになっていったという。
失って初めて人は、その有難みを知るんヤ!
こちらは平野線で走っていた「阪堺電気軌道:モ205形電車」の絵。
ただ、残念ながら手前の雑草というか草が高く生えているので、その車両の全貌を眺める事が出来なかったが。。
こちらの写真は平野線で使われていた「205形」の車両。
平野駅舎と共に使われていた車両も保存される可能性があったが、残念ながら駅舎と共に解体されてしまった。。
リスボンでは100年前の車両もまだ使ってるのに。。
最近の日本人は昔の日本人ほどに、”使っている物を修理して長く使う”という事をせずに、”壊れたら新しく買い替える”事を好む人が増えている。
それは日本人の問題というよりも世界の物流がグローバル化した事も大きく影響しており、特に電化製品などは修理に出すと費用が高くついたり、古い製品だと交換パーツが無くて、結果的に”買い替えた方が安い”という時代になっているからでもある。
そして駅跡を奥に進んで行くと、取り壊されてしまった”大正レトロ”な平野駅跡をイメージした骨組みらしき物が見えてくる。
なお、この下にある線路跡イメージも、現実にあった線路跡に沿ってレンガを配置した訳ではなく、あくまでも”線路跡イメージ”だけを作り出しただけのようだった。
南海平野線その2 前面展望 恵美須町→阿倍野→平野 1980年撮影
ただ歴史的な建造物などの保管については、年を重ねる毎にその価値が認められて増えているけど、高度経済成長期の1980年代には、この大正時代に造られた駅舎などにはそこまで注目も浴びなかったのだろう。
古い木造の建物は、保存に多額の費用がかかるし、また耐震補強工事なども必要になる。
だから余計に重要文化財などに指定されて公的な資金が無いと、保存しづらいのが現状でもある。
そしてここが平野駅跡の東端で、ここが南海平野線の終着点でもある。
なお、南海平野線は大正時代に更に東の柏原市まで延伸する計画を立てていたが、その計画は昭和時代に入ってから白紙となってしまったようだ。
大正バブルが破裂し、世界恐慌でオジャンだわ・・・
明治時代に日本に入ってきた「鉄道」という”経済のゲームチェンジャー”は、日本国内を一変させる事となる。
そして鉄道会社は電車の運行だけではなく、駅周辺の土地を買い占めて、その土地を開発して販売し、大きな利益を上げていく事になる。
だから昔のプロ野球の親会社に、電鉄会社が多かったんやデ!
こちらは平野駅跡プロムナード内に設置された記念碑に埋め込まれていた、「江戸時代の平野郷」の地図である。
平野郷は徳川家康を匿った場所として江戸時代には自治権を与えられ、その集落の周囲を『平野壕』という水堀で囲んで、守られていた。
ただ、平穏な江戸時代に商売の手を拡げるのではなく、逆に平野壕内に籠った為に、大きく発展する事も無かったのかもしれない。
この奥にあった鉄骨は、実際に平野駅舎に使われていた物が再利用されているという。
そして屋根部分には藤が植えられており、 4月下旬~5月上旬頃には綺麗な藤の花が見られる場所ともなっている。
それとこちらの「電車止め」など、平野駅の痕跡を残すパーツも僅かにだが残されていた。
ただ鉄道好きな人間であればこのようなパーツにも反応できるけど、あまり鉄道自体に興味が無い一般人には、ちょっと反応しにくい。
それとこの平野駅跡には、そのような説明を表示した物が殆ど設置されていない。
その為に「平野駅跡」についてその歴史をしっかり勉強してきた人間には楽しめるけど、全くその痕跡を知らない人が来れば、素通りしてしまう場所だったのが残念ではあった。。
線路跡なんか、見てもしゃーないで!
しかし、今では大衆に忘れられてしまったかのような南海平野線の駅舎跡にも、ボクのように新しく興味を持って訪れる人間が、定期的に出てくるのも事実である。
その為にも今後も再開発で取り壊すのではなく、線路跡を残す場所として保存されていって欲しいと思った場所でもあった。。
※電車好きでもない人間が調べた内容なので、間違っている情報や追加情報などがあれば、コメント欄にてご指摘頂ければ幸いです。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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