南海平野線跡(2023年6月)-9
訪問:2023年6月
訳あり!
今から約40年前に姿を消してしまった「南海平野線」の痕跡探索。
この辺りに長く住んできたにも関わらず、今までその存在すら全く知らなかったのだが、今になって探していくと色んな痕跡が見つかって、段々と楽しくなってきた時間帯である。
【南海平野線の駅】
・今池駅(阪堺線と共通)
・飛田駅
・阿倍野駅(斎場前)
・苗代田駅 ⇐今回はココ
・文ノ里駅 ⇐今回はココ
・股ヶ池駅
・田辺駅
・駒川町駅
・中野駅
・西平野駅
・平野駅
※天王寺駅前方面は含まず
高速道路脇を進む!
前回は「股ヶ池駅跡」まで探索し、今回はそこから西側にあった「文ノ里駅跡」と「苗代田駅跡」を調べていく。
こちらは高速道路脇に設置されていた「文の里地蔵尊」。
これも全く今まで気にならなかった地蔵様だけど、今回は探索モードという事で色んな方向にアンテナを張っているので、目に入った地蔵様であった。。
「文ノ里駅跡」にて
そして高速道路沿いに進んで行くと、何の変哲もない場所が見えてくる。
ここは何度も散歩した事がある場所で、その散歩時には全く何も気にならなかった場所だった。
実はここが南海平野線「文ノ里駅跡」が存在していた場所であった。
今では地下鉄メトロ:谷町線「文ノ里駅」の出入り口と、駐輪場と化しているこの付近に、かつて「文ノ里駅跡」があったのだ。
住所:大阪府大阪市阿倍野区文の里4-1-1周辺
それとこの「文ノ里駅跡」は、南海平野線の駅跡で唯一、その存在した歴史がこのように看板で表示されている場所だった。
西平野駅跡や平野駅跡では、線路跡イメージを再現した公園となっていたが、このように「南海平野線」の線路があったという説明書きはここでしか見られないのである。
なお、この「阪神高速松原線:文の里入口」がある下の道を東側に行くと、1950年頃に造られた『明浄通り商店街』が見られる。
この『明浄通り商店街』は、もう少し東側の先に行った所にある1921年創立の「明浄学院高等学校(女子高)」との間に造られている商店街である。
この「文ノ里駅」は南海平野線が開業した1914年当時には存在せず、その開業から約10年後に新しく開設された駅となっている。
『南海平野線その1 前面展望 平野→阿倍野→恵美須町 1980年撮影』
それと文ノ里駅は南海電鉄が造った駅ではなく、周辺を住宅街として開発した不動産会社が新設して、寄付した駅だったという。
というのも先程見てきた「股が池駅跡」からは、たった550mほどしか離れておらずに、本来ならわざわざ駅を新しく造る程の間隔でもなかったのだ。
本来なら駅が要らない所だったのだが、明浄学院高等学校と周辺を開発する不動産会社などの思惑があって、新たに誕生した駅だったようだ。
そして南海平野線の線路跡は、この今は「阪神高速道路:文の里入口」が造られている下とその右側に線路があったようだ。
1980年に阿倍野入口~~松原IC間まで開通した阪神高速道路:松原線だが、その当時はまだこの文の里には”出入口”が設置されていなかったという。
1986年になってから「文の里:出口」がオープンし、その翌年(1987年)になってから今見られる 「文の里:入口」がオープンしたという。
そして明浄通り商店街との間にある阪神高速道路を挟んで、まるで”分断された商店街”のようにも見える『文の里商店街』がある。
この『文の里商店街』は、南海平野線の線路を挟んで、明浄通り商店街とは反対の西側に延びる商店街である。
昔は両方共に栄えた商店街だっただろうが、今では長さが半分にカットされた「明浄通り商店街」は寂しい商店街になっており、西側にある『文の里商店街』の方がまだ多少は繁盛した商店街となっている。
というのもこの文の里駅跡の南西の方に、地下鉄:御堂筋線「昭和町駅」が1951年に延伸/開業した事によって、平野線:文の里駅から乗り換える人の流れが多くなった場所だったからである。
ただ、この御堂筋線が延伸した事によって、南海平野線の天王寺駅前に向かうお客のうち、難波や梅田に向かう人の多くがこの文の里で乗り換えを選択してしまった為に、南海平野線の利用客が減って廃線へと向かう事に繋がるのであった。。
※このGoogleストリートビューは商店の営業時間外に撮影しているようなので、シャッターが多く閉まっている雰囲気に見えてしまっているので注意!
その為に「明浄通り商店街」が寂しくなって、代わりに『文の里商店街』が繁栄していったが、現在では昭和町駅前に大きなスーパーマーケットなどが造られた事によって、そのお客を奪われて『文の里商店街』も今では寂しい商店街になりつつある。。
何でもいつかは必ず滅びる運命やで!
ただ、文の里商店街側もただ手をこまねいて廃れていくのを待っている訳ではなく、上記サイトにもあるように商店街の活性化イベントを次々と行っている。
どこまでこれらの効果があるのかは分からないけど、商店街の店舗の営業権を古い世代から新しい若い世代にバトンタッチして、”若い店”を増やすのがこれからの鍵になるかもしれない。
そんな文の里駅跡を見た後は、更に阿倍野方面へと向かう。
この阪神高速道路:文の里出入口も何回も利用した事があるけど、初めて”後になってから付けられた出入口”だった事を知ったのである。。
いわゆる「後付け」って奴やな!
そして「あびこ筋」を渡って、このように一直線になった道を進んで行く。
今までは何とも不思議に思わなかった、この”一直線になった道”が鉄道線路を敷く土地だった為に、このように真っ直ぐな道だったというのも今日初めて知ったのである。。
それとこの辺りは道路脇の歩道部分に、緑が植えられているゾーンもあって、特に幅広くなっている。
その辺りまで南海電鉄の所有する土地だったのかもしれない。
「苗代田駅跡」にて
そして少し坂道の登りになっている部分を進んで行くと、「苗代田(なわしろだ)駅跡」があった場所が見えてくる。
住所:大阪府大阪市阿倍野区松崎町4-7周辺
苗代田駅跡のホームの一部は、この阪神高速道路下の金網で仕切られているエリア付近にあったと考えられる。
苗代田駅の上下ホームを挟むように道路が横切っていて、上り線ホームはこの手前の支柱脇にあったようだ。
この阪神高速道路の下を横切る道路は「庚申街道(こうしんかいどう)」という、天王寺区にある「四天王寺:南大門」前を起点として、南下していく旧大阪街道でもある。
ただ『街道』と言っても、今みたいに真っ直ぐな道ではなく、クネクネとした道となっていた『庚申街道』。
この煉瓦が積まれている部分が、上り線のホームがあった場所付近と思われる。
ただ、ここでも全く南海平野線跡の説明書きなども無いので、一般人にはまず見つけられない痕跡である。
しかもこの駅跡の空間には、このように金網フェンスが張り巡らされていて、入る事が出来なくなっている。
まあ中に入った所で、南海平野線の痕跡は殆ど見られないので、わざわざ入りたいとも思わない場所でもあるが。。
それと苗代田駅跡の南側角にある、いびつな形をした建物は「阿倍野:苗代田郵便局」となっている。
この郵便局の住所は「大阪府大阪市阿倍野区阪南町1-12-31」となっていて、この辺りの地名では『苗代田』という名前は殆ど見られなくなっている。
昔は田んぼが広がる田園風景だった場所なのだろうが、今ではそんな景色は全く見られずに、このような人工的な建造物ばかりが立ち並ぶエリアとなっている苗代田駅跡周辺の阿倍野区。
そんな駅跡を見ながら、阿倍野の交差点方向へ向かうのであった。。
※電車好きでもない人間が調べた内容なので、間違っている情報や追加情報などがあれば、コメント欄にてご指摘頂ければ幸いです。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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