スリランカ旅行記:4日目
クラブツーリズムツアー「お1人様参加限定:スリランカ6日間」-2020年2月6~11日
植民地の跡
今いるのはスリランカ国内でも今まで観光してきたような古代シンハラ王朝の時代を経てきた街並みではなく、外来のヨーロッパ人達が築いたゴール(Galle)の街。そして城壁に囲まれた旧市街地は、今では世界遺産に認定されています。
ゴール(Galle)の街にて
昔から港町として栄えたゴール。古くは古代ローマ帝国などとも交易を行っていたそうで、それ以降もイスラム商人たちを通して貿易港として栄えた街である。
この広場では大きな木が植えられているのが見える。
そして大きな木の枝から、このように垂れ下がった枝が特徴的なのは「ガジュマル(Ficus microcarpa)」である。分類としてはイチジク属に入るそうだ。
そんな広場の脇にあるのは裁判所だそうだ。という事はこの裁判所で死刑判決に処された罪人が、目の前にある広場で公開処刑されていたのだろうか?!
広場には2台連なって、スズキの軽自動車が停まっているのが見える。ちなみにお隣のインドでは、スズキの車のシェアが何と50%を超えているという。あまり広くないスリランカは島国なので、このようなコンパクトな軽自動車の方が人気なのだろう。
ガジュマルの木が生えているこちらの広場では、フリーマーケットが行われているようだ。
今日のフリーマーケットのメインは中央に小さく見えている絵のようだ。今まで観光してきた都市とは文化が違う場所なので、絵のデザインなどもそれに合わせて変わっているのかもしれない。
そんな様子を見ながらゴールの旧市街地を散策していきます。ちょっと空が曇り出してきたので、日差しが強いスリランカでは曇り位がちょうど気候的に観光日和かもしれない。
ゴールの旧市街を歩いていると、日本語の平仮名や漢字で書かれた看板が目に飛び込んできた。この街を最初に占領したヨーロッパの国はポルトガルだったので、日本にも伝来した天麩羅がここでも人気なのかもしれない。
だけど海外で営業している日本食のお店も日本人オーナーが営業している訳では無く、日本食を気に入った人や流行りの波に乗った現地の人達が経営している場合が多い。
ただし店の看板にあった写真だけ見ると、それなりに和食で日本でも出てきそうな料理にも見える。ここゴールでは昔から香辛料貿易などの中継地点として、更にはヨーロッパとアジアを繋ぐ拠点として旅の途中で立ち寄る経由地でもあった。
その為、日本からヨーロッパへ向かう船団がこのスリランカでゴールの街に立ち寄ったという記録が多数残っている。有名な所では明治4年(1871年)に日本を出発した”岩倉使節団”で大久保利通・伊藤博文などが、欧米視察の帰りにスリランカに立ち寄ったという。
この日本食レストランの中を覗き込むと、壁には大きな蟹がライトアップされていて、あまり日本食レストランという感じはしなかったけど、ちゃんとお箸と醬油がテーブルには用意されていた。
こちらの建物は警察署のようだ。古代の人達と違って現代人の有利な所は、古代の人達が築いてきた過去の歴史を見て色んな成功や過ちを勉強できる点にあると思う。
この明治時代に岩倉使節団が欧米に渡ったのも実際に自分達で現地を訪れ、自分の目などで実際に見聞を広めた事が後の人生に大きな影響を与えたのである。ボクも仕事を辞めてから、こうやって海外旅行をしていくと1つの国を訪れただけでも、とても刺激を受ける。
そして日本に帰ってからその国の歴史を調べると、日本とは違った歴史を刻んできた国であり、日本とは全然違う文化を構築してきた事を理解できる。そういう風に海外旅行で経験を積んで行くと、それまで小さい会社内で歯車として空回りしていた時の自分を思い返すと、その時の自分がとても小さく見えてしまうのである。
歴史を学ぶことは結果的には自分を大きく成長させるのじゃ!
本来はこのようなパックツアーではなく、1人で海外に出掛けた方が大きな刺激を得られるのだろうけど、まず大事な事は一歩足を踏み出して海外の地を自分の足で踏みしめる事である。
ゴールの街を散策する 動画
海外に行くと可愛らしくて、人馴れしている猫ちゃんが多い。日本とは違って海外の人達は野生の猫ちゃんに対して、寛大なのかもしれない。そう思うと日本では野良猫は嫌われているので、可哀想な環境に暮らしているのである。
ただ猫ちゃんも人類の家畜として、翻弄されている動物でもあるが。。
昔は港町として栄えたゴールの街も、その後に築かれたコロンボの街に首都機能が移転し経済都市として発展していき、代わりにゴールの街は観光地となるのである。
そしてこのゴールの街でも岬に突き出した城壁に囲まれている旧市街地は、植民地時代の雰囲気を残している場所である。
港町だけあって、白く大きな灯台が見えてきました。こちらの灯台の壁はまだ綺麗なので、最近塗り直されたようです。
今から16年前の2004年12月26日に発生した”スマトラ島沖地震”ではマグニチュード9.1という、1900年以降歴代2番目に強い規模の地震が発生した。
その大きな地震は大きな津波を発生させて東南アジアや東アフリカ大陸まで被害を及ぼした。その津波による死者は全世界で20万人を超えるという。
スリランカでもこの沿岸部は観光地として多くの人が滞在している場所で、かつ海から近い場所なのでその津波による被害が甚大だった。
スリランカ国内だけでもその時に発生した津波による死者数は、約3万人以上にのぼるという。特に被害が大きくなった理由として、その時点ではスリランカの人々に”TSUNAMI(津波)”の恐ろしさが知られていなかった事。第一波の津波が去っていった後に、海辺へその様子を見に来た人達が第二波にさらわれて、多くの犠牲者が出たという。
体力ある男性は近くにあったヤシの木などの背の高い木によじ登って被害を免れたが、女性や子供達はそうもいかずに大きな波にさらわれていったという。
だからこういった綺麗な砂浜のある海岸で遊んでいる時でも、万が一の事を頭の隅っこにでも配置しておいて、常に警戒心は少なからず持っておいた方がいいのかもしれない。
ゴールの街のビーチの景色 動画
灯台の下から海を眺めると、沢山の子供達がそんな津波による被害など無かったかのように無邪気に遊んでいる姿が見える。恐らく子供達の大半はそんな津波が襲った時代には、生まれていなかっただろうから。
こんな気持ちのいい場所も地球の機嫌次第で、あっという間に修羅場になるのである。そう思うと改めて「我々人類は、地球上に住まわせてもらっている」という考えになってくる。好き勝手に地球環境を改造して人類の都合のいいように生きるのではなく、地球環境を活かした環境の中で人類は生活すべきなのかもしれない。
この21世紀に生きる人類にとって、地球環境保全が最大の課題じゃ!
今までのスリランカで訪れた都市では全然見かけなかった教会が、この辺りにはさすがに何軒も目にする事が出来る。この辺りはポルトガルから始まるヨーロッパの植民地だったので、彼らが持ち込んだキリスト教に現地の人達は改宗していったようだ。
今のスリランカでは国民の約10%ほどがキリスト教徒である。ただ現地のスリランカの人々がキリスト教に改宗したのは、このような南部の沿岸エリアや北部の沿岸エリアが多い。というのもポルトガルやオランダによって占領されていた時代に学校が造られ、そこでは強制的にキリスト教が教えられたのでその学校に通った人は必然的にキリスト教徒となっていった訳である。
ヨーロッパの歴史を見ているとキリスト教というものは政治の道具として、使われたものに過ぎない。本当の真理があるないに関わらず、国を支配する為に当時の権力者がキリスト教を利用していったのである。
そんな政治利用されるキリスト教に反発するように、中世ヨーロッパでは宗教革命が起こったりもした。しかし最終的には地位と名誉と金に目の眩んだ権力者の前に、利用されてしまった宗教であった。
それぞれの世界的な宗教も創始者が発信した崇高な教えはあまり後世にはキチンとは伝わらずに、後世の引き継ぎ手によって脚色されたり誇張された部分が多い。
というのも宗教の世界もシェア争いの戦争時代に入り、世界中には色んな宗教が溢れていたので、それぞれの宗教の生き残り活動が重要なのであった。キリスト教の場合は一時イベリア半島の大部分がイスラム教徒に占拠されて、存続が厳しい状況になった時もあった。
キリストが弟子達に教えた『汝殺すなかれ』という大事な教えも、後年のキリスト教を牛耳る人達の思惑により反古されてしまい、「あくまでもキリスト教圏内の話で、キリスト教徒以外には適用されない」と解釈を変えたのである。
結局人々は自分にとって都合のいい事にしか、飛びつかないのじゃ!
ゴールの街でのんびりと散策 動画
それにより起こったのが”レコンキスタ”(国土回復運動)であり、その聖地奪還の一環でもあった十字軍遠征はキリスト教徒の立場から見れば”歴史的な偉業”であった。しかしイスラム教側からすると、単なるキリスト教徒によるイスラム教徒の大量虐殺に過ぎなかったのである。
スリランカは外国勢に支配されている時はセイロン島として知られていた。そしてイギリス統治時代に紅茶のプランテーションが開始されて、世界的な紅茶の名産地へと変貌するのであった。
日本も同じような島国だったけど、第二次世界大戦まで欧米勢に植民地にされる事は無かった。戦国時代が終了し徳川幕府により、鎖国政策を行った事が海外の植民地になる事を防いだ訳ではない。鎖国によりポルトガルを締め出してオランダとのみ貿易をする事が海外の侵入を防いだ面もあるけど、その鎖国が長い間続く事により、海外からもたらされる技術革新が日本では起こらなかったという問題点もあった。
しかし幕末に向かって徐々に日本列島を開国させようと、欧米の大型戦艦が日本海周辺に現れるようになった。当時の日本内でその危機感を痛感していたのが薩摩藩の藩主である島津斉彬であった。
彼は日本に漂流してきたヨーロッパ勢の進んだ技術を見せつけられて、「このままでは日本は必ず欧米勢と闘ったら負ける・・・」と悟った。それ以降、産業革命後に新しい技術が生まれていった欧州に薩摩藩の若手エリートを留学させて、薩摩藩を中心とした富国強兵へ動くのである。そういった島津斉彬の動いた道が、その後に起こる明治維新へと繋がっていくのである。
このゴールの旧市街地は世界遺産に登録されているものの、建てられている建物はヨーロッパ程に外壁の補修がされていないので、所々に汚れた壁などが見られる。
それとスリランカを訪問した2月上旬は中国人団体観光客が海外出国禁止となっていたので、全然街中で見かけなかった。だから街角にはそんな観光客が激減して、暇そうに客待ちするトゥクトゥク・ドライバーなどの姿が目立った。
ポルトガルがスリランカに到着するまでは、中国の鄭和艦隊もゴールの港町に立ち寄っていたので、中国の伝統もスリランカのゴールでは一部に根付いている場所もあるようだ。
こんな旅はまた次回に続きます!
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