沖縄旅行記2020年秋-⑭
旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(Seeing the urn containing the remains of the king at the Tamaudun Tomb, the tomb of the Ryukyu Kingdom【Okinawa Travelogue 14】)
沖縄式の埋葬
ここは首里城公園のすぐ西側に造られている「玉陵」という、琉球王国時代の国王の霊廟となっている場所。琉球王国というと、日本列島の中でも南端に位置する立地を生かして、昔から中国や東アジア諸国と貿易をしてきた場所であるが、その独自な文化を築いてきた琉球王国でも歴代国王に対して敬意を払っていたのが分かる場所ともなっている。
玉陵の見学!
この玉陵を訪れたのが最終入場時間間際だった事もあり、暗くなる前にと先に敷地内にあるお墓や、その脇に復元されている建物などをとりあえず見て回った。そしてその周囲には色んな植物が植えられていたのであるが、その中でもボクの目を惹いたのが、こちらの根元がメタボの体のように膨らんだ木だった。
この面白い形をした木は「トックリキワタ(Ceiba speciosa)」という名前の、南米が原産の落葉高木。木の高さが20mほどまで成長するらしく、熱帯雨林気候の場所で育てられる木。沖縄には南米原産の植物が多々見られるが、この木は沖縄県民が多く移住した南米のボリビアから持ち帰って、沖縄で育てた物が起源となっているようだ。
植物にあまり興味ない人間からしたら、このような木々を見ても何も感じないけど、植物が好きな人からしたらこのような普通に見られない木々が植えられているだけで興奮してくるのかもしれない。過去に参加した海外旅行ツアーに来ていた人の中で、植物好きというか詳しい人と出会った事がある。そんな人達はその植物の名前をアレコレと教えてくれたりと、色んな所を散策しているとボクには興味がない植物に色々と反応している姿を見かけた。
何事にも興味を持ってアンテナを張り巡らす事の大事さを学びました!
玉陵の資料館でお勉強!
そして霊廟の建物などを一通り見学した後は、先程の受付のあった建物に戻ってくる。この建物の地下には玉陵内で発掘された、骨壺などの玉陵に関わる資料が展示されているのでそれらを最後に見学する事に。
この地下に造られている資料館には、入れない玉陵の墓室内の写真なども展示されている。この玉陵では約70人程の遺骨が納められており、それぞれにこのような骨壺が造られて、その中に遺骨が納められているようだ。
この玉陵は1501年頃に第二尚氏王統:第3代目国王で琉球王国でも繁栄を築いた時代に国を治めていた尚真王が、父親で初代国王だった尚円王の為に造ったお墓だった。元々は石灰岩の洞窟だった場所を掘り進み、琉球王国でも2次政権となった第二尚氏王統の国王の為に造られたと思いガチであるが、実は第2代目国王で尚円王の弟だった宣威の遺骨はここには納められていない。なので尚円王とその血筋を継ぐ者達向けのお墓だったようだ。
墓室は3部屋造られており、尚真王以降の歴代国王とその王妃の遺骨がそれぞれに納められているという。そしてこの墓地は1931年に最後に納められた王妃の遺骨以降は、使われなくなったそうだ。
こちらはその資料や骨壺などが展示されている、地下部分に造られている資料館。沖縄の観光地ではあまり琉球王国の歴史について勉強できる場所が意外と少ないので、こういった場所でしっかりと琉球王国時代の事を勉強すべきだろう。
沖縄は南国リゾートとして遊びに来る人が多いから、あまりその歴史を知ってもらえないのよ・・・
そしてまず目が行ってしまうのが、これらの遺骨が納められていた骨壺の数々である。このように大きさやその造りも色んな種類があるが、その造られた時代によって変化があるようだ。
こちらの骨壺は焼き物の陶器となっていて、屋根には鯱(シャチホコ)が付いていたり、色んな装飾が施されていたりで、かなりの手間が掛けられた骨壺のようだ。こちらは1751年に亡くなった第2尚氏王朝第13代国王:尚敬王頃以降の骨壺で、初期の骨壺は石灰岩などを削って加工した物が使用されていたけど、陶器文化が進んでいくうちにこのような陶器製の骨壺に変わっていったようだ。
こちらの骨壺もまた豪勢な外観をしており、獅子が乗った立派な屋敷風の陶器となっている。こちらも陶器製なので、ここに納められている国王の中でも比較的近代に造られた物と推測される。また偉大な人物程に亡くなった後は、豪勢なお墓やこのような骨壺が作られたのであろう。
沖縄ではこのような骨を納める物の事を「厨子(ジーシ)」と昔から呼んでいるらしく、15世紀頃から使われ出したという。最初に納められた、第二尚氏初代国王:尚円王の骨壺は輝緑岩(粗粒玄武岩/ドレライト)から作られていたが、第3代目国王の尚真王などは石灰岩で地味な作りの骨壺になった。しかし時代が進むと骨壺が小さくなり、また焼き物技術が向上すると焼き物を使った骨壺が表れるようになったようだ。
だからこのような陶器製だと比較的最近の国王だったとか、地味な石灰岩の骨壺だと昔の国王だったとかが分かるようになっている。そういう見方をすると、人類の色んな技術の発展度合いを見比べる事が出来るのだ。
この琉球王国では国王が亡くなった後は、その遺体をこのお墓にあった墓室の真ん中の部屋に一旦安置し、自然に骨になるまで放置して、それから骨を洗って骨壺に納めるというやり方だったようだ。その為にこの3室あった墓室の真ん中の部屋には骨壺が殆ど納められていなかったそうだ。
琉球王国の国王の肖像画はそれなりに見かけるけど、このように似たような構図で見比べないとその違いが分からない程に似ているので、一見の観光客からしたらその違いを見抜けないし、似たような名前であるのでまず覚えて帰るのが困難でもある。琉球王国:第二尚氏としては第19代まで続いたのであるが、その中でも覚えておくべきは、初代国王の「尚 円王(しょう えんおう)」と、3代目国王の「尚 真王(しょう しんおう)」であろう。
この2人はテストで出てくるサ~!
この琉球王国は中国大陸と日本本土との貿易中継地点でもあり、それで大きく発展する事となる。そして昔は更に南下した東南アジア地域との貿易も行われていて、多様な文化が入って来ていた場所でもあった。
こちらの壁には沖縄戦で砲撃され壊される前の、玉陵の様子が収められた写真が飾られている。1500年頃に建造されてから、約430年あまりが経過しても石造りだった為にその姿を変える事が無かったのであろう。
そしてこちらは沖縄戦の砲撃などで破壊された後の、昭和30年代に撮影された写真も飾られている。沖縄戦ではアメリカ軍は陸軍が襲い掛かる前に、近くの湾に待機していた軍艦から砲艦射撃を行い、事前にダメージを与えてから攻撃を行う戦法を執った。しかしもっと破壊されてしまったかと思っていたけど、ある程度の形は砲撃されながらも現存していたようだ。
そしてこちらは墓室に安置されていた骨壺などの景色を写真に収めたもの。この墓室には入る事は出来ないが、沢山の骨壺が収められている場所なので、何とも言えない雰囲気を漂わせているのが写真を見るだけで分かるような気がする。
こちらは玉陵の3つある墓室の中でも、歴代国王とその妃の骨壺が収められていた東室の様子。骨壺が作られた時代によって形が異なっているが、この写真に写っているのはそれぞれに上にシャチホコが取り付けられており、日本本土からの影響が強く出ているようにも感じる。
この資料館には入れなかった墓室の輪切り模型も展示されている。人によっては霊廟の中には入りたいとは思わない人もいるかもしれないけど、個人的にはそこが見学可能であればどんな場所になっているかを体験したいので、出来れば入りたかった場所。
このように1つの墓室でも区分けされており、ギッシリと骨壺が収められていた様子が伺える。この模型を見ていると、古い骨壺ほどに奥に納められており、また洗骨式ではなく火葬が採用された以降は骨壺の大きさが小さくなったので、手前に置かれている骨壺ほどに小さくなっていっているのが分かる。
このように模型にはその当時の資料を残すかのように、それぞれ誰が埋葬された骨壺なのかも細かく記録されているのが見られる。ここに見学にやって来る観光客の立場からすると、それぞれに細かい事を知りたい訳ではないけど、考古学的には全て記録できる事は細かく残すのであろう。
こちらは先程敷地内の外れで見かけた、古ぼけた石碑の「玉陵碑」。古ぼけたというよりも約500年間も現存している石碑なので、このように外観は朽ち果てたように見えてしまうのは仕方ないようだ。
そんな歴史的な石碑である「玉陵碑」に彫られているのが、この内容だという。この石碑には玉陵に葬られるべき人物9人の名前が列記されており、いかに親類であろうとこの墓地に埋葬されるべきではない人物に対しての牽制といった石碑のようだ。
そしてこちらはあまり目にする機会のない「国宝指定書」なる、その遺跡が国宝に指定された時に発行される書類のコピーも展示されている。国宝になると文部科学省の管轄となり、必要な修繕費用などは支払ってくれるが勝手に都道府県側が手を出せなくなってしまう。
この資料館には全員分70個の骨壺は展示されておらず、壁には展示されていない歴代国王などの骨壺の写真が展示されているのが見える。このように色んな形や材質の骨壺があり、それらを見ていると時代変化なども見て取れるような気がする。
右側は初代国王:尚 円王の骨壺で、輝緑岩という玄武岩で造られた物。左側はこのお墓を造らせた3代目国王:尚 真王の物だけど、石灰岩で簡単な装飾の質素な骨壺になっている。自分が死んだ後はあまり手間を掛けさせるつもりがなくて、そういった遺言を残したのかな?!
初代国王:尚 円王の骨壺が輝緑岩で造られた後は、石灰岩性の質素な骨壺になっていったが、13代目国王辺りから陶器製に変化していき、天守閣のようなシャチホコが載っている装飾に変わっていったようだ。このように骨壺1つをとっても、色んな歴史を感じ取れる興味深い品になっている。
さっき見学した首里城でも焼失する前の屋根には龍の頭が乗っかっていたようだけど、このように骨壺にもゴジラシリーズに出てくるキングギドラみたく、龍の頭が3つ装飾されているのが見られる。
キングギドラの原型かもサ~!
そんな天守閣や首里城本殿のような立派な建造物の形を再現した骨壺ばかりかと思いきや、このように丸い骨壺もあり、その脇にはお坊さんの姿が見られる物もある。この骨壺が造られた頃には仏教文化が浸透してきたのかと思わせる、装飾が施されている骨壺もあったりと意外と興味深い。
沖縄戦で破壊された玉陵の修復作業は1977年まで、約3年間に渡って行われて復原されている。こちらはそんな修復される前の様子が写真に収められており、その当時は中に入れないように金網で周囲が覆われていた様子が伺える。
こちらは2002年に撮られた写真で、ほぼ今の状態と同じ光景となっている。このように第二次世界大戦時の沖縄戦で大きく傷付いた沖縄の地ではあるが、年代が進む毎にそのかつての姿をだんだんと取り戻していっている様子が感じられるのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓沖縄旅行記:初回↓↓