沖縄旅行記2020年秋-㊼
旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(Urasoe Yodore, a mausoleum built at the bottom of the cliff on the north side of the Urasoe Castle ruins, where the King of Ryukyu rests. [Okinawa Travelogue 47])
復元されたお墓だけど。。
ここは首里城に城が移る前に琉球時代の国王の居城があった、沖縄県浦添市にかつて存在していた「浦添城跡」。その高台から周囲を見晴らせる地形に目を付けた、沖縄本土戦を視野に入れていた日本軍がここに陣地を敷き、沖縄戦では最も過酷な戦場になった場所ともされている。
住所:沖縄県浦添市仲間2-53-1
浦添城跡にて
過酷な沖縄戦で宜野湾に滞在するアメリカ軍の戦艦から、雨あられのように砲艦射撃が撃ち込まれて、地形が変わる程に攻撃された浦添城跡は残念ながら壊滅してしまった。戦争後も崩れた石垣の岩なども採石対象として持ち出されてしまい、かつてここに城が存在したという形跡がどんどんと消えていく事になる。
しかし近年になってから浦添城跡の復元作業が進んでおり、今ではこのように城壁などがかなり復元されてきており、また1989年には”国の史跡”として認定された場所になっている。
やっぱり石垣があると、城というイメージが出るよね!
当時の日本軍はこのような場所の地下に塹壕を掘って、そこに隠れながら攻撃していたというけど、このような景色を見ていると本当にこの城跡の地下にそんな塹壕が築かれていたとは考えにくいようにも思える。
しかし一昨日に訪れた「旧海軍司令部壕跡」は実際に地下深くまで長い通路や小さな部屋が造られており、モグラ人間かと思わせるような世界が広がっているのを目の辺りにしたのであるが。。
この浦添城もゆいレールの車内からも見える南側はそうでもなかったけど、北側にはこのように琉球時代の城壁がだいぶ復元されている光景が見られる。2016年に公開されたアメリカ映画『ハクソー・リッジ』の影響で、この場所は浦添城跡というよりも、沖縄戦で日本軍が徹底抗戦をしたハクソー・リッジの場所というイメージの方が強くなっている。なので個人的には無理やり城壁などを復元しなくて、その沖縄戦の激戦地の雰囲気を残す事も考えてみてはと思うが。。
余計なお世話よ!戦争なんて悪夢でしかないのに・・・
浦添城からの眺め! 動画
この浦添城跡は北側の宜野湾から攻め込んで来るアメリカ軍の侵攻に備えて、洞窟やトーチカなどが設営されたようだ。ハクソー・リッジの映画では、地下の穴から湧き出て来る日本兵の姿が描かれていたが、実際に塹壕跡は残ってはいるものの、激しい攻撃などで落盤していたり土砂が堆積している為に、内部へ入る事は難しいという。
所々にはこのような塹壕の出入り口だったかもしれないと思わせる穴が残されている。当時は1つの出入り口が潰されても困らないように、アリの巣のように色んな通路が掘られていて、迷路のようになっていたとされている。そのような地下の塹壕もいつの日か、通れるようにして観光用に開放する日が来るのだろうか?!
この浦添城からは、目の前に宜野湾がよく見える場所。中国大陸からの船が就き易い場所でもあった為に、海外との貿易が盛んに行われていたようだ。なお江戸時代には鎖国していたというイメージが強いけど、長崎の出島で認められていたオランダとの通商以外に、琉球王国を通じて中国との貿易も認められていた。
なのでオランダ経由以外に、中国からも世界の情報が届いていたのよ!
伊波普猷のお墓
そして浦添城跡の敷地内には、「伊波 普猷(いは ふゆう)」という琉球時代に生きた人物ではなくて、明治~昭和時代に生きた人のお墓も造られている。だいたいこういった史跡には比較的新しい時代の人のお墓が設置されている事はあまりないけど、そこに設置されているという事はそれなりに偉大な人物だったのだろう。
この伊波 普猷という人物は明治9年(1876年)に沖縄で生まれた人で、その後は今の京都大学や東京大学を卒業した天才で、主に沖縄の民俗学や言語学を研究し、”沖縄学の父”とも呼ばれていたという民俗学者だ。
伊波 普猷はこの浦添城が首里城以前に古都として繁栄していた事を初めて発表した人らしく、それもあってこの浦添城跡に彼のお墓が造られているのだろう。過去の歴史という物は当然あるものという認識になっているけど、今我々が勉強する歴史の中身は、このような研究者が長い時間を掛けて研究した末に初めて歴史として認識されているのである。だから、我々は歴史を学ぶと共にその歴史を研究してくれた学者にも感謝しないといけないのである。
こちらの石碑には”沖縄学の父”という文字が彫られているのが見える。ただ個人的には首里城以前の歴史がそこまで沖縄で把握されていなかったという事が不思議に思うけど、当時の王様というのは自分の権威を高める為に、それ以前の政権の歴史に関しては闇に葬り去っていたのかもしれない。
沖縄は明治維新が起きた後に日本国内に組み込まれたが、それまでは日本と中国の2つの国の属国扱いという微妙な立ち位置にあった。しかし、その後日清戦争で勝利した日本軍は台湾などを勝ち取り、沖縄の支配権も手中にした。ただその時は逆に琉球王国としての国が消滅した時代になってしまったのであるが。。
この浦添城跡も意外と敷地内は綺麗に管理されているが、ボクは入ってきたのは東側からだったので、単なる人里離れた山林のようにしか最初は思えなかった。そう思うと、どの入口を選ぶかによって、その後の印象が大きく変化する事を思い知ったのである。
「浦添ようどれ」という王陵にて
そしてこちらの案内板を見ると、「浦添ようどれ」という名前の王様の霊廟跡が浦添城の北側の崖下に造られているという。勿論この霊廟跡も沖縄戦で徹底的に破壊されてしまってはいるが、今ではだいぶ復元されているので昔の面影が戻っているようだ。
この「浦添ようどれ」の霊廟は、13世紀に琉球王国の王様だったとされている「英祖王(えいそおう)」が築いた場所とされている。そして1620年頃に浦添城を居城にした、 第二尚氏王統-第3代国王:尚真王の息子で王位を与えられなかった長男の尚維衡の子孫で、第7代目の国王となった「尚寧王(しょうねいおう)」の時代に改修されている。
なお琉球王国第二尚氏王統の第7代目国王となった尚寧王のお墓は、第二尚氏王統の霊廟となった首里城近くの玉陵ではなく、自分が生まれ育ったこの浦添城の「浦添ようどれ」に納められている。本来なら王位を継ぐハズの立場から外されて、ここ浦添で浦添家を興した尚維衡に倣って、この地を自分の墓に選んだのかもしれない。ただ尚維衡のお墓は死後ここの「浦添ようどれ」に一旦納められたが、実の弟である尚清王の意向により、後に玉陵に移されているそうだが。。
墓をどうするかって、人間ならではの悩みブ~~!
「浦添ようどれ」は一応出入りが管理されているようで、入場時間も決められているようだ。ただ、特に管理人が滞在している訳でもなく、入場料も無料となっているが。
こちらが「浦添ようどれ」へと続く道。ちなみに「ようどれ」とは夕凪(ゆうなぎ)を意味する言葉。単純に霊廟という名前を付けなかった場所だけど、それだけ居心地のいい場所にしたいという気持ちがあったのかもしれない。
ここにも浦添八景の案内杭が見られる。この浦添八景とは、”未来に残したい浦添市の原風景”という事で近年に制定されたものらしく、昔からこの地に伝わっているものでもないようだが。。
この浦添城跡の高台に居る時には全然分からなかったけど、下に降りてくると、このように昔の琉球王国時代の城壁が綺麗に復元されている光景が見られる。こういう城壁の景色を見てしまうと、この場所が「ハクソー・リッジ」ではなく「浦添城跡」という印象を強く受けてしまう。
この場所は第二尚氏王統の流れを継ぐ、第22代当主だった「尚 裕(しょう ひろし)」が1995年に浦添市に無償提供し、それから本格的に復元工事が行われた。このような霊廟跡が第二尚氏王統の個人所有物になっていたというのは驚きであるが、実は首里城近くにある第二尚氏王統の霊廟であった玉陵も第二尚氏王統の個人所有物だったが、こちらは1992年に那覇市に寄贈されている。
未だに琉球国王の血は受け継がれているのね!
その事から分かるように、かつては王族の敷地だった為に一般庶民は立ち入りが出来なかった場所である。そういう意味では、現代に生まれている人達は昔には自由に入れなかった場所を見学できているので、とても幸せであろう。
その入口にはこちらの、かつて昭和9年(1934年)頃に撮影されたという、「暗しん御門」と呼ばれていたヒンヤリして薄暗かった門のようになっていた時代の写真が飾られている。しかし、そんな場所も激しかった沖縄戦で崩壊してしまって、今ではそんな面影をあまり感じない場所になっている。
こちらが先程写真で見た「暗しん御門」があった場所であるが、今では上にあった岩盤が消え去ってしまっていて、とても解放感のある場所に変わってしまっている。城壁の復元作業は進んでいるけど、さすがにかつてここに存在した岩盤の復元作業は難しいのかもしれない。。
「暗しん御門」を進む! 動画
そして「暗しん御門」の道を進んで行くと、中城城跡でも見た綺麗に石が積まれている門が見えてくる。勿論この門も近年に復元された門であるが、石を積み重ねる技術だけで、このような綺麗なアーチを描いた門を造れるとは驚きである。
その門をくぐって進むと、目の前に広がったのは「浦添ようどれ」という、この浦添の地で暮らしていた王族の霊廟跡。アメリカ映画『ハクソー・リッジ』を観て興味を持って見学にやって来た外国人観光客からすると、「ここが日本軍の基地だった場所か?!」と勘違いしてしまいそうな場所にも思えるが。。
この手前側(向かって右側)に造られているのが、英祖王の霊廟跡。なお、この英祖王が誕生する際に、母親は太陽が懐に入っていく夢を見た為に「てだこ(太陽の子)」とも呼ばれているそうだ。
この「てだこ」という言葉を聞いて思い出すのが、今日この浦添城跡を見学する為にゆいレールでやって来た終着駅の「てだこ浦西駅」だ。この駅名に「てだこ」と入っていたのは、この英祖王をルーツとしている浦添だったからだ。
謎が1つ解けましたね!
何事にも意味があるのよね!
13世紀に造られてから英祖王や尚寧王一族の墓として存続した「浦添ようどれ」も、最新兵器を用いた沖縄戦でいとも簡単に破壊されてしまう。しかし近年の発掘調査の甲斐もあって、その墓内部の様子も詳しく判明してきており、この近くにある小さな記念館ではその墓内部の様子が再現されている。
そして奥にあるのが、尚寧王とその一族のお墓。ここに攻め込んできたアメリカ軍兵士から見たら、日本軍の塹壕の入口にしか見えなかっただろうが、かつての立派な琉球王国の王様のお墓だった場所である。
こんな旅はまた次回に続きます!
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