沖縄旅行記2020年秋-㉘
旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(Going Through the Ant Nest-like Passages at the Ruins of the Former Naval Headquarters Bunker [Okinawa Travelogue 28])
意外と綺麗な塹壕
沖縄の豊見城市にある、今から約70年以上も昔にここで戦争が行われていた頃に造られたという、「旧海軍司令部壕」の跡へと入っていきます。なお、この手前部分にある資料館などは無料で見学できますが、これから先は有料エリアとなっているの、入場券を購入してから入る必要があります。
海軍司令部の塹壕跡へと進む!
ここは海軍司令部の塹壕があった場所でもあるが、多くの日本軍兵士が自決して亡くなった場所でもある。なので華やかさはなく、その悲惨な場所となっているので、そのような心積もりも持って進んで行く必要がある。
そんな塹壕へと降りて行く階段脇には、このように沢山の千羽鶴が飾られているのが見える。広島や長崎などの平和資料館などに行けばこのような千羽鶴を沢山見かけるけど、戦争の悲惨さを象徴付ける千羽鶴が見えると心が引き締まるような気がする。
ここに塹壕が掘られたのは1944年の後半で、今から約76年も前の事。今では一般公開されている事もあって、このような階段や手摺などが綺麗に設置されているけど、この塹壕が使われていた頃にはそのような物はなく、全然雰囲気が違っていただろうが。
前にトルコ旅行した際に、カッパドキアという風化して削られた岩肌の景色が何とも魅力的な地帯で、地下に都市のような穴蔵が掘られていたのを見た事がある。
そのカイマクルという地下都市では何層にも昔の人が地面を掘って穴蔵を造っていたのを見て驚いたけど、日本にもこのような大規模な地下塹壕が造られていた事実を知って、とても驚いたのである。
人類は考えられない事をするので、怖い存在でもあるサ~!
長野県には「松代大本営地下壕」という大規模な基地も造られているので、そこも行ってみんしゃい!
塹壕の地下通路にて
そして入口の階段を降りて行くと、下には思った以上に広い通路や部屋が見えてくる。この塹壕が掘られた時には粗末な道具で掘るしか出来なかったそうだが、壁には漆喰が張られていて、意外としっかりした造りだったようだ。
そして通路だけではなくて、色んな部屋も設置されているのが見える。しかしこれだけを見ている限りは、地面を掘って造った場所には全く思えない。しかし、ここは紛れもなく地面の下であり、これだけの広さを掘ろうとすれば、かなりの労力がつぎ込まれた事は想像にも難くない。
今までは日本の歴史について無頓着だった為に、このような大規模な地下塹壕が日本国内に設置されているという事実を知らなかった。この塹壕という物は第一次世界大戦に戦車や高速発射できるマシンガンなどが開発された物の対策手段として、ヨーロッパで発展していったとされる。
そのヨーロッパではその後に勃発した第二次世界大戦時には大掛かりな地下司令部が造られた跡もあり、大きな戦争が起きれば起きる程に、それに波及して色んな物が発展していくのである。
この地下塹壕は地下にあるので酸素が少ないとかの心配をするかもしれないけど、ちゃんと空気穴が設置されているので、窒息死するという心配は勿論ない。またコロナ禍という事もあって、その空気穴手前には大きな扇風機も設置されていて、通路内の空気循環を図っている様子も見られた。
こちらはこの塹壕内の地図であるが、想像していたよりも広い塹壕となっている。この塹壕は1970年に一部が一般公開されて今に至るが、未だに約150m部分は未公開となっているようだ。しかし公開部分約300mと非公開部分約150mの場所から、約2000以上の遺骨が発掘されたというので、どれほどの兵士が人口密度の高い場所に押し込められていたのだろうか。
塹壕内の「作戦室」にて
そんな塹壕内では一応順路が示された案内板が設置されているので、それに従って進んで行く事にする。すると「作戦室」という案内板が張られているのが目に入る。
こちらがその作戦室の部屋内部の様子で、アリの巣のようにただ手で掘っただけかなと思っていたけど、実際にこのように塹壕跡に掘られている部屋を見てみると、そう簡単には崩れないように壁などはしっかり木材が張られていた。敵は砲艦射撃や空爆で攻めて来るので、そんな爆撃で簡単に部屋が崩れると使い物にならないから、このようにしっかりとした造りになっていたのであろう。
こちらは重要な部屋だったので、コンクリートや漆喰でしっかりと補強されていたようだ。以前にベトナム戦争でも有名な「クチトンネル」や、トルコのカッパドキア地方にあるカイマクル地下都市などを見ていた印象からだと手で固めただけの壁だと思っていただけに、この日本軍の塹壕跡を見てかなりの手間が掛かっている様子が見て取れたのである。
こちらはこの塹壕が使われていた時の想像図が設置されており、この部屋が使われていた様子が可視化できる絵であった。あまり広くはない部屋ではあるが、色んな物が詰め込まれて、狭苦しく作戦会議が行われていた様子を妄想するのである。
この作戦室には漆喰が張られているので、他の部屋に比べると上等な部屋だという事が分かる。ただそんな漆喰も剥げている箇所があり、その箇所からは下地の木材やコンクリートなどが見えて、この部屋を補強している部材が顔を覗かせていた。
地下トンネルを進む! 動画
このトンネルが造られたのは1944年頃という近代なので、松明を燃やしたりして灯りにしていた時代とは違って、トンネル内には電気の配電が張り巡らされていたのが印象的だった。ここまでしっかりした造りを施していた様子を見ると、当時の日本軍もここで徹底抗戦をする心積もりだったのかもしれない。
幕僚室にて
そして奥に進んで行くと、次は「幕僚室」という案内板が見えてくる。この部屋も先程の作戦室のように、漆喰で塗られた壁が見えて、しっかりした造りになっているように感じる部屋。
そんな幕僚室の壁には「自決された時の手榴弾の弾痕」と書かれた案内板が張られており、漆喰の壁にボコボコと穴が空いたままの状態でその痕跡が残されている。
沖縄戦の時には日本軍や沖縄市民が多く亡くなったのであるが、皆が砲撃などで死んだのではなく、意外と自決(自殺)した人も多かったようだ。日本では昔から追い詰められたら、潔く自ら命を絶つという精神が尊重されていた事もあり、また沖縄市民からすれば戦争で負ければ奴隷のような生活や虐待を受けされる事から逃れる為に、集団で自決した人も多かったようだ。
お次は「司令官室」で、この部屋だけ扉が取り付けられているのが見える。この塹壕には何千人の兵士が滞在していたと考えられているが、その中でトップに立つ人間にだけは、このような特別室が用意されていたようだ。
この司令官室には当時にあったかどうかは分からないけど、1セットのテーブルと椅子が虚しく置かれている景色が見られる。ここの総司令官であった大田實は追い詰められていた日本軍の劣勢に頭を悩まし、また多大な迷惑を掛けた沖縄市民に陳情する気持ちを抱えながら、この部屋で自問自答していたのかもしれない。
人によっては悩みが無いように見える人もいるけど、どんな人も悩みを抱えている。ただしその人によってその悩みに対しての対応の仕方が異なり、その様子を感情的に出さないようにしている人は、まるで悩みを抱えていないように見えるのだろう。しかし、この太田司令官が沖縄市民の事を思って作成した電報の内容を見ると、上の立場に立つ人間程に強いプレッシャーを感じていて、人の居ない自分の部屋で色々と悩んでいた事だろうと妄想してしまうのである。。
悩む事があるから、人生は楽しいのよ!
ボクは悩みなんて無いサ~!
お次は「暗号室」が見えてくる。暗号は20世紀の戦争で最も重要視されていた物でもあり、この暗号の解読が戦争の明暗を分ける程に影響が大きかった。この暗号というのも電報などの発展で昔の戦争には無かった技術で、戦争というものも時代を追う毎に色んな技術革命が起きていった様子が伺える。
暗号室はこのように塹壕の中でも一番広い部屋となっており、その当時に暗号という物がどれだけ重要視されていたかが感じられる部屋ともなっていた。暗号というものには機材が必要なので、それを置くスペースが必要という事で広かったのかもしれない。
ただ偉いさん用の部屋では無かった為に、壁に漆喰は張られておらず、頑丈そうには見えるものの、綺麗な部屋には感じない。ここを造営した兵士達からすれば、戦場の最前線で豪華な部屋を手間掛けて作る事自体が無駄で、中で機能的に働ける場所であれば充分だった事だろう。
この塹壕内の通路は人が1人通るだけの広さとなっており、すれ違う時には体を壁にくっ付けて通り過ぎないといけない程に狭い道となっている。現代みたいに大きな重機などを使って造った塹壕ではなく、人手のみで作成した塹壕なので、これでも良く造ったなと感じる通路なのであるが。
こちらの絵はそんな狭い通路に、雑魚寝をしている兵士達の様子が描かれている。戦後、この塹壕内から2,000人を超える日本軍兵士の遺骨が見つかり、その数からも2,000人以上の兵士がここに駐在していたと考えられる。そんな中でも個別の部屋を与えられていたのは司令官などごく僅かな存在であり、その他多くの兵士はこのように通路に寝そべっていたようだ。
先日島根県にある世界遺産の「石見銀山」に行って、江戸時代の銀山発掘の様子を勉強してきたけど、この塹壕が掘られた時もその当時とはあまり変わらないような手作業で造営が行われていたようだ。この時点までは日本国内での地上戦は行われなかったものの、この沖縄で初めて敵が上陸してくる為に急ピッチで造られた塹壕。それに引き換え、連合軍の中心であるアメリカ合衆国は自国には全く戦火の火の粉が降りかからずに、その利を活かしてひたすらに敵を撃退する武器をどんどん生み出していた。
追い込められて地下に穴を掘っていた日本軍と、着々と軍備を増強し続けていたアメリカ軍。その違いは年月を重ねる程に差が大きく離れていき、次第に戦争の命運を分ける程に大きな差となっていくのであった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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