沖縄戦争時に海軍司令部の塹壕が掘られた「旧海軍司令部壕」を見学【沖縄旅行記㉗】

沖縄旅行記2020年秋-㉗

 旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(Visiting “Former Naval Headquarters Dugout,” Where Naval Command Trenches Were Dug During the Okinawa War [Okinawa Travelogue 27])

日本軍の廃墟

沖縄旅2日目はガンガラーの谷斎場御嶽(世界遺産)⇒中城城跡(世界遺産)と見学し、そこから引き返し那覇市の南西側にある豊見城市まで戻ってきました。沖縄の観光では琉球王国時代の歴史や遺構などと共に、太平洋戦争時に日本で唯一の地上戦が行われた場所でもあるので、その戦争というものにも興味を持って見学したいと思い、「旧海軍司令部壕」という塹壕跡が公開されている豊見城市にやって来たのである。

 

中城城跡から豊見城市の「旧海軍司令部壕」までは、時間の問題もあったので高速道路(320円)を利用すると、とても快適に移動出来た。約18kmほど高速道路を利用したがそれで高速道路料金がたった320円とは、レンタカーもそうだったけど、この沖縄という島の車社会に依存しているからか、車関連の費用が安くついた。

 

 

旧海軍司令部壕に到着!

周囲が見渡せる高台に造られていた「旧海軍司令部壕」には無料駐車場が用意されているので、そこに車を停めてから周囲の様子を伺う。今ではこの場所は海軍壕公園として整備されているので、約70年以上も前に激戦が行われた所とは思えない程の寛ぐ場所ともなっている。

 

この旧海軍司令部壕は1944年の後半に造られた物で、近くにある那覇空港を守るための防空壕として設置された。現代から見れば、もうこの1944年の時点で日本軍は南西諸島を次々と落とされて、ジリ貧状態で日本本土の最南端である沖縄で最終決戦を挑むつもりだったのだろう。

 

【旧海軍司令部壕】

住所:沖縄県豊見城市字豊見城236
営業時間:9時~16時30分頃(※年中無休)
電話番号:098-850-4055
入場料金:大人600円/小中学生300円

 

 

この建物は旧海軍司令部壕と共に、海軍壕公園のビジターセンターとして、沖縄戦時の資料などが展示されている。なお、旧海軍司令部壕の見学は有料だけど、この海軍壕公園内にあるビジターセンターの中は見学無料である。

 

まずこのビジターセンター内に入ると、沖縄を占領したアメリカ軍が撮影したと思われる写真が飾られている。我々現代に生きる日本人からすると、この戦争はとても遠い昔のように思うけど、テレビ映画などで見るベトナム戦争のような景色が、かつてこの日本でも見られたのである。

 

なお、この先にある有料施設の旧海軍司令部壕では、沖縄戦後に放棄されてしまった海軍司令部壕の一部を整備して、観光用に一般公開されている。しかしこの塹壕では実は多くの日本兵が自決しており、戦争後に調査してみたら2000人を超える遺骨が発見されたという。

琉球姫
琉球姫

多くの日本兵が最後を迎えた場所なのよ!

 

 

旧海軍司令部壕の資料館にて

こちらは旧海軍司令部壕の建物に造られている、無料で見学できる資料館。日本人は平和ボケしているという風に言われる事が多いけど、かつては悲惨な戦争を体験した民族だけに、その反動で戦争を繰り返してはいけないというDNAが刷り込まれているのかもしれない。

 

その資料館の入口でまず目に入ってくるのは、この海軍司令部の責任者だった海軍中将の大田實司令官の写真と、彼が所持していたとされる日本軍の旗。この日本軍の旗はアメリカ軍が占領した際に持ち去られてしまったが、後年に日本に返還された物だという。またこの塹壕では責任者の大田實を始め、多くの日本兵が自害している。

琉球姫
琉球姫

アメリカ軍に殺されたのではなくて、自害しているのが興味深いよね。

沖縄43
沖縄43

古来日本的な自決の精神があったのサ~

 

そして当時の日本軍が追い込まれていた状態だったのが分かるのが、この塹壕が全て人手で約5ヵ月間に渡って過酷な労働で造られた事。重機などはなく、ひたすらにツルハシで掘り進んで、掻き出された土を籠に載せて外に持ち出していたという。

 

この太平洋戦争も一時は日本軍の華々しい戦果が大体的に日本国内に紹介されていたようだけど、その日本軍のピークは1941年12月の真珠湾攻撃の時だったのかもしれない。それ以降は世界を敵に回してしまい、また自国が戦争に晒されなかった大国アメリカ合衆国を怒らせた為に、どんどん窮地に追い込まれてしまうのであった。

 

大田實司令官が来ていた軍服の一部だけど、日本は江戸時代まで独自の文化を築いていた国だったハズなのだが、明治維新の影響によって、いつの間にか西洋化が大きく進んでしまっていた。特に海軍や陸軍は明治維新後にヨーロッパの大国にその戦法などを学びに行った人が上層部に赴任した事もあって、このように軍隊の衣装は西洋風になってしまった事だろう。

 

この大田實司令官が最後に日本軍司令部に電報した内容が、とても有名なんだという。日本軍の残された資料などはその多くが「我が祖国の為に・・・」と書かれた内容が見られるけど、大田實司令官はこの戦争が沖縄市民にどれだけ悲惨な目に遭わせたかと、悲しんで見ている様子が描かれていた。

 

>大田實司令官の電文「県民斯ク戦ヘリ」-旧海軍司令部壕HPより

 

太平洋戦争で日本軍は太平洋上の小さな島々を占領して領土をどんどん拡げていったが、しかしそれは生産能力が上がらないのに、次々と新規店舗を無理やり増やしていく企業のような物で、いずれは資金繰りに難儀して損失を出して撤退しなければならない状態を招き出すとの同じような物だった。

 

アメリカ軍と連合軍は既にヨーロッパ戦線でナチスドイツを撃退し、この1945年4月に行われた沖縄上陸戦ではその持てる力が集中投入された。この写真を見ていると、遠いヨーロッパで行われた有名なノルマンディー上陸作戦を思わせるが、この舞台はここ沖縄である。

 

今ではこのような火花が飛び散る写真などは花火をしている時にしか見られないけど、戦争時は空母や戦艦に体当たりをしようとする戦闘機に対して、艦上の機銃が考えられない程に弾を発射し、まるで花火大会のような景色だったのだろう。

 

そして資料館にはこの塹壕跡で発見された物も展示されている。こちらは当時の日本軍がどれだけ追い詰められていたかが分かる、有名な銃剣が飾られている。アメリカと違って日本には鉄鋼などの資源が採れなかった為に、段々と武器も造られなくなっていく。終いには銃の先に刀を付けて銃剣として突撃していたと聞いていたが、実際にはそんな銃も無く、このように木の棒の先に刀を括りつけて突撃していたようだ。。

 

アメリカ軍は最新のマシンガンなどで武装しているのに対して、日本軍はこのような弾が飛び出ない銃や、先に刀が付いた棒で立ち向かっていたのである。先日BS-NHKで読売新聞社の社主である渡辺恒雄氏の回顧インタビューが放送されていたけど、戦争末期の日本軍は大砲に詰める爆弾の火薬も無くなり、終いには木を削った玉を使わざるを得ない状況になっていたという。。

 

 

この戦争ではよく戦闘機に爆弾を付けて、そのまま体当たりする特攻が有名になったけど、陸上の兵士達はマシンガン相手に銃剣で特攻していたのである。特攻隊については色んなメディアで取り上げられて華があるように描かれている事が多いけど、その裏ではこのように陸上で散っていった日本軍兵士の方がとても多いのである。

 

近代戦争で最初に化学兵器を使用したのは、ナチスドイツ軍だとされている。日本は太平洋戦争時にはそのナチスドイツ軍と同盟を組んでおり、世界を征服しようと企んでいた。しかし頼みの綱であるナチスドイツ軍は遠い国であり、また独裁政権は他者との信頼関係を構築しない事もあり、日本軍よりも先に滅亡する事になる。

 

我々や親の世代でも今の日本には、この当時の戦争時代に生きている人口がとても少なくなっている。だからそんな現代人からすれば、戦争なんて教科書で習っただけの遠い過去だと思ってしまいガチだけど、このような展示品を見ていると実際に日本で戦いがあった事が実感できる。

 

1941年12月の真珠湾攻撃をピークにして、日本軍は劣勢になっていく。そしてその劣勢になっていく様子は最前線に出ていた日本軍兵士達が、それを一番敏感に感じていたハズである。明らかに劣勢なのにまだ突撃しろという指令を出されて、迷わずに突撃できたのはごく僅かな人しかいなかったのかもしれない。

 

日本軍はサイパンやグアム島を死守できなければ敗北という事実を無視して、日本本土での最終決戦にすがった。しかし、サイパンやグアム島に配備された大型爆撃機B-29は、軽々と日本本土を爆撃圏内に入れて、無慈悲に無差別爆撃を行う。そして本土からの支援も無いままに、沖縄本島での戦いは周囲をアメリカ軍に囲まれて、なぶり殺しのようなリンチが始まるのであった。。

 

このようなアメリカ軍の星条旗を敵陣占領の証に立てている場面を映画などでよく見たような記憶があるけど、ここ沖縄では実際に首里城などで星条旗が立てられていたようだ。首里城の近くにも司令部の塹壕が設置されていて、その為に集中砲火を浴びて歴史的な琉球王国の遺産と共に崩れ去っていったのである。

 

この沖縄に配属された日本軍兵士は上陸してきたアメリカ軍と交戦し、粗末な武器の装備でありながらも約10日間に渡って、アメリカ軍の侵攻を阻止した。しかし、次々と最新の武器などを所持して湧いてくるアメリカ軍兵士の前に、日本軍が壊滅するのは時間の問題であった。

 

江戸時代後半には西洋からの最新型の鉄砲や大砲などが日本にも導入されて、明治維新前後の戦いでは大きく活躍した。そしてその勢いのままに日本軍は大国のロシアや中国を打ち破るなど破竹の勢いで邁進したが、最後の最後はそんな銃とかではなく、昔から日本人の魂であった刀に頼った所が何とも皮肉を感じるのである。

 

今はとても懐かしい黒電話だけど、時代が経つと腐りやすい所がこのように欠落して、劣化しにくい部分だけがこのように残されている。時代を経て、朽ちる部分と朽ちない部分。平家物語の諸行無常ではないけど、全てが上手い事いき続ける事はないのである。

 

こちらにはアメリカ軍がこの沖縄戦で使用した砲弾数と、沖縄県民を含む日本人の戦没者の数が掛かれたパネルである。沖縄で亡くなった戦没者1人に対して、単純に計算すると約13発の砲弾が撃ち込まれた事になる。しかも銃の弾ではなくて砲艦射撃で放たれた弾は60万発で、大きな破壊力を持っていた砲艦弾がこれほどまでに撃ち込まれていたとは驚きである。

 

そしてそんな沖縄では戦後に多くの不発弾が見つかっており、その不発弾処理数がとても多いのである。当時はまだ爆弾の性能もまだそんなに良くなかった為に不発弾が多いけど、現代では爆弾の性能が良くなっているので不発弾の割合も大きく減っているのだろう。

 

この沖縄戦で日本軍は色んな物資が本土から運ばれて来ずに、困窮していた。武器だけではなく治療具や薬も不足し、助けられる命も助けられなかった。そしてひめゆり学徒隊でも有名だが、そんな医療班の人達も最後は医療活動も無意味になってしまい、自分達も銃剣を持って突撃していき、多くの人命が散っていった。。

 

このような塹壕から発見された物を見ると、現代人には想像にも付かないような苦しい状況だったのが分かるような気がする。現代では簡単に色んな不満を口にしてしまうけど、このような沖縄戦時下に置かれていた人々の事を想像すると、今の現代人はどんな不満を抱えていたにしろ、それと比べてしまうと遥かに幸せであろう。

 

第二次世界大戦時には”大砲ロマン”というのがブームとなり、他の国に先駆けて武器の大型化を図った。日本軍では戦艦:大和がとても有名だけど、時代は戦艦同士の戦いではなく、戦闘機を搭載した空母メインの時代となっていた。そしてあまりにも大型だった戦艦大和は動かすだけでかなりの労力がかかり、また沖縄戦に海上の特攻隊として突っ込むも、大型戦艦ならではの的の大きさで集中砲火を浴びて、日本軍の威信を抱えてまま、太平洋深くに沈んでいったのである。

 

だから戦艦大和を見ると、日本軍の一番良い時代の印象を感じてしまうけど、これが日本軍が世界に先駆けて進歩していた証ではなく、自ら腰に大きな重しを結んで海に飛び込んだような結果となってしまった。世界中で造られた”大砲ロマン”の数々も、その殆どは実戦で使われる事が無かった。あまりにも巨大化し過ぎると、逆に問題しか出てこないからだ。

 

そんな無料の資料館を見学した後は、こちらの入口から旧海軍司令部壕の塹壕跡へと進んで行きます。なお、ここから先の見学は有料となっているので、まずは入場券を購入してから入場しましょう。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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