首里城で燃えた龍の置物の、無残に地面に散らばる残骸の数々【沖縄旅行記⑩】

沖縄旅行記2020年秋-⑩

 旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(The wreckage of the burnt dragon figurine on the ground at Shuri Castle [Okinawa Travelogue 10])

バラバラなパズル?!

沖縄旅初日の午後は沖縄で最も人気の観光名所でもある「首里城」にやって来ています。第二次世界大戦時に焼失してしまった首里城本殿であるが、1992年にその建物が復元されて沖縄県民は喜んだ。しかし2019年に飛び込んできた深夜に首里城が焼け落ちるニュースをテレビで見て、信じられないような思いでその映像を眺めていたのを思い出す。

 

 

 

首里城:御庭にて

こちらに置かれていた残骸は「石高欄(いしこうらん)という本殿に使われていた手すりのパーツ。このように焼け跡には何も残されていない訳ではなくて、観光客向けに残骸の一部が展示されている。

 

昔の建物の下にはこういう柱を載せる礎石が地面に埋められており、その土台を支える役目をしていた。最近のコンクリート造りの家ではこういうのは見られないけど、昔ながらに木造建築物の場合は家の柱の下にこういう土台が設置されていた。

 

焼け落ちた首里城本殿の屋根には、このような龍の頭部分が飾りとして取り付けられていた。このような文化は中国大陸から日本に伝わってきたものであるが、なかなか日本国内では屋根に龍が取り付けられている光景というのはあまり見られないと思う。

沖縄43
沖縄43

龍もいいけど、次はシーサーにしてみたらサ~?!

 

この屋根に備えられていた龍の頭は何種類かの焼き物で造られており、中庭ではこのようにその龍の頭の残骸が野外で展示されていた。このような焼き物は壊れてしまった物を接着剤でくっつけて復元する訳にはいかず、造り直しとなるのでこの残骸は再利用されない為にここに展示されていたのだろう。

 

こちらには龍のヒゲの残骸も置かれていた。この首里城は1992年に復元された為に、その際に髭部分は金属っぽい物で造られていたけど、昔の時代はこの龍のヒゲ部分はどんな材料で作っていたのだろうか?!

 

こちらには歯と鬚(ひげ)が置かれていたけど、さっきの「髭」とこの「鬚」は同じ「ヒゲ」と読むけど漢字は異なる。実は同じヒゲの意味の感じであるが、そのヒゲが生えている箇所によって使われる漢字が異なるようだ。「髭」は口ヒゲ部分を示し、「鬚」は顎ヒゲ部分を表す。ちなみに「髯」というヒゲを表す漢字もあって、これは頬のヒゲを表すんだとか。

沖縄43
沖縄43

漢字って、日本人以外にはややこしいサ~!

 

こちらにはまた難しい漢字で「鬣(たてがみ)」と書かれているのが見える。英語で言えば一言「ヘアー」で済むのに、日本人はその毛がどの髪の毛かまで区別したがる真面目な民族なのだろう。。

 

この被災した首里城は2026年頃まで復興工事が続く見通しで、それまでの期間に首里城を訪れたお客さんの相手をするのが、この地面に置かれている焼けた残骸たちである。気分的には何も置かれていないよりも、何か写真に撮れる物が置かれている方が嬉しいのである。

 

この首里城本殿の建物は木造だった為に、綺麗に全て焼け落ちてしまった。しかしこのように階段や土台などは石で出来ていた為に、そのままの姿で現存している。

 

 

首里城復興展示室にて

そんな首里城本殿跡の近くにはこのようなプレハブ小屋が造られており、復興に向けた資料などが保存され展示している場所となっている。トイレも併設されているので、休憩がてらに寄り道するにも向いている場所だ。

 

この場所にこんな荘厳な建物が本当に存在していたとは思えない程に、今の首里城跡はガランとして無機質な場所となっている。しかしその第二次世界大戦時に焼失した後には、約50年程この本殿が無かった時代があるので、必ずここに本殿の建物が継続して建ってきたという訳でもない。

 

こちらは先程残骸を見学した龍の頭ではなく、鬼瓦代わりに屋根に設置されていた獅子の像の残骸。何とも無残な形になっているが、辛うじて両目が残っているので顔だと認識できる。

ただ目よりも大きい鼻の穴に目が行ってしまうが。。(笑)

 

日本本土では鬼という生き物が昔から伝えられてきたけど、この沖縄では中国大陸との関りが強かったからか、鬼ではなくて龍や獅子の置物が多いように思う。しかしそれでも似たような意味合いで使われているので、どっちでもあまり違いはないのかもしれないが。

 

焼失前の建物の屋根には、このように龍の頭があったり、さっきの獅子の鬼瓦的な物があったりと、意外と騒がしかった屋根だったようだ。

沖縄43
沖縄43

シーサー推進委員会からすると、次はシーサーの設置をオススメしますサ~!

 

この中庭に入る時に通った奉神門も全焼は免れたが、北側の一部の屋根は燃えてしまった。このように首里城は高台にあったので、2019年10月の夜中に燃えた際には市街地からもその燃える景色が見えた事だろう。

 

こちらの瓦はその奉神門の北側部分で残存した瓦の一部が展示されている。古来より建物に使われてきた瓦は火事には強いように思うけど、意外とそうではないようだ。瓦自体は熱には強いけど、飛んできた火の粉がその隙間に入り、瓦の下にある木材部分を燃やしてしまうので、意外と瓦で舗装されているからといって火事にならない訳ではないようだ。

 

こちらは本殿に設置されていた獅子像というかシーサー像の残骸。五体満足に残っている訳ではなくて、顔部分や足先が紛失してしまっている胴体部分など、残存の仕方が生々しいように思える。。

 

 

世誇殿にて

こちらは「世誇殿(よほこりでん)という、元々はまだ結婚していない王女の住まいとされていた建物。この建物は2019年に外観のみ昔の様子で復元された建物だが、2019年の火災の際は本殿に近い場所にありながら、火災は免れている。

 

この世誇殿は外観のみしか復元されておらず、建物内ではこのようなモニター画面があって、琉球王国の歴史などを勉強できる場所となっていた。また椅子も用意されていたので、ここで少し休憩するに適した場所でもあった。

 

そして更に首里城御庭の東側に通路が伸びていたので進もうとすると、その城郭の隅にこのような「菊畑」跡の案内板を見かける。どうやら昔の首里城ではこの辺りで菊を栽培しており、ちょっとした花畑が造られていたという。

 

東のアザナ(展望台)へと向かう!

首里城の東側には2019年に復元された、東のアザナ(展望台)・寝廟殿・白銀門などが解放されているので、そちらの方へと行ってみる事にする。その道の脇には先程案内板にあったように、小さな菊の花畑が再現されているのが見える。

 

ここからはちょっとした坂道になっており、また一方通行となっていた。この先の展望台となっている「東のアザナ」が高台となっているのは、高い所から周辺を見下ろせて敵の襲来などを確認する場所だったからでもあるようだ。

 

今日は雨こそ降ってないけど、このようにどんよりとしたブ厚い雲に覆われて、いまいちスカっとしない天気だった。沖縄滞在中はあまりいい天気だった記憶が無いけど、南国はいつもスカっと晴れ渡っている訳でもなく、このような曇り空の方が多いようだ。

 

この辺りには「九年母(クネンボ)という柑橘類が昔は栽培されていたそうで、沖縄の名産でもあるシークワーサーをも含めた柑橘類の総称として九年母という呼称が使われているようだ。

 

しかし目を緑の部分にやると、その九年母ではなくて、南国ではよく見かけるソテツが見えたが。。日本国内ではどこでもこのソテツを目にする事が出来るけど、沖縄の首里城でも同じように目にする事が出来たのである。

 

そして進んで行くとちょっと奥まった所にこのようなお風呂を思わせる、遺構が見られた。首里城に住む琉球の国王がここでお風呂に浸かっていたのかと思ったけど、これは風呂跡ではなくて、貯水槽跡だったようだ。

 

この案内板によると、この凹んだ部分だけに水を貯めていた訳ではなくて、もっと下まで空洞部分がありそこに雨水を貯めていたようだ。このような高台に城を築くのに重要な事は、堅固な城壁を築く事と共に、生活の為の必需品である水の確保である。

 

そしてまた城壁に造られた門が見えてくる。こちらは「白銀門(はくぎんもん)で、その奥には国王が亡くなった時に遺体を安置する建物だった「寝廟殿」の跡があるようだ。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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