本当に燃えてしまったとは思えない、首里城本殿まで通じる道を進む【沖縄旅行記⑧】

沖縄旅行記2020年秋-⑧

 旅行期間:2020年11月11日~14日(3泊4日)
(The road leading to the main building of Shuri Castle, which I can’t believe has really burned down [Okinawa Travelogue 8])

戻ってきた首里城

さて13年振りに訪れた首里城で久々に再会した守礼門や、世界遺産の一部にも指定されていた園比屋武御嶽石門などを見た後は、首里城の本殿へと向かう門へと進みます。守礼門のある西側から本殿に向かうルートには、まず第一関門的な「歓会門(かんかいもん)が見えてきます。

 

 

 

歓会門へと進む!

この歓会門も守礼門と同様に属国だった中国からの使者を迎え入れる門として、1500年頃に造られていた物。ただこの門も残念ながら第二次世界大戦時に破壊されてしまい、今見られる建造物は1974年頃に復元された物となっている。そしてこちらの案内板には、明治30年頃に撮影されたという古来に造られた歓会門の写真が見られる。

 

こちらが戦後の1974年に復元された「歓会門」。第二次世界大戦時に本殿及び周辺の門なども破壊された首里城の復元も、最初はこのような周囲の門や城郭から先に復元されていったようだ。なのでこの歓会門が復元された時には、まだこの奥にある首里城本殿の建物はまだ復元されておらず、下手に観光客に期待だけを持たせる門だった事だろう。

 

この歓会門も先程見た世界遺産の園比屋武御嶽石門と似たような構造になっていて、1500年頃の建造物で400年程残っていた建物はこのように石造りの頑丈な建物だったからだろう。

 

そしてそんな門の脇に一対で設置されているのは、沖縄ならではのシーサー像である。この狛犬的なシーサーは中国の使者などを迎え入れるという意味合いではなく、悪霊を追い払うように外側を向けて設置されている。

沖縄43
沖縄43

狛犬は番犬的な役目サ~!

 

守礼門までは特に料金所も無かったので、この歓会門ぐらいで入場料金を支払うのかと思っていたけど、ここでは料金を支払わなくてもまだ中に入れるようだ。この首里城公園も入場料金を支払わなくても、世界遺産に認定されている先程の園比屋武御嶽石門を見学する事が出来るので、意外と開放的な場所に感じた。

 

こちらは歓会門の内側でその脇には料金所のような小さな建物も造られているけど、こちらは単に係員用の建物となっているだけ。勿論入場料を払う前提で見学に来ているので、無料な場所だけ見て帰る訳ではないのだが。。

 

 

「瑞泉門」と 冊封七碑 と 龍樋

門をくぐったかと思うと、階段の先にまた別の門が見えてくる。この首里城は15世紀前半に内側の城郭が築かれ、その約100年程後に先程の歓会門などがある外側の城郭が築かれて、二重の城壁に囲まれている形になっている。なのでそれぞれに門が付けられているという訳である。

 

この先に見えている瑞泉門の手前には、綺麗な水が湧き出ている「龍樋」という場所があり、その水のキレイさが「瑞泉(ずいせん)という風にこの門に名付けられたようだ。

 

この「瑞泉門(ずいせんもん)は1470年頃に元々造られていた門だが、こちらも残念ながら第二次世界大戦時に破壊されてしまっている。なお、今見られる瑞泉門は1992年頃に復元された物となっている。

 

こちらはこの先にある瑞泉門の名前の由来にもなった「龍樋(りゅうひ)という、首里城敷地内で綺麗な湧き水が出てくる場所。この水が出てくる龍の彫刻は約500年程前に中国から寄贈された物で、第二次世界大戦で破壊された首里城の中でも珍しくその当時から現存している彫刻である。なおここに湧き出る水は中国からの使者に提供され、綺麗な水として有名だったようだ。

 

そんな龍樋の脇にあった、「中山第一(ちゅうざんだいいち)と文字の入った石碑が見える。こちらは1700年代に中国からこの地を訪れた中国からの使者が、龍樋に湧き出る水の綺麗さに感動して書いた文字が記された「冊封七碑(さっぽうしちひ)という、この周辺で合計7つに分けて設置されている石碑の中で最も古い物。ただこれらの石碑も第二次世界大戦時に破壊されてしまい、今見られる石碑は1996年に拓本を元に復元された物となっている。

 

このように首里城も琉球王国時代から存続してきた建物のようにも見えるけど、実際にはその殆どが第二次世界大戦によって破壊されてしまっており、約400年程の歴史を持つ歴史的な建造物も人間たちの争いの前に壊されてしまったのである。

 

戦争で見事に破壊されてしまった首里城だけど、逆にここまで復元されているという事は何気に凄い。しかもただ闇雲に造った訳ではなくて、何年もの調査をしてなるべく原型にとても近い形で再建されているので、その労力は一言では語れない事だろう。

 

こちらは瑞泉門の脇に鎮座していたシーサー像。これが1500年代に造られた物だったら、風化してもっとボロボロな外観をしていた事だろう。しかし戦後に造られたシーサー像なので、こうやって近くで見てみると意外と綺麗なのである。

 

 

漏刻門を通る!

守礼門を通過して歓会門・瑞泉門も通り抜けていくと、またすぐに別の門が見えてくる。13年前に首里城を見学した時にこんな門や階段を登っていった記憶が少し蘇るような感じがしたけど、その当時は今みたいにスマホではなくて会社から支給されたガラケーで、現代みたいに頻繁にケータイで写真を撮影する時代でもなかったので、全く当時の写真は残っていないのである。。

 

この門は「漏刻門(ろうこくもん)と呼ばれており、漏刻とは中国の言葉で「水時計」を表し、この門の櫓の中で水槽の中の水で時間を図る水時計が設置されていたという。なおこの漏刻門は第二次世界大戦で破壊された訳ではなくて、その前に昭和前半に老朽化の為に取り壊されてしまい、今見られる門は1992年に復元された物となっている。

 

また漏刻門は別名「かご居せ御門」とも呼ばれており、薩摩藩から派遣されていた高い地位の役人が籠に乗って登城していたが、琉球王国の国王に敬意を払う為にこの門の前で籠から降りて、歩いて中に入っていた為にそのような別名も付けられていたとか。

 

そんな漏刻門を進んで行くと、また右手に別の門が見えてくるけど、それよりも正面に見えている工事現場の方が気になる。この首里城本殿は2019年10月31日の未明に炎が出て、この本殿周辺にあった建物も含めて7棟が全焼してしまった。その後は焼失してしまった本殿などの建物は、2026年度中に再建される予定で工事が進んでいるようだ。

 

廣福門にて

そしてまたすぐに別の門が見えてくるが、こちらは守りの為の門という形状ではなくて、役所的な機能を持つ建物と物置となっていた「廣福門(こうふくもん)。この廣福門は戦争で焼失した訳ではなく、その前に明治時代の終わりにこの首里城本殿に小学校などが造られた時に解体されてしまっている。そしてその後の1992年になってから、取り壊された廣福門も復元されている。

 

このように廣福門の隣にある建物まで2019年10月に起きた火災で焼失してしまっているようだが、そんな建物に近いながらこの廣福門は辛うじて火が乗り移らなかった。風向きの影響で本殿の西側の建物には、辛うじて燃えなかった物もあった。

 

実は首里城本殿って2019年の火事が最初ではなくて、戦争で焼失した1945年も含めて、今回の火事でなんと5回目になるという。昔から木造の建物は燃えやすくて、日本全国の天守閣なども焼失した物が多いけど、この沖縄でもその例に漏れずに何回も焼失しているのだ。

 

また首里城本殿も明治時代に入ってからは、本殿は老朽化もあって取り壊される予定もあったり(結局保存される事に)、また払い下げで女学校の校舎として利用されたりと、紆余曲折な運命を辿っている。

 

 

廣福門からの景観 動画

 

 

今までに合計5回も焼失している首里城だけど、今回は首里城が約30年に及ぶ復元工事を終えたばかりだっただけに、沖縄県民にとっては大きく悲しいニュースだったという。深夜に火災報知器が火災を探知したものの、消防団が駆けつけた頃には火が周囲の建物に乗り移っており、消火活動もままならず首里城が燃え続ける姿を見続けるしかなかった。。

 

 


沖縄・首里城の正殿と北殿が全焼(19/10/31) 動画


 

 

せっかく復元した首里城がこんなに簡単に焼失してしまったのには、その建物に塗られた漆が影響していた可能性があるという。漆で塗られた木はその表面は耐熱に強くなるのだが、一旦その木が燃えだすと通常よりも早く燃えてしまうらしく、綺麗に塗り替えられたのがアダとなった可能性も考えられているようだ。

 

 

こちらは廣福門の手前の広場のようになっている場所にあった「供屋」という建物だが、詳しい用途は不明だという。それでも2000年にこのように復元されて、このように首里城の一角に鎮座している。

 

その供屋の中には、1458年に琉球王国第一尚氏の当時の国王が造らせたという『万国津梁の鐘』のレプリカが吊るされている。この鐘は元々は首里城本殿に吊るされていた物という事が判っているが、その後にどこに設置されていたかが不明なので、今はそのレプリカがこの供屋の中に吊るされているんだとか。

 

この1458年に造られたという万国津梁の鐘の本物は、ここ首里城にはなくて、那覇市にある「沖縄県立博物館」に保管されており、今見られるレプリカの鐘は供屋と共に2000年に復元された物だそうだ。

 

焼失してしまった首里城には色んな歴史的な品も多数保管されていたが、勿論それらも残念ながら焼失してしまっている。首里城本殿に常設されていた展示品約400点ほどが火事で燃えてしまっているが、中にはレプリカなどもあり、本来の物は博物館に保存されている物もある。

 

博物館やお城の見学で展示されていた歴史的な文化財がレプリカだと、見た目には本物とは違いが分からないが「複製」と書かれているだけでガッカリしてしまうけど、このような火事や天災などの影響でもしその貴重な文化財が消失してしまう事を考えると、複製品が展示されていても仕方ないと思ってしまう。。

琉球姫
琉球姫

本物と複製を見比べる事が無いから、複製でも気にならないよ!

 

さて廣福門をくぐると、やっとこれ以上先に進むには有料となる「奉神門(ほうしんもん)が見えてきます。この奉神門も北側の屋根の瓦部分に火が燃え移ったけど、何とか消火活動のおかげもあってその天井部分だけの焼失で済み、この時は補修作業が行われていた。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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2020年11月中旬に13年振りに、沖縄の地を踏みしめます。今回は3泊4日の旅程で、沖縄らしさを味わう旅にしたいと思います。
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