明石&加古川旅(2023年)-22
訪問:2023年1月下旬(1泊2日)
坂道多し!
さて明石市に来て、海沿いから明石市立天文科学館まで歩いてから、『都心回遊路 時の道』と名付けられている歴史ある道を散策しながら、明石城跡に向かう事に。
『都心回遊路 時の道』の散策!
先程まで居た人丸山から西側に向って進んで行くと、こちら日蓮宗の寺院「本松寺」が見えてきた。
こちらの「本松寺」は明石藩に仕えた宮本武蔵が作庭したと伝わる庭園がある場所だが、それよりも個人的にはプロレス好きな自分の人生に欠かせない、日本人なら誰でも知っているプロレスラーのお墓が安置されている寺でもあった。
その超有名プロレスラーは「ジャイアント馬場」で、読売巨人軍に投手として入団し、後にプロレスラーに転向した日本プロレス界でも大黒柱的存在の人物だった。
個人的にはジャイアント馬場が創設した「全日本プロレス」を見て育ったプロレス好きな人間なだけに是非ともジャイアント馬場のお墓を参りたかったのだが、この明石訪問時にそんな凄い人のお墓があるなんて全く知らなかったので素通りしてしまったのである。。
もう一回行かないとね!
本松寺にはこのように宮本武蔵が作庭したという案内板があったけど、個人的には宮本武蔵よりも『ジャイアント馬場の墓』の案内板も設置していて欲しかったのだが。。
今後はプロレス好きの聖地になるかもね~!
そして本松寺の奥には「妙見社」という神社も隣接していて、石田三成の家臣として関ヶ原の戦いで西軍に加わり、獅子奮迅の戦いで戦死した「島 清興(左近)」を祀る”妙見尊”が奉納された神社でもあるという。
ただ先程の本松寺やこの妙見社は、1995年の阪神淡路大震災で倒壊してしまい、後になって修復されて今も見られる姿となっているようだ。
そこから西側の坂道を登っていく途中には、これまた日蓮宗の「大聖寺(三国山)」という寺も見かける。
この大聖寺は室町時代に創建されたという歴史があるが、昭和31年に日蓮宗を離れて「三国寺」という単立の寺院となったが、その後に住職が亡くなって無住職の寺となってしまう。
その後に山梨から住職がやって来て、再び日蓮宗の「大聖寺(三国山)」に名を改められたという。
寺も檀家の支援があるかで、大きく情勢が変わるぜい!
そんな紆余曲折の歴史を経て日蓮宗の「大聖寺(三国山)」に戻った寺は、阪神淡路大震災で半壊してしまう。
それから後の平成26年(2014年)になって、これ以上の補修が不可能な状態だった為に建物を全面建て替えし、15mという高さの最上階屋上に『日蓮大聖人慰霊供養銅像』を設置したのだという。
こちらは大聖寺の塀に貼られていた『日蓮大聖人慰霊供養銅像』の案内で、袈裟が風でなびく姿になっているようだ。
そんな風に昔の寺町を歩いて行くと、右手に「明石市立文化博物館」の建物が見えてきた。
旅行で訪れた旅先の知識を得る最高の場所が”博物館”であるが、今日はとりあえず先に明石城跡を見に行ってから、時間があれば明石市立文化博物館を見学という事で一旦後回しにしたのであった。
明石市立文化博物館の裏側の道から明石城跡に繋がっていそうな雰囲気だったけど、初めての明石城跡訪問だったので、やっぱり入口の城門後を突破して入る道を選択する。
奥に見えるのはJR明石駅タコ!
明石城跡にて
JR明石駅のプラットホームから明石城跡の櫓などが見えたけど、その手前にこの水堀が残されている景色までは見えなかった。
明石城の正門跡は駅のある城南側なのだが、そこまで回るとちょっと遠回りになるので、仕方なしに東側にあった門跡を通過して城内へと進んで行く事にした。
どこの門から入っても、同じヤン!
城マニアは細かい事に拘るぜ!
明石城跡は明治31年に”皇室の御料地”となった為に城内の土地に官庁などが造られず、大正7年になって兵庫県が御料地を借り受けて『兵庫県立明石公園』として整備して、今に至っているという。
江戸時代の城跡というと、元々藩の中心地だった為に明治時代の廃城令以降には、城内に色んな官庁や学校が造られた場所が多い。
この明石城も本丸の周囲には3つのスタジアムや図書館などが建設されているが、本丸周辺は昔のまま保存されていた。
明石城の名物はというと、JR明石駅のホームからも見える”2基の櫓”で、この2つの「巽櫓(たつみやぐら)」と「坤櫓(ひつじさるやぐら)」は江戸時代から現存する建造物となっている。
櫓を繋ぐ塀は1999年に復元されたタコ!
そして明石城本丸の外側には『武蔵の庭園』と名付けられた、剣豪の宮本武蔵が作庭した樹木屋敷があった場所だとされている。
剣豪も江戸時代にはそれだけでは飯も食えなかったぜい!
この場所には宮本武蔵監修により、御茶屋や築山/池/滝などが造られていたそうで、剣豪が作った自然美溢れる庭が見られる場所だったという。
現在の明石城公園内にはこのように宮本武蔵の造った御茶屋を模した建物が見られるが、これは近代になってその庭のイメージを作る為に新たに造られた物のようだが。。
明石藩に移封されてきた小笠原秀政は石高10万石とそれなりに大きな大名となったので、立派な明石城に立派な庭を築かせたのだろう。
明石の地は姫路に次いで西国街道沿いでは重要な拠点であり、淡路島から目と鼻の先にあり、また福知山方面に延びる道もあった為に、徳川家康の孫を娶った小笠原秀政が配置されたという。
そんな明石城では城だけに、設置されていた日時計も兜&槍&旗デザインとなっていた。
親藩の城は藩主の世間的イメージが薄いタコ・・・
意図的に日時計の槍の先が本丸に向けられていたのかは定かではないが、明石藩10万石の歴史を魅せ付けるかのようにも感じた日時計であった。
ちなみに明石藩は小笠原忠真が移封されてきた時には10万石だったが、その後に転封されてきた戸田松平家の時代には7万石に減らされ、最後の明石松平家が転封されてきた時には6万石となっていたようだ。
だが明石松平家は親藩という事もあって8万石に加増され、世間的には”10万石格”として江戸時代には知られた明石藩だったのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2023年1月下旬に訪れた、1泊2日の兵庫県:明石&加古川旅です。