北村西望が102歳で制作した観音像と元伏見城門が鎮座する月照寺【明石&加古川旅21】

明石&加古川旅(2023年)-21

訪問:2023年1月下旬(1泊2日)

登る甲斐あり!

ここは『日本標準時子午線』下にある、兵庫県明石市の明石市立天文科学館裏手の「人丸山公園」

パッと見は山のような雰囲気には感じなくて山頂付近が切り開かれている場所だが、江戸時代に明石城を築城する際に城建造予定地にあった寺と神社がこの場所に移ってきてから、明石市民にとっては馴染み深い場所になっているようだ。

 

塀の向こう側には大きな鐘も見えて、ここから大晦日に除夜の鐘を撞けば、明石市中に聴こえるのだろう。

 

 

月照寺にて

そんな鐘が設置されていた場所は人丸山山頂にあった、こちら曹洞宗の「月照寺」

 

 

境内はこのような枯山水の石庭が綺麗に整えられており、その池の中に生える松の木も丁寧に管理されている雰囲気で、落ち着ける場所となっていた。

 

小さな山の上に移転してきた寺だけあって、境内部分はそんなに広くなかったけど、逆にあまり広くないからこそ丁寧に境内内が綺麗に管理されている印象を受けた。

 

こちらはまだこの時期は花も葉っぱも見られなかった、『八ッ房の梅』と名付けられた梅の木。

 

この松の木は江戸時代の1702年に赤穂浪士となっていた大石内蔵助良雄と間瀬久太夫がこの月照寺を訪れた際に、間瀬久太夫が持参した梅の木を植えた物の三代目だという。

赤穂内蔵助
赤穂内蔵助

復讐の成功を祈ったでござる!

 

こちらの石庭の真ん中には、『孫文蓮』という名前が付けられた壺も置かれていた。

 

この枯山水の石庭でも一番の存在感を出していたのが、こちらの『壽祥松』という名前が付けられた黒松。

 

この『壽祥松』という黒松は奈良県の盆栽研究家「寺前 信次」氏が、淡路島を背にしての形から命名した物だという。

 

 

北村西望作の観音像

そして境内には、こちらの『洗心長寿の観音像』という名前が付けられた、金色の外観をした観音像が設置されていた。

 

実はこの『洗心長寿の観音像』の作者は、あの長崎市の平和公園にある『平和祈念像』が代表作として知られる、昭和時代を代表する彫刻家である「北村 西望(きたむら せいぼう)だったのである。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

しかも102歳での作品タコ!

 

北村西望氏の作品は長崎での有名な『平和祈念像』と共に、岐阜城下にある『若き日の織田信長像』も見た記憶が甦る。

 

北村西望は1987年に102歳でお亡くなりになっているが、死ぬ間際まで彫刻作品に熱中していたのだろう。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

檀家さんが寄進してくれた観音像タコ!

 

それと脇にはこちらの『ふれ愛観世音』という、仏像彫刻家/仏像修理家の「西村 公朝(にしむら こうちょう)の作品となっていた。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

京都の愛宕念仏寺の住職でもあった人タコ!

 

 

この『ふれ愛観世音』は”特に視力の弱い人に御救いの誓願を持つ”とされており、像を触れる事で視力回復の願掛けができるという。。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

これでもうオレの眼鏡姿は見れなくなるけ!(笑)

 

そして月照寺の西側に設置されていた趣ある山門は、何と1618年に明石藩初代藩主となった「小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ)が、時の将軍である徳川秀忠から伏見城の薬医門を拝領し、明石城で「切手門」として長く使われていた門だという。

 

明石城で長く設置され続けてきた「切手門」は明治時代を迎えて廃城となった為に、明治6年になってこの月照寺に移設され、その山門が現存している。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

明石市指定文化財にも登録されているタコ!

 

明石藩初代藩主となった小笠原秀政は、徳川家康の長男だった松平信康の長女「登久姫(とくひめ)を正室に迎えていた為に、”徳川家康の孫娘”という威光を所有していた大名でもあった。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

ちなみに登久姫の母親は、織田信長の娘タコ!

江戸春男
江戸春男

登久姫殿は恐ろしい血統の娘だったぜい!

 

信濃守護だった小笠原氏の末裔である小笠原秀政は、外様大名ながら”徳川家康の孫娘”を娶った為に、譜代大名以上の格になったのだろう。

江戸春男
江戸春男

江戸時代は政略結婚がとても大事な時代だったぜい!

 

そしてこの柿本神社と月照寺前の小径は『都心回遊路 時の道』でもあったので、この広くない歴史ある小道を進んで行く事にした。

 

 

名水長寿:亀の水!

人丸山から西側に下っていく小道を降りていくと、下の方にこちらの『名水長寿:亀の水』という文字が彫られた石碑が見えてくる。

 

こちらの『亀の水』は人丸山麓で昔から湧き出る水で、1664年以前からこの地で流れ出ていると伝えられている。

 

300年以上に渡って湧き出てきている水で、長く周辺の人々に喉の潤いを与えてきた事だろう。

 

ちなみにこの水が湧き出る亀の形をした樋水口は、江戸時代中頃の1719年頃に造られた物だという。

江戸春男
江戸春男

享保の改革が行われていた時代だぜい!

 

300年以上に渡って湧き出る水と共に、同じく約300年近くの間に湧き水を吐き続ける亀の石像も、それなりの骨董的価値がある作品だった。

 

その湧き水の脇には、上にあった「柿本神社」の鳥居も設置されており、明石市民にとって思い出深い重要な場所だった事が垣間見れる「人丸山」であった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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明石&加古川旅(2023)

2023年1月下旬に訪れた、1泊2日の兵庫県:明石&加古川旅です。

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