豪華な内装の移情閣2階へ上がり、孫文についての資料を見学【明石&加古川旅6】

明石&加古川旅(2023年)-6

訪問:2023年1月下旬(1泊2日)

2階まで!

明石海峡大橋を眺めに神戸市垂水区の舞子公園付近にやって来て、ついでに橋の脇に設置されていた「孫文記念館」も一緒に見学する。

 

【孫文記念館(移情閣)】

住所:兵庫県神戸市垂水区東舞子町2051番地
営業時間:10時~17時頃(※定休日月曜日)
電話番号:078-783-7172
入館料:大人300円/70歳以上200円/高校生以下無料

 

 

 

「孫文記念館(移情閣)」の見学!

孫文記念館の建物でも今居る「移情閣」という八角形の建物の壁には、『金唐革紙(きんからかわし)という和紙に金箔を貼り付けて、更には絵柄に応じて凹凸をつけた、日本の伝統工芸品である高級壁紙が惜しげもなく使われているのが見られた。

 

 

窓際には次は服が着せられた孫文の像も置かれており、こちらの顔は先程見た孫文の胸像に比べると、やや威厳の感じられる渋い表情となっていた。

 

こちらは今では孫文記念館となっている、今中に入っている建物の模型が展示されていた。

左から今居る「移情閣」、真ん中が最も古い建物の「付属棟」、そして右側は後の時代に新しく造られた「管理棟」となっている。

 

この移情閣は今から約100年前に造られた古い建物だが、この阪神地方を襲った1995年の阪神・淡路大震災時は、建物を修復&移管する為に解体していた時だったので、軽症で済んだという。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

あの大地震は、今思い出しても怖いタコ・・・

 

 

2階へ進む

この八角形の移情閣は3階建となっており、上に繋がる階段が用意されていたので登っていく。

そんな階段の壁紙にも『金唐革紙』が使われており、貿易商で莫大な富を築いた人物が大金を払って造らせた建物という雰囲気が伝わってくる光景だった。

 

この移情閣は外から見ると、”八角形の塔”みたいな形をしていたので、2階に登ってみると間取りは1階とほぼ同じだった。

 

なお、建物自体は3階まであるのだが、3階部分の階段はこのように”進入禁止”の札が立てられて、立ち入り禁止となっていた。

 

こちらは油断していると「1階と間違えてしまいそう・・・」にも思える内装となっていた。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

間取りはほぼ一緒だけど、展示品が全然違うタコ!

 

一見1階と同じような部屋に思えたけど、このシャンデリアの付け根部分をよ~~く見てみると、1階は龍だったのに2階分の付け根には”鳳凰”のデザインが施されていた。

 

こちらには明治~大正時代に、この舞子浜付近を写した古写真が展示されていた。

まだこの舞子が「浜」と呼ばれていた時代なので、この古写真を見ればその当時の様子が理解できる。

 

この写真が撮られた時代は江戸時代から生えていて老木になっていた松の木が、まだそこそこに生えていた時期。

しかし、近代を迎えて電車の線路が延伸されて舞子公園の一部を通るようになり、更に車社会となって道路も公園内を通るようになってしまい、ゆっくりのんびり休憩していた江戸時代と違って、騒がしい場所になってしまったようだ。。

江戸春男
江戸春男

静かな江戸時代に戻りたいぜい・・・

 

こちらは2001年にこの移情閣の建物が”珍しい木骨コンクリートブロック造り”として、国の重要文化財に指定された際の指定書が飾られていた。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

孫文記念館ではなく、「移情閣」の名前で指定されているタコ!

 

 

移情閣は元々建てられた場所から1994年になって解体・復元移築作業が進み、阪神淡路大震災を挟んで2000年に現在のこの地に復元された。

 

さっきの1階に移情閣の模型が展示されていたが、2階に登って来ても同じような模型が展示されていた。

ただこちらの模型の方が”手作り感”が満載な作品となっており、全て手作業で完成させた熱意が感じ取れる作品ともなっていた。

 

こちらは明治33年(1900年)頃の、舞子公園として開園した当時に撮影された古写真で、その当時に生えていた巨大な老木の大きさが、手前にいる女性と比較してかなりの大きさとなっていたのがよく理解できる写真である。

 

大きい松の木が生えていたように思うけど、実際には本来なら根を張って地中に隠れている部分が、吹き付ける風で砂などが飛ばされて露呈してしまって、それが大きい松の木に見えていただけのようだが。。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

植物も根が裸になると、栄養を吸えないタコ・・・

 

この豪華な壁紙「金唐革紙」は2000年に修理された際に復元されたものらしく、昔からそのまま残っている物ではないという。

朋ちゃん
朋ちゃん

こんな壁の家で暮らしたいよね~!

 

こちらの机と椅子は呉錦堂が愛用していた物で、元々は移情閣に置かれていた物だが、1960年代に襲った台風により移情閣などが被害を受けた為に、この机と椅子は神戸中華同文学校に送られて、それ以降保管され続けてきた物だという。

 

2005年になってから”呉錦堂生誕150周年”の記念展示会があり、その際に約40年振りに移情閣に戻ってきたという。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

大事に保管してくれたタコ!

 

 

この机と椅子は呉錦堂が中国から運んできた物で、しっかりとした彫刻などが施されており、中国の裕福な家庭で使われていた物だという。

 

左側の写真は戦前に撮られた物で、当初の位置に建てられたままの移情閣が見られる貴重な写真。

現在の移情閣はこの当時の場所から、西側の方に約200m移動されて設置されている。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

戦前には海だった所に、今は建てられているタコ!

 

呉錦堂の広い松海別荘を貫くように1928年に国道が延ばされた為に、移情閣の建物を除いて、それ以外の本館などの建物はその時に撤去されてしまっている。

明石蛸一郎
明石蛸一郎

移情閣は海沿いに建てられたから、国道に引っかからずに生き残ったタコ!

 

なお、呉錦堂は1926年に70歳で亡くなっており、松海別荘が国道延伸により取り壊されてしまった時には既にこの世を去っていた。

もし、呉錦堂がその時に生きていたとしたら、「オレの別荘を国道で壊すな!」と言ったのか、それとも「国の発展の為に、オレの別荘を潰してもいいよ!」と言ったのかは定かではない。。

朋ちゃん
朋ちゃん

「オレの別荘を潰してもいいよ!」って言ってるとカッコイイよね~!

 

呉錦堂は日本国籍を取得していたが中国国籍もそのまま持っていた為に”二重国籍”になっており、呉錦堂の墓は本人の遺言に従って、中国:浙江省寧波府慈谿県の白洋湖畔の脇に設置されたという。

 

そしてこの2階分から、隣にくっ付いている付属棟の方に移動できるようになっている。

明治~大正時代の建造物でも西洋風や和洋折衷の物はたまに見かける事が出来るが、このように中華風の歴史ある建造物はなかなか国内ではお目に掛かれないだけに、館内からの建物見学も楽しめる孫文記念館となっている。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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明石&加古川旅(2023)

2023年1月下旬に訪れた、1泊2日の兵庫県:明石&加古川旅です。

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