明石&加古川旅(2023年)-7
訪問:2023年1月下旬(1泊2日)
孫文直筆!
大正時代に建設された中華風八角形の移情閣。
現在では「孫文記念館」として、移情閣を造らせた呉錦堂という華僑貿易商が援助していた革命家:孫文の資料などが展示されている記念館となっている。
住所:兵庫県神戸市垂水区東舞子町2051番地
営業時間:10時~17時頃(※定休日月曜日)
電話番号:078-783-7172
入館料:大人300円/70歳以上200円/高校生以下無料
「孫文記念館(移情閣)」の見学!
複合施設となっている孫文記念館の中で、大正時代に造られた移情閣の建物から、その隣にある付属棟という明治時代に造られた建物に進んで行く。
同時期に造られた建物ではないから、このような段差があるタコ!
こちらは孫文とその側近であった「胡 漢民(こ かんみん)」と「戴 季陶(たい きとう)」が、それぞれに寄せ書きした書である。
こちらの説明では1918年に孫文が広東軍政府大元帥を辞任後に、船で日本に渡った際にパーサーだった人物が習字をしている様子を見つけ、孫文も同じく絹布を取り出し同乗していた側近達と共に寄せ書きして、そのパーサーだった人物に寄贈したという。
こちらも1918年に孫文によって書かれた書で、乗り合わせた船の船長の要望に応じてその時の様子を『海不揚波(うみ なみをあげず)』と書いたという。
こちらは1913年に孫文が主導した『第二革命』が失敗に終わって中国を脱出した際に、中国同盟会からの革命同士である胡 漢民と共に、船長宛に贈った物だという。
こちらは1907年に滞在していた東京からハノイへ船で移動する際に、立ち寄った横浜で武器/物資調達を依頼していた運送業者:三上豊夷という人物宛に贈った物だと考えられている。
こちらは1913年に国民党神戸交通部副部長宛てに揮毫した、『天下為公(てんかをおおやけとなす)』と書かれた書。
現代みたいに有名人のサインを貰うような気分で孫文に依頼したのかは知らないけど、このような筆でしっかりと揮毫された書を貰った人間からすると、”子孫代々の至宝”となった事だろう。
これらの書は遺族から寄贈されたタコ!
こちらは明治時代に建てられた「付属棟」側の内観で、こちらにも沢山の資料が展示されていた。
なお、こちらの付属棟には今居る元々別荘だった建物を造らせた、華僑貿易商「呉 錦堂(ご きんどう)」の資料が多く展示されていた。
こちらはその呉錦堂が、60歳半ばの頃に撮影された写真が飾られていた。
呉錦堂は1855年に中国の浙江省寧波府慈谿県で生まれ、30歳頃に日本に渡ってきてマッチやセメントなどを中国に出荷し、中国からは綿花や大豆油などを輸入して、莫大な富を築いたとされる。
在日華僑の中でも”最大の豪商”だったと言われたタコ!
呉錦堂は1隻の船から中国との貿易を開始し、当時には高価だったマッチやセメントなどを中国に売り、この時代の日本国内の財閥の中では”唯一の華僑財閥”として、大きく活躍したという。
こちらは呉錦堂が生まれ育った浙江省を含む三江の範囲が赤マスで記され、上海でローソクを販売する店で働いた後に、長崎に渡ってから、大阪や神戸にやって来た軌跡が記されている。
こちらで説明されていた「鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう)」という人物は明治時代に相場師(株)として巨万の富を築いた人間だが、大正時代に入って戦争バブルが弾けた時にその資産の多くを失い、没落してしまった人だという。
株式のバブルは破裂すると怖いタコ!
そんな鈴木久五郎は孫文が日本を退去させられる際に1万円を贈り、鈴木 久五郎は娘の名前に孫文の「文」という文字を入れたという。
こちらは明治27年~昭和5年まで鐘淵紡績(現在のカネボウ)で社長などを務めた「武藤 山治(むとう さんじ)」と一緒に写る呉錦堂の写真も飾られている。
当時三井財閥の傘下にあった「鐘淵紡績」は国内最大級の紡績会社へと成長したが、三井財閥の方針転換により株を売却する事になった。
その際に友人であった呉錦堂に協力を依頼して鐘淵紡績を買い占めてもらうのだが、その頃に不自然な動きをしていた鐘淵紡績の株に異変を感じた鈴木久五郎らが、薄取引の中で鐘淵紡績株を買い占めていった。
呉錦堂は鐘淵紡績株の多くを所有している事から、鐘淵紡績株を空売りして値段が下がった所を買い戻して利益を出すトレードに夢中になっていたという。
空売りの損失は無限大なので、恐いタコ・・・
その為に呉錦堂は「そのうち、鐘淵紡績株も空売りしていればいつもの通りに下がるわ!」と考えて鐘淵紡績株を空売りして対抗したのであったが、鈴木久五郎が安田財閥から資金援助を受けて更に買い向かい、予想外に株価が跳ねてしまった為に呉錦堂は追証状態になり破産寸前に追い詰められてしまう事になる。
その際に担保になっていた鐘淵紡績株は鈴木久五郎の手に移り、鈴木久五郎は鐘淵紡績の株式総会で呉錦堂の友人だった武藤山治を追い出す事に成功したが、後の鐘淵紡績の業績が振るわずに更に戦争バブルが崩壊してしまう。
一時代を築いた相場師も、バブル崩壊には勝てんタコ・・・
その際に相場で稼いだ財産の大半を失った鈴木久五郎が所有していた鐘淵紡績株は、担保にお金を貸していた安田銀行に移り、鐘淵紡績の経営権を持った安田銀行が武藤山治を呼び戻して、鐘淵紡績は繁栄の時代を迎えるのである。
中国との貿易で莫大な富を築いたとされる呉錦堂も、株式相場でも勝てた事から油断してしまい、安易な空売りでその富の多くを吐き出す失敗をした内容は、特に展示されていなかったように思う。
日本人は株式相場での失敗は、あまり表に出したがらないデ!
こちらは”大正時代の富豪番付”が張られており、当時の日本有数の財閥の名前なども見られる。
このような明治時代に巨大化した財閥は第二次世界大戦の敗戦で連合国によって解体されたが、もしその時に財閥解体がされていなかったら、韓国のように日本も財閥が支配する国になっていたのかもしれない。。
という感じで呉錦堂という人物についても最後に少々勉強した所で、下り階段が見えてくる。
これで孫文記念館の見学は終了となり、呉錦堂が親しくしていた武藤山治や鐘紡紡績の株事件なども勉強できたのであった。
なお、孫文記念館は古い建物を使っているので土足禁止となっており、入口玄関に用意されているスリッパに履き替える必要があった。
ただこのように、他に使用されているスリッパは見当たらずに、孫文記念館内を見学する人は少数なのかもしれない。。
外から眺めると、国の重要文化財にも指定されている立派な孫文記念館だが、中身は中国で革命を起こした孫文と、この建物を造らせた呉錦堂の生き様が学べる場所であった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2023年1月下旬に訪れた、1泊2日の兵庫県:明石&加古川旅です。