明石&加古川旅(2023年)-5
訪問:2023年1月下旬(1泊2日)
生き残りの建物!
明治時代~大正時代にかけて貿易商の別荘として造られた建物「移情閣」。
その建物が今は「孫文記念館」として、中国革命を起こした英雄を称える記念館となっている。
住所:兵庫県神戸市垂水区東舞子町2051番地
営業時間:10時~17時頃(※定休日月曜日)
電話番号:078-783-7172
入館料:大人300円/70歳以上200円/高校生以下無料
「孫文記念館(移情閣)」の見学!
孫文はハワイから中国に帰国してその約10年後の1894年に、ハワイで清朝崩壊を目論む革命団体として「興中会」を旗揚げしたが、その後の武装蜂起で失敗した為に日本に止む無く亡命した。
当時の日本国内は激動の時代を迎えており、明治維新以降に西洋から最先端の技術を導入し、国力が一気に向上してその勢いに乗って清国との争い「日清戦争」を開戦した頃だった。
日本は中国大陸から近く、また日清戦争中だったので清国の牙城を叩き潰す為にも、清国から亡命してきた革命家:孫文を厚く保護し、更には多くの財政界関係者が孫文の革命を資金的に援助する事になる。
孫文の支援者として日本でも有名なのは、こちらの「梅谷 庄吉(うめや しょうきち)」である。
「梅谷 庄吉」というと長崎市のグラバー邸下にある船着き場近くに、妻:トクと孫文と共に銅像が設置されていたのを思い出す。
この甥っ子ちゃんも、すっかり大きくなりましたよ♪
梅谷 庄吉は土佐藩経営の”土佐商会”の家主に養子入りし、中国関係の貿易を手掛けて成功した人物である。
そんな最中に孫文と出会い、彼の志に強く共感した梅谷庄吉は、稼いだ私財の多くを孫文支援の為に援助したという。
そして”日本近代化の父”とも称される渋沢栄一にも支援を受け、他には和歌山出身の生物学者でもあった「南方 熊楠(みなかた くまぐす)」は当時滞在先のロンドンで、亡命してきた孫文と出会ってその思想に共感し、日本の和歌山県に戻ってきてからも孫文との再会を果たしている。
時の、しかも200年以上続く長期政権を打倒するとなると、それなりの資金援助がないと如何に高名な思想がある革命も、なかなか前に進まない。
その為に日本に亡命した孫文は、日本の経済界の重鎮でもあった渋沢栄一と関わる事になる。
こちらの本は1895年に興中会が制作した中国革命を宣伝する物で、1897年にロンドン滞在中の南方熊楠に渡した本が”現存する唯一の原本”として、和歌山県白浜町に造られた「南方熊楠記念館」にて保管されているという。
孫文は1913年に第二革命で敗北して再び亡命せざるを得ない時に、当時の日本政府は国内に受け入れるつもりはなかったという。
しかし、孫文の支援者らが孫文の日本受け入れを懇願し、犬養毅などの有力者も賛同して、日本が孫文の亡命先となるのであった。
その際には川崎造船所の社長だった「松方 幸次郎(まつかた こうじろう)」の協力により、船でひっそりと日本国内に上陸し身を隠したという。
松方幸次郎というと『松方コレクション』の持ち主だった人物だぜい!
こちらは孫文が最後に日本を訪れた、1924年の来日経路図が飾られていた。
この図を見れば分かるように、現代21世紀の船のように寝ていれば神戸に到着するのではなく、途中に長崎や門司などで船を度々乗り換えて移動しなければいけない時代だったのが、経路を見ていれば理解できる。
昔は冷蔵庫もなかったから、常に物資の補給が必要だったタコ!
こちらは孫文が使っていたという名刺が展示されている。
シンプルな名刺よね~!
中国で革命が起こる原動力ともなった孫文も、辛亥革命後は共産主義の台頭などもあり、中国大陸の政権を握る事に失敗し、1925年3月に58歳で亡くなってしまう。
明治時代に建てられた西洋風建築物には、このようなベランダに窓が付けられたスペースがある建造物が多く見られた。
移情閣内にて
そして付属棟の奥に進んで行くと、内装が豪華な会議場のようなスペースが見えてくる。
ここが付属棟の後に大正時代になって増設された「移情閣」という八角形の中国式楼閣で、内観からは見えないが建物自体は”日本最古のコンクリートブロック造り”の建造物として、国の重要文化財にも指定されている建物である。
舞子浜海岸付近にこの建物を別荘として建設させた「呉 錦堂(ご きんどう)」は、元々は中国生まれの華僑で、30歳頃に長崎に渡ってきてから数年後に神戸に移り住む。
そして神戸で貿易商として頭角を現し、当時神戸の特産品でもあったマッチなどを中国や東南アジア方面に輸出し、莫大な富を築いたとされる。
こちらにはまた別の孫文の胸像が置かれているが、だいぶ顔つきが優しいというか、可愛く見える。
こちらには神戸市長から贈られた白い胡蝶蘭の花も見られた。
日本ではお店のオープン記念などの祝辞に合わせて、2~3万円ほどの胡蝶蘭を送る事が多い。
送る側からすれば「オープン記念を豪華にしてあげたい!」という気持ちがあるのだろうが、送られる店側からすれば、「胡蝶蘭は沢山要らないから、花の代わりにその現金が欲しい・・・」と思う人もそこそこにいるようだが。。
花より、現金の方がイイです。。
八角形の移情閣1階部分はこのように奥にモニターが置かれていて、ここで孫文についての説明VTRが閲覧できるようになっている。
明治~大正時代の豪華な建造物には、このような西洋風のシャンデリアが取り付けられた建物が多く、現代21世紀にこういう照明を見るだけで、この建物がそこそこな費用を掛けて造られた事が伺える内観となっている。
そして天井付近には孫文が揮毫した書が、数点展示されているのが見える。
孫文揮毫 「世界大同」について/第30号(2023.3) – 孫文記念館
こちらは『山本先生属 世界大同 孫文』と書かれており、この山本先生とは福井出身の貿易商だった「山本勇吉」の事で、山本勇吉は後に中国に渡って手広く商売を手掛けて、知り合いのツテでこの書を貰ったのだという。
こちらの書は「漁聴樵問」という文字が書かれた物も見られる。
このシャンデリアを吊り下げている土台部分も、よ~~く見ると龍の模様が刻まれており、こういった箇所に西洋風ではなく”中華風”建造物の証を見つける事もできる。
孫文の高名な思想は昔の人なので定かではないが、その思想に共鳴して多くの支援者が付いたという事実だけで、孫文の思想がそれだけ多くの人達の気持ちに響く内容だった事が伺えるのである。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2023年1月下旬に訪れた、1泊2日の兵庫県:明石&加古川旅です。