戸無門を抜けて筒井門を強行突破し、なんとか松山城本壇に到達【愛媛旅行記⑦】

愛媛/松山旅行記⑦

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

守りが堅すぎる松山城

松山城本丸への入口である「筒井門」

ここは愛媛県松山市の中心部に位置する松山城。江戸時代に造られた本丸内の建物の約半数が現存しているという、歴史的に貴重な建物ばかりが見られる場所でもある。そしてそんな松山城には古代より戦乱を続けてきた日本人達の、戦闘のノウハウが凝縮された防御システムが詰め込まれている場所でもある。

 

松山城筒井門から見える、市内の景観

このような昔の形が大幅に現存しているお城では、建物が取り壊されたり原形がほぼ無くなっている城跡とは違って、城に攻め込む軍団側の気持ちになって天守閣へと向かう気持ちになるとより楽しめる場所である。

 

 

第一の難関 筒井門と隠門

松山城筒井門

この本丸を攻め込む敵はまず左手前にある扉の無い「戸無門」を通過して、この「筒井門」に差し掛かる。勿論攻城戦の時はここの門は閉められており、門前に群がる敵兵を筒井門の上に造られている櫓から弓矢や鉄砲や石など攻撃する。なので敵兵側としては早くこの門を突破しないと死傷者が増える一方なので焦る気持ちになるけど、筒井門の前はあまり広くないので大群で攻め込んでもここでは小さな軍団でしか進めない。

 

松山城筒井門のアップ

この「筒井門」の手前にあった扉の無い「戸無門」は、勢いよく攻め込んでくる敵兵をこのエリアにおびき寄せて、一気にこのエリアで集中攻撃させる為に敢えて扉を開いていたと考えられている。そしてタモリさんが出演するテレビ番組『ブラタモリ』で松山城を紹介していた時に、ここにもう一つの罠が仕掛けられているという説明があった。

 

松山城筒井門脇にある隠門の説明

その罠というのがこちらの説明板に記載されている「隠門(かくれもん)」だという。一般的な城は攻め込む門は一箇所にしかないと思い込んで攻めて来るのであるが、ここではその思い込みを逆手にとって奥にもう一つ門を造っており、手前の筒井門の攻略に夢中となっている敵兵の側面から急に現れた兵士が襲うという仕掛けが施されていたという。

 

松山城筒井門脇にある隠門

こちらがその「隠門」とその上に造られている「隠門続櫓」で、これも江戸時代に造られたものが現存していて、国の重要文化財に指定されている歴史的な建造物。この松山城は建造後に実戦で攻城戦が行われる事は結局無かったので、この「隠門」が本当に側面から敵を急襲する為に使われる予定だったかは微妙な感じに思える。

 

松山城本丸広場の開放時間が記載されている看板

この松山城は歴史的な建造物(21個の国の重要文化財)などが直に見られる本丸広場への入場は、基本的に無料で5時(冬は5時半)~21時まで開放されている。なおその奥の「本壇」と呼ばれる天守閣のあるエリアに入るには、入場料が必要となってくるがこの松山城本丸内には自由に立ち入りできるのでとてもありがたい場所である。

 

松山城筒井門の内側から見た写真

こちらは手前にある「筒井門」を入った内側から、門の外方面を眺めた景色。この筒井門は第二次世界大戦中の空襲でも焼失せずに残り国宝と指定されていたが、その数年後の1949年に不審火により焼失してしまった。なので今見られる筒井門は1971年に復元されたもので、その際に合わせて同様に焼失していた筒井門脇の東西の櫓も一緒に復元されている。

 

松山城筒井門の案内板

筒井門の内側には1971年に復元(再建)工事がされた時の、概要の案内が設置されている。この筒井門復元工事には約1年の歳月と、当時のお金にして3,000万円の費用が掛かっているそうだ。

 

松山城筒井門の内側から見た写真1

筒井門の内側から組まれている木組みなどを見ても、表から見ている以上に堅固な造りに見えないような気がする。この復原も焼失前にあった同じ設計図で造られているかまでは分からないけども、もう戦争用として使う事が無い門なので、予算などの影響でひょっとしたらちょっと中抜きして造られていたのかもしれない(勿論勝手な憶測です・・・)。

 

 

松山城筒井門の内側から見た天井

こちらは同じく筒井門の天井で組まれている木組みだけど、こっちは実際に人が上に乗ったりする事を想定して、しっかりと木組みがされているように感じる。

 

松山城筒井門の裏側から見た写真

こちらは筒井門を内側から見た写真。門の再建時に使われた大きな柱は新しい皇居建築用資材の予備だったものが、ここでは使われているという。この門で使われている資材の中でも、この太い柱はとても存在感があるし、それだけ大事な柱でもある。

 

松山城隠門の裏側から見た写真

こちらは奥にあった「隠門」を裏側から眺めた写真。手前にある筒井門と比べると門が細いので、普段は固く門が閉ざされていたのかもしれない。

 

松山城隠門の裏側から見た、松山市内の景観

そしてこの辺りから眺める松山市内の景観は、このように高台だけに遠くまで見晴らす事が出来て、とても素晴らしい景色が広がっている。城下町が広がっていた江戸時代からすると、今はこのように高い建造物ばかりが出来て、大きく様変わりしている事だろう。

 

松山城隠門の裏側から見た、本丸

ただ筒井門と隠門を突破してもこれで本丸に辿り着いた訳ではなくて、また別の障害物が目の前に見えてくる。左側に見える櫓は先程下から見えていた太鼓櫓で、そこから太鼓門西塀太鼓門が更に登って来た敵兵を待ち構えている。

 

 

太鼓門を突破すれば、本丸に入れる!

松山城太鼓門

こちらが本丸内へ突入する為に最後の難関である「太鼓門」。ただこの太鼓門を突破して本丸に辿り着いても、お殿様がいる本壇奥にある天守閣には、まだまだ何個もの難関をくぐり抜けていかないと辿り着けない。だからこれが最後と思って全力で立ち向かう訳にはいかずに、まだまだ体力を残しつつ攻略する必要があるのだ。

 

松山城太鼓門の説明

こちらには太鼓門の説明板が置かれている。これによるとこの太鼓門とその周囲にあった櫓は江戸時代に造られたものだが、1945年7月に第二次世界大戦時の空襲によって焼失してしまった。その為に現在見られる建造物は、1973年になって再建されたもの。

 

松山城太鼓門のアップ写真

実際に松山城に攻め込んだ軍団はいないのであるが、やっと第一次防御線を突破したものの、すぐ次の第二次防御線が目の前に現れる光景を見ると難攻不落な城に思えてしまうのであろう。なお明治時代になって全国の城が廃城となってしまうが、基本的に従来の役割が生かされる事が無くなった事と、江戸末期~明治時代の戦争は遠くから大砲で火薬の詰まった砲弾を打ち込む大砲戦になっていたので、このような手の込んだ防御施設も砲撃の前ではあまり役立たないと思われたからかもしれない。

 

やっと本丸内へ到達する!

松山城太鼓門を抜けて本丸広場へ進む

1人脳内で攻城戦を行いつつ、何とか筒井門と太鼓門を激戦の上で突破して本丸広場に辿り着く。

ただ実際には開いている門を通り過ぎただけなんですがね!(笑)

鯛五郎丸
鯛五郎丸

コヤツ、妄想癖が強過ぎるタイ!(笑)

 

松山城本丸広場に生えている松の木

太鼓門側から本丸広場にやって来ると、その周辺には特に建物は見当たらなくて、このように木が所々に植えられている光景が見えてくる。こちらの松は本丸広場内でもひときわ目立つ位に、凛と天に向かって生えている姿が特徴的だった。

 

松山城本丸広場にある塀

こちらは本丸の周囲に張り巡らされている塀であるが、一定間隔で銃眼(この穴から銃を撃つ)が設置されているのが見える。この松山城が建築されたのは江戸時代になってからであり、その時代には既に鉄砲が戦争でのメイン武器となっていた為にこのように銃眼だらけの塀となっているのだ。

 

松山城本丸広場にある塀の銃眼

ただこの松山城が造られた江戸初期頃の鉄砲の命中精度はそんなに良くなかったらしいので、ここから城に向かってくる敵兵を狙い撃つと言っても今の時代のような高精度のスコープを備えたスナイパーみたいにはいかなかったのかもしれない。

 

松山城本丸広場にある塀の銃眼のアップ

この銃眼はどこの城でも見られる一般的なもので、このように内側が広くなっていて外側に向かって穴が小さくなっている。このような銃眼の作りによって、外から狙われにくく、内側からは扱いやすいという利点があったようだ。

 

 

松山城本丸広場の景色

今の日本全国にあるお城と同様に、この本丸広場内には桜が植えられているので春になると松山城も桜が見られる人気の場所となるようだ。この松山城本丸は明治時代に廃城となって取り壊される運命にあったが、道後温泉を再生した湯之町の町長の「伊佐庭如矢」が、この松山城を壊さずにそのまま保存する事を強く訴えかけた。その訴えが通って松山城本丸は取壊しを逃れて今の時代でもこのように江戸時代の光景が見られる場所として、本丸公園と姿を変えて今日に至るのである。

 

松山城本丸広場からの眺め

こちらは本丸から瀬戸内海が見える西側を見た景色である。その海までの途中にあるこんもりとした緑が茂る丘のような場所は、今では松山総合公園が造られている丘。そしてそんな丘の上には、この写真では右側に小さな突起物が見えているが「フライブルグ城」という松山市には似つかないヨーロッパのお城風な建造物がある。というのもこの城は松山市と姉妹都市である、ドイツ・フライブルク市との提携を記念して造られたものだからだという。

 

松山城本丸広場からの眺め1

こちら側の手前にある芝生が広がっているエリアは「堀之内地区」と呼ばれており、城の周りを取り囲む堀内に位置する場所で、今では美術館や図書館や市民会館などが造られている場所となっている。

 

松山城本丸広場から見る本壇

同じ場所から天守閣のある方向を見てみるが、その手前に造られている「馬具櫓」という建物が邪魔していて天守閣が隠れてしまっている。この馬具櫓は1945年の戦争時に焼失してしまった。しかしこの馬具櫓は戦争後に復元された建物の中では、一番早い1958年に再建された建物でもある。

 

松山城本丸広場から見る本壇1

今の松山城本丸公園では、天守閣に向かう道はこのように桜が綺麗に整列して並べられているのが見える。今では日本全国の桜が見られる名所となっている場所にお城が多いけども、今のように城の周辺に桜が植えられたのは明治時代になってからである。その理由については諸説があるが、日本人が一番好きな桜を植える事によって、昔の名残である城跡の景観を改善させたい気持ちもあったのかもしれない。

 

 

天守閣のある本壇前に到着する

松山城本丸広場を天守閣に向かって進む

そしてやっと松山城本丸の奥にある、天守閣がある一角の「本壇」に到着する。なお攻城戦ではここから簡単に天守閣に辿り着ける訳ではなくて、更に厳しい難所が待ち構えている。

現代では厳しい難所というよりは、料金所が待ち構えているのであるが・・(笑)

 

松山城本丸広場を天守閣に向かって進む1

なおこの松山城では天守閣は1つだけではなくて、写真のやや左側に見えている「小天守」と、写真のやや右側にある「天守」と2つの天守が存在していた城。この松山城天守閣は1784年に落雷によって焼失してしまい、幕末のペリーが日本の浦賀に来航した翌年に築かれた、”日本で最後に築かれた天守構造の建物”とされている。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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