松山城でも一番守りが堅い天守閣へと攻め込む兵士の気分【愛媛旅行記⑧】

愛媛/松山旅行記⑧

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

残るは天守閣攻略のみ!

松山城本丸広場を天守閣に向かって進む1

やっと天守閣が間近に見える場所まで辿り着いた、松山城。ここまで登って来る途中に構えていた「筒井門」や「太鼓門」などで激戦を繰り広げながらも辿り着いた場所であるが、ここから更に難易度がガクンと上がる難所ともなっているのである。

 

松山城天守閣入場券を購入する

そんな脳内で勝手に繰り広げられる”妄想攻城戦劇場”を続けるには、この松山城天守閣入場券(大人520円)を購入する必要があった。ここまでの”妄想攻城戦劇場”は無料でも楽しめたが、これから先の敷地は有料でしか楽しめないという訳だ。

 

 

天守閣のある松山城本壇へ足を踏み入れる!

松山城天守閣のある本壇へと進む

そして天守閣側からの攻撃を警戒しつつ、松山城本壇内へと恐る恐る足を進めていく。この本壇にある大天守の建物は江戸時代に造られたものであるが、当初の建物ではなくてその後焼失し、江戸末期に新しく再建されたもの。その江戸末期に造られた建造物は第二次世界大戦時の空襲の被害を逃れて、未だに現存しており国の重要文化財にも指定されている。ただ目の前に見えている小天守などの建物は1933年に焼失しており、戦後の1968年になって復元されている建物もここには含まれている。

 

松山城天守閣のある本壇で早速見えてくる「紫竹門東塀」

こちらの塀は「紫竹門東塀」で、この大天守へ繋がる通路にやって来る敵を攻撃する場所ではなくて、この本壇に近づいてくる外側からの敵に向かって銃眼などから攻撃する場所となっている。

 

松山城天守閣のある本壇で早速見えてくる「紫竹門東塀」の看板

こちらの「紫竹門東塀」はこの案内板にもあるように1784年の落雷による火災で大天守などと共に焼失してしまい、江戸末期に大天守などと一緒に再建されたもので、これも国の重要文化財となっている。

 

松山城天守閣のある本壇から見上げる小天守

こちら中央に見える建物は「小天守」で、連立式の造りになっている。こちらもこの本壇にある大天守などと共に1784年に落雷により焼失し、江戸末期に再建されたものであるが、この小天守は先程も説明したように昭和前半に再び焼失し、戦後に再建された建物。

 

松山城天守閣のある本壇から見上げる大天守

ここまで進んでくるとやっと目の前に立ちはだかる「大天守」が大きく見えてくる。しかし日本の城の構造はとにかく天守を堅固に守る為に設計されており、簡単に大天守の入口まで直進できる訳もなくて、足元には障害物ともなっている石垣と塀が見えている。

 

松山城天守閣のある本壇から見上げる大天守を進む

という事でここまで攻め込んできた敵兵は漫画『男塾』のワンシーンのようにこの塀を叩き壊して直進する訳にはいかないので、このように道なりに右折を余儀なくされてしまう。そしてここでも周囲に櫓や塀が造られており、これらの建造物に空けられている穴からこちらに銃などを向けて狙われているのである。

 

松山城天守閣のある本壇から見上げる大天守前に造られている石落とし

こちらの塀からは近道をしようとこの石垣を登って来る敵兵を叩き落とす為に、石を落とす「石落とし」が設けられているのが見える。忍者のような身軽な人間であれば簡単にこのような石垣をヒョイヒョイと登りそうであるが、実際には戦場に出向く武士たちは鎖帷子や重たい鎧や兜を着込んでいるので、このような石垣を簡単に登れる訳ではなかったようだ。

 

 

本壇の「一ノ門」に進む!

松山城天守閣のある本壇にある「一ノ門」

そして松山城本壇で待ち受ける第一難所である「一ノ門」がこちら。この攻城戦というのは何枚ものこういった門や扉を突破していかないといけなくて、しかも単に門を壊すだけではなく、その最中には銃弾や矢が飛んで来るので、命が掛かった極限状態で門を攻略していかないといけなかったようだ。なおこの「一ノ門」は大天守などと共に江戸時代末期に復元されたもので、こちらも国の重要文化財に指定されている。

 

松山城の本壇にある「一ノ門」を通り抜けた景色

これより先に足を踏み入れるという事は、これまでよりも更に危険な激戦地に入るという事でもある。なので一旦少し戻って休憩をしたい気分ではあるが、攻める時は勢いに乗って一気に行かないと、途中で勢いを失って攻め切れなくなってしまう可能性がある。

だから思い切って前に進む事を選択するしかないのである!

 

松山城天守閣のある本壇にある「一ノ門」を進んで行く

松山城第一難関の「一ノ門」を何とか突破すると、その正面にはこちらの「二ノ門南櫓」が見えてくる。本来であればこの辺で一息入れたい所であるが、ここは大天守近くで本丸手前よりも更に防御側の攻撃が激しく仕掛けられて隠れる場所がない所でもあるので、一息入れたくても入れれない場所である。。

 

本壇の「二ノ門」に進む!

松山城天守閣のある本壇で待ち受けている「二ノ門」

そして次の第二難関でもある「二ノ門」は、このように階段を少し登っていく必要がある。非戦闘時であれば特にこの階段を登るのもあまり問題を感じないけど、戦場と化した攻城戦をしている時には城を攻める側からすると、このような難関前に階段が設置されていると攻め込むスピードが鈍化されてしまうように感じてしまう場所でもある。

 

松山城天守閣のある本壇にある「一ノ門」の次に待ち受けている「二ノ門」の看板

この「二ノ門」で門を被ろうとしている敵兵に向かって、城内からは「一ノ門南櫓」や「二ノ門南櫓」や「三ノ門南櫓」と三方以上から狙われている、とても危険なエリアなのである。なおこちらの「二ノ門」も江戸末期に再建されて、今では国の重要文化財となっているものである。

 

松山城の本壇で「二ノ門」へと進む

命からがらに「二ノ門」を突破できたのは幸運だったが、このように「二ノ門」を内側から振り向いて眺めると、写真中央奥に立ちはだかる「一ノ門南櫓」から一方的に情け容赦なく攻撃を浴び続ける危険ゾーンだった事が改めて理解できる。だから攻城戦を進めるにはこのような櫓を手間でも1つずつ破壊して進んで行かないと、兵士の屍が増えていくだけという恐ろしい現実が待ち受けているのである。

 

松山城の本壇で「二ノ門」を抜けた景色

しかし本壇の難関2箇所を突破できると、後は裸同然になった大天守や三ノ門などの僅かな守りしか無くなってくる。そして兵士の戦意もここまで攻め込んでくると攻城側は鼓舞して戦意が高くなってきていて、防御側はだんだんと戦意が喪失してきている状態になっている。なのでここまで攻め込んでくれば後は惰性で、城を落とす事が見えてくる状況となってくる。

 

松山城の本壇で「二ノ門」を抜けて大天守

二ノ門を突破すると目の前に現れてきた「大天守」ではあるが、この堅固な松山城はまだ簡単に大天守内に侵入はさせてくれない。ここから大天守の入口までは、更に2つの門がまだ待ち構えているからだ。

 

 

本壇の「三ノ門」に進む!

松山城の本壇で「二ノ門」を抜けて更に「三ノ門」に到達

こちらは大天守の石垣に隣接して建設されている「三ノ門」。ここの門を突破しようと攻めて来る敵兵は、「三ノ門南櫓」や「大天守」から狙われる訳ではあるが、先程までの3方向から狙われる事と比べるともうそこまで脅威は感じないのかもしれない。

 

松山城本壇の「三ノ門」の案内板

この「三ノ門」も他の「一ノ門」や「二ノ門」と同様に、江戸時代初期に建てられたものが焼失した後に再建されたもの。

 

松山城本壇の「三ノ門」を進む

そして遂に「三ノ門」も陥落して、扉が開く。実際に松山城で戦が行われた事は無かったけども、ここまで辿り着くだけでもかなりの兵士を犠牲にしないと辿り着けないだろうと思ってしまう程に、防御が固められた城であるという事を感じる。

 

松山城本壇の「三ノ門」の先にある三ノ門南櫓

こちらの塀は「三ノ門」を突破して左手に見える「三ノ門東塀」である。このように1つずつ難所を突破していくと、後に続く増援部隊が無傷で最前線に到達してくるので、より攻城戦が有利になってくる。

 

松山城本壇の「三ノ門」の先にある三ノ門南櫓の銃眼

さっきまでは防御側が塀に空けられているこの銃眼から、攻城側の兵士に向かって銃を構えて狙っていたが、今では攻城側の兵士を狙う兵士は退却してしまっている。

 

松山城本壇の「三ノ門」の先にある三ノ門南櫓の銃眼から見える光景

そんな銃眼から見える景色をのぞき込んでみる。すると先には更に塀があって、ここにあるような銃眼がまた見えている。戦国時代~江戸時代に建てられたお城は基本的にこのような銃眼の穴が沢山設置されていて、銃が全盛時代だったという事が城の構造を見るだけでも分かる。そして西洋の中世時代を描いた映画で登場するような投石器もなかった為に、このように壁に銃眼という穴を空けて、ひたすらにそこから城を襲う敵兵を狙い続けるといった防御姿勢だったのであろう。

 

松山城本壇の「三ノ門」の先へと進む

さて「三ノ門」を突破した先にも、また別の門が見えている。しかし今まで突破してきた門に比べると、ここまで到達してくる可能性が少ない場所だからか、だいぶ小さめの門となっている。この先に見えている「筋鉄門」に向かうと、その上に造られている回廊と右側の大天守から狙われるという構造となっているようだ。

 

松山城本壇の「三ノ門」脇にあった「筋鉄門東塀」

「筋鉄門」の左手にはこちらの「筋鉄門東塀」が見えている。こちらの塀からは先程本壇から大天守に向かって正面に進むと突き当りにあった石垣の塀が、この「筋鉄門東塀」であった。

 

 

松山城本壇の「筋鉄門東塀」案内板

この「筋鉄門東塀」も大天守や三ノ門と同じように、江戸時代に再建されて今では国の重要文化財に指定されているもの。逆にこれだけ国の重要文化財に指定されている点数が多過ぎる場所だと、その有難みが薄れてしまうような感覚になってしまう。。

 

松山城本壇の「筋鉄門東塀」の銃眼

松山城内には何百箇所という、このような銃眼の穴が空けられているが結局ここから鉄砲を放つ機会は訪れる事が無かった。無用の長物という銃眼であるが、この銃眼が使われる戦が来なくて戦死する人が出なかったのはとても幸運だったのかもしれない。

 

最後の難関「筋鉄門」に立ち向かう!

松山城本壇の「筋鉄門」

そしてこれまで色んな門を突破してきて勢いが最高潮にあるので、その流れに身を任せてこちらの「筋鉄門(すじがねもん)」の突破を試みる。これほど強固な造りとなっている松山城で、ここまで攻め込まれると大天守内にいる殿様やその取り巻き連中は、そろそろ自害して朽ち果てる事に対して現実味を帯びて想像している頃だろう。そういう状況ではもう城は落ちた状態になっていると言っても、過言ではなかろう。

 

松山城本壇の「筋鉄門」案内板

「筋鉄門」はこの周辺に再建された門と同じ運命を辿っていたのであるが、「筋鉄門」だけは昭和8年(1933年)に起こった”松山城放火事件”によって小天守などと一緒に放火されてしまった。その放火によって全焼はしなかったが一部が焼失してしまい、後の1968年に小天守などその際に放火されて焼失してしまった建物が一式再建されて、2019年になって国の登録有形文化財として指定された。

 

松山城本壇の「筋鉄門」が立ちはだかる

この昭和8年(1933年)に起こった”松山城放火事件”では、この松山城以外でも40箇所が同一犯によって放火された。その放火によって焼け死んだ犠牲者は出なかったが、結局その放火魔は捕らえられて死刑を宣告され、1939年にその犯人は死刑を執行されたという。

 

松山城本壇の「筋鉄門」を抜けると、やっと天守閣入口が目の前に出てくる

そして「筋鉄門」を見事突破すると、遂に大天守の入口がある本壇の中心部に辿り着く。恐らく実際にここまで敵に攻め込まれてしまうとほぼ勝ち目は無くなってしまうので、この城を守る殿様やその身内などはそろそろ自害を始める頃合いとなっていただろう。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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