現存する松山城大天守の内部に展示されている鎧【愛媛旅行記⑨】

愛媛/松山旅行記⑨

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

遂に大天守に足を踏み入れる!

松山城大天守の前

江戸時代前半に築城された愛媛県松山市の中心部にある「松山城」。明治時代となって廃城令が出てから日本全国にあるお城が消滅していく中でも、この松山城は取壊し計画を逃れて本丸を公園にして保存しようという活動のおかげで、江戸時代の原型を残して21世紀にまでその姿を見せている。

 

松山城大天守を眺める

この松山城では本丸は江戸時代当時の形で残っている部分が多い(建造物の半分は焼失し、再建されている)ので、江戸時代に築城されたお城の防御ノウハウが学べる場所でもある。海外では未だに紛争などで戦争をしている国もあるけど、日本は江戸時代に平安な時代を迎えて明治時代に内乱が少し起きたけど、基本的には内戦という闘いはごく僅かしか近年では起きていない。だから余計に攻城戦で実際にどんな仕掛けがあったのかなどは、こういった江戸時代に造られた色んな建造物が現存するお城跡でしか国内では勉強できなくなっている。

 

松山城大天守の内側

ここは本丸でも「大天守」という殿様がいた建物を取り巻くように砦となっていた、「本壇」と呼ばれる場所の内部。ここまで入ってくる敵兵に銃弾などを浴びせる為の銃眼という、壁に穴が空けられている塀を今まで沢山見てきたけど、さすがに内部まで入り込むと内側に向けてまで銃眼の穴はあまり見られなくなっている。

 

松山城大天守の内側の櫓

ここでは銃眼というよりは石を投げる位の窓などが目立ち、これが銃眼的な穴を兼ねていたのかもしれない。実際にはここまで敵が到達する前の場所で撃退しておかないと、ここまで攻め込まれたらかなり戦況が苦しくて、反撃も焼け石に水状態になってしまっていたかもしれない。

 

松山城大天守の勝手口

さてここまでやって来たら残るは「大天守」の内部へ入って見学なのだが、こちらに見えた玄関のような建物は立ち入り禁止となっていた。こちらの入口は「玄関」と名付けられていて、その奥に「玄関多門」という回廊があって、お殿様が大天守に出入りする際にはこの出入口を使っていたのであろう。

 

松山城大天守の入口を進む

さてとりあえず一息ついた後は、念願の大天守へと進んで行きます。この松山城には大天守と小天守という2つの天守が存在しており、今見られる大天守は徳川家の親類に当たる(久松)松平家が主に治めていた領地で、江戸時代末期になって以前に火事で焼失した天守などを含む本壇が再建されたので、未だに現存する天守の中では最も新しい建造物となっている。

 

 

松山城の大天守へ潜入!

松山城大天守の入口

松山城の大天守への入口はさっき見た「玄関」口ではなくて、この「穴蔵」と呼ばれる石垣に空けられている門部分から入っていきます。この「穴蔵」はお殿様が大天守に出入りする為に使われていた出入口ではなくて、この大天守に兵糧などを保管する為の保管庫だった場所を今では改造して、下足箱が設置されて使われている。

 

松山城大天守内の階段

この「穴蔵」には下足箱が設置されていて、ここで靴を脱いで靴箱に預けて大天守へと繋がる階段を登って進みます。なおこの訪問時はコロナ禍の影響で、ここでの滞在時間は30分以内に留めるようという案内があった。

 

松山城大天守内の2階から階段を見下ろす

江戸時代から残る木造の現存天守だけに、天守閣内の階段はこのように急な傾斜の階段となっている。足腰が弱くなっている年配の方々からすると天守閣内の見学がちょっとしんどい階段だけど、このような急な木造階段程に江戸時代の日本らしさが感じられる場所だと思う。

 

松山城大天守内の2階

階段を登るとコロナ禍の影響で一方通行の順路となっているので、見える矢印に従って反時計回りに進んで行く。

 

松山城大天守内の2階からの眺め

この窓から見える先は、さっき大天守前にやって来た時に立っていた場所。この場所までやって来ても城側からは、この窓から最後の最後まで抵抗するように鉄砲を撃っていたのかもしれない。

 

松山城大天守内の2階を進む

ここ数年で急に旅について目覚めたボクにとって、このようなお城の天守閣などの見学は単に見晴らしのいい場所からの景色を楽しんだり、城の造りを間近で見るのを楽しむ場所ではなくて、その場所の歴史を勉強できるという大事な場所だと思っている。余程歴史が好きな人以外は、全国的にあまり有名ではない「伊予松山藩」と聞いても藩主のイメージさえも湧かない。

 

松山城大天守内の2階からの眺め1

勿論ボクも最近は海外旅行にハマって国内自体を軽視していたのだが、2020年になって海外に行けなくなってしまったので、代替えとして国内旅行に切り替えた。そして学校で習ってきた日本の歴史なんて殆ど忘却の彼方に行ってしまっていたので、まっさらな状態からまた日本の歴史について勉強しなおす大事な機会となった。

 

松山城大天守内の2階からの眺め2

こちらは先程外から見ていた時に「立ち入り禁止」の看板があった「玄関」を、回廊の内側から見た写真。この松山城の天守閣は土足厳禁になっているので、こちらの玄関から観光客を入れると皆靴を手に持って見学しないといけない。海外では靴が盗られたりという問題もあるので、観光地では靴箱が無くて脱いだ靴をビニール袋に入れて持ち歩いて見学をしないといけない場所も多い。

 

 

松山城大天守内の2階の部屋

そして回廊を進むと、このように鎧や巻物などが見えてくる。さてこれからはこの松山城を含めてこの地方を管理していた伊予松山藩についてもお勉強タイムが始まる。

 

松山城大天守内の2階の展示品

この地に松山城を築城したのはこの愛媛県伊予国で10万石の大名であった「加藤嘉明」で、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に加担した事に対する功績で更に10万石が加増されて、ここに城を築く事になった。

 

松山城大天守内の2階の展示品など

この「加藤嘉明」は堅固な城として有名な熊本城を建てた加藤清正とイメージが似ているので、混同されやすい人物。①同じ「加藤」という性であり、②豊臣秀吉に小姓として仕えて、のちに賤ヶ岳の戦いでは”賤ヶ岳の七本槍”の一人に数えられているし、③朝鮮半島へ出征した時は虎退治をしている、④築城技術に長けていた等々。そしてこの加藤家も1627年に陸奥会津藩へと加増転封されたが、その後の藩運営は上手くいかずで息子の代で幕府へ会津藩を返上して改易となってしまった。

鯛五郎丸
鯛五郎丸

これだけ似通っているので、加藤嘉明が加藤清正と間違えられやすいのも仕方ないタイ!

 

松山城大天守内の2階の展示品の巻物

今から約400年程前の1604年に加藤嘉明が書いたとされる書状が、展示されている。この当時は今のようなメールは勿論FAXもないし、ましてやパソコンなども無いのでこのような書状は1枚ずつ筆で手書きして、その書状を特別な藩お抱えの飛脚が走って届けていた。

勿論今みたいに電車や飛行機などは無いので、日本全国を足で移動していたのです・・・

オカン
オカン

現代では考えられない移動手段やったんやな、ワタシには無理や!

 

松山城大天守内の2階の展示品の鎧

こちらの鎧は加藤嘉明が着用していたものとされており、「角頭巾形鳥尾飾兜」「漆塗佛胴六間草摺素懸威鎧」という名前の物となっていた。兜の左右には長い鳥の羽が飾られており、これを被っていた加藤嘉明の威厳が表面に現れるようなイメージになっている。

 

松山城大天守内の2階の展示品を眺める

そして加藤嘉明が会津藩を任されてこの松山藩を去った後に移封されてきたのは、織田信長や豊臣秀吉などに仕えてきた戦国時代の武将である蒲生氏郷の孫にあたる「蒲生忠知」である。この蒲生家は会津藩を任されていたが蒲生忠知の兄である忠郷が世継ぎを残さずに26歳で亡くなった為に、本来なら改易となるのであるが彼らの母親が「正清院(振姫)」という徳川家康の娘(三女)だった為に、改易とならずに減封となって松山藩へ送られた。しかしこの蒲生忠知も跡取りを残せずに亡くなった為に、蒲生家は途絶えてしまうのであった。

 

松山城大天守内の展示品、松山城俯瞰図

蒲生家が改易となった後は、徳川家康の甥っ子にあたる久松松平家の松平定行がこの伊予松山藩に移封されてくる。そしてこの久松松平家がそれから明治維新まで16代に渡って、この伊予松山藩を治めるのである。なおこちらの絵は鳥が上空から城を眺めたような角度からの「松山城鳥瞰図」で、1780年に描かれたもの。本丸部分はほぼ今と同じ状態になっているのがこの絵を見れば分かるけど、この4年後に落雷によって大天守などがある本壇は焼失してしまうのである。

 

松山城大天守内の2階の展示品を眺める1

昔の建物は木造建築物ばかりだったので、当時は避雷針というものもなかった為に、特に高台などに造られていた城の中でも更に高い所にあった天守閣は落雷による焼失がとても多い。この松山城の天守は江戸時代から現代までそのまま現存している建造物ではあるが、この1784年の落雷により焼失してから、その後江戸時代末期に再建されたものが今見られる建物となっている。

 

松山城大天守内の展示品、の鎧

こちらの鎧は「鉄赤漆塗連山桶側胴具足」と呼ばれるもので、久松松平家初代伊予松山藩主であった松平定行が着用していたものとされている。

 

松山城大天守内を進む

大天守へと向かうはずがコロナ禍の影響で通路が一方通行となっていた事もあって、まず天守閣の上に登るのではなくて、その周辺に造られているこのような廊下をグルッと一周回ってから天守閣に登るルートとなっていた。こういった歴史にはあまり興味が無くて、早く天守閣からの眺めを見たい人もこの廊下を通らなくてはいけないようになっている。

 

 

松山城大天守内2階に展示されている槍や刀

こちらには武士の命とも言われる刀や槍などが展示されている。下剋上で絶え間なく戦乱が起きていた戦国時代から天下統一された江戸時代に移ると、それまで殺傷の道具とされていた刀は贈答品扱いされて、芸術品へと変化をしていく。昔の褒美として領地などと共にこのような刀剣を与えられており、日本の侍がまさに刀を命と考えていた事が垣間見れる。

 

松山城大天守内2階に展示されている刀

刀って柄や持ち手部分などがセットになっているイメージがあるけど、よく博物館などに展示されているものはこのように金属部分だけで持ち手(柄)が無い物が多いように思う。刀剣は刀鍛冶が精魂込めて叩いて造るので劣化はしにくいけど、柄や鞘などは長い時間を経過すると朽ちてくるので、このように刀剣部分しか残っていないのだろうか。

 

松山城大天守内2階に展示されている槍

槍も上級武士などが使うものには、ゴルフクラブのドライバーヘッドなどに付けているヘッドカバーのようなものが付けられていた。槍の場合は刀のような鞘がないので、取り扱いを誤れば手を切ったりするし、お洒落も兼ねてこのようなカバーが取り付けられていたのであろう。

 

松山城大天守内2階にある銃眼

松山城に現存する建物は先程ここまで到達するまでに見てきたように、この銃眼や石落としする窓などがふんだんに設置されている。平和な江戸時代に造られた城では殆ど戦が行われる事が無かったけど、いつの時代も常に攻められる可能性を考慮していたのであろう。

 

松山城大天守内2階にある展示品

そして戦国時代にはよく着ていたこのような鎧も平穏な江戸時代になると、段々着用する機会が減っていったのであろう。実際にこのような鎧に身を通す機会なんてないけども、この鎧を実際に着るとなるとそれなりの準備時間が掛かりそうに見える。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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