熊本&鹿児島旅行記2021年12月-13
旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)
素晴らしい教え!
鹿児島県でも薩摩半島の南側にある、南九州市頴娃町で茶畑を充分見学した後は、知覧茶のお土産が買えそうな知覧特攻平和会館方面を目指して移動して行きます。
「JAいぶすき 茶業センター」に寄り道
そして道を車で走っていくと、道沿いに「知覧茶販売」という文字が見えてきたので、ちょっと寄り道してみる事にした。いつもはボクの後ろを付いてくるオカンも、この時はボクの到着を待たずにお店に雪崩れ込んで行く後ろ姿が見えた。
知覧茶、早く買いたいねん!
この頴娃町は全国で日本一の生産量を誇る市町村らしく、店内には沢山のお茶が販売されていた。そして、とにかく知覧茶を早く買いたかったオカンは、夢中になって商品を選んでいる様子が見られた。
どれがいいか、判らん・・・
販売されていたお茶も、1000円以下から2000円程までとなっていて、勿論質によってその値段が違っている事だろう。中身の質が分からない時には、その茶が入っているパッケージで判断するしかないのだが、逆にそれを狙って中身をより良い物に見せるパッケージにしている商品などもあって迷うのであるが。。
そして珈琲豆を販売しているお店とは違って、ここでは知覧茶の試飲をさせてくれた。勿論お茶もその出し方によって、同じ茶葉でも味の濃さなどが変化するのだが、とりあえず店員さんの説明を聞きながら「あ~~美味しい・・」と感想を呟くオカン。。
ただ試飲させてもらったものの、結局どれを選んでいいのかが分からなかったらしく、
とりあえず、安くていい物をお願いします・・・
と大阪人ならズッコケるようなコメントを発して、1袋だけを買い求めていた。。
知覧特攻物産館でもお買い物!
そして「無理に1軒で決める事ないよ!」と買い焦るオカンをなだめて、次に特攻平和会館を訪れる。特攻平和会館は以前に訪れた事があったので特に中の見学をするつもりはなく、このようにその近くに知覧茶を販売しているお土産物屋があったので、寄り道してみたのである。
ちょっと写真がボケていたけど、「知覧特攻物産館」という、如何にも特攻平和会館の見学をしに来た観光客が寄っていきそうなお土産物屋さんだった。
この「知覧特攻物産館」でも知覧茶の試飲をさせてくれて、知覧茶販売しているお店はサービスが良いように感じた。勿論そういった見返りに少しでも知覧茶を購入して欲しいという店側の狙いがあるのだが、既に買う気になっているオカンは試飲をさせてもらったものの、ここでもどれを買えばいいのかを悩んでいたが。。
試飲しても、自分が買って飲む時は違う味やからな・・・
確かに試飲した所で、このように色んな種類のお茶が販売されていると、悩んで仕方ないのも納得である。あとは値段とパッケージと、自分用かお土産でプレゼントする用かで買い分けるしかないのだろう。
そんなオカンが知覧茶で悩んでいる間に店内を物色してみる。こちらは「おとなの梅」という商品が販売されていたが、隣の南さつま市では「薩摩西郷梅」として商標登録されている梅の産地としても有名らしく、味見をしたくなる商品だった。
こちらは「島津梅」というのが売られていたけど、さっきのような梅の実ではなく、寒干大根の漬物だった。梅酢味の中に漬けた寒干大根の漬物という事で、開発された当時に活躍していた元大関の「若嶋津」から、その名前を取ってこの「島津梅」という商品名にしたという。
沢庵のような漬物だったけど、下手な甘さが無くて美味しかったです!
そしてこちらは高知県を訪れた際に、似たようなデザインの顔を見た記憶が蘇る「西郷どんのポテトチップス」だった。高知県では”坂本龍馬Ver”のデザインで思わず購入してしまったけど、箱ではなく袋に入ったポテトチップスはお土産として持ち帰る際に中身が割れてしまう可能性が高く、また嵩張るので買うなら空港での購入をオススメする。
そして知覧特攻物産館の脇にあった、「知覧茶」の旗が表に出ていたお店にもちょっと寄り道してみた。ここでも愛想の良い店員さんが知覧茶を試飲させてくれて、オカンもダメ押しで知覧茶を購入していた。
たっぷり知覧茶を買えたので、もう満足です♪
島津日新公を祀る「竹田神社」を訪問
そして今回の旅で行きたいと思っていた、南さつま市にある「竹田神社」を訪れた。この神社には”島津家中興の祖”とも称される「島津 忠良(しまづ ただよし)/日新斎(じっしんさい)」が祀られている。
※以下は島津日新公にて
この竹田神社を訪れたのは、ここに祀られている「島津日新公」が残したとされる、島津家や薩摩藩に伝わった大事な教え『島津日新公:いろは歌』の石碑が総勢47個全て設置されているのを見学したかったからだ。
島津日新公は薩摩藩を治める島津家宗家の家系ではなく、島津氏の分家だった「伊作家」に生まれた。その為に島津家宗家にはその名前が出てこないが、島津家の中で紛争が起きた際に、聡明で徳を積んで周囲に知れ渡っていた名声を頼りに、島津家宗家から助けを求められた。
そして島津日新公は島津家宗家から国政を任される代わりに、自分の息子だった「島津 貴久(しまづ たかひさ)」を島津家宗家の養子に送り込んだのである。この時に養子に送り込まれた「島津 貴久」は島津氏第15代当主となり、戦国時代に”最強の島津四兄弟”とも称された島津義久・島津義弘・島津歳久· 島津家久の父ともなった人物である。
この竹田神社はその島津家宗家を再興する事になった、「島津日新公」を祭神とした神社となっている。 元々は島津日新公が自分の菩提寺として創建した「日新寺」だったが、明治時代に廃仏毀釈の影響で廃寺となってしまい、後に竹田神社として生まれ変わった。
昔の時代は同じ家系でも、その中で家督争いの紛争が絶えず起きていた時代でもあった。親戚は勿論、兄弟や親子の間でも争いが起きており、息子を殺害したり、父親を監禁したりなど日常茶飯事だったようだ。
鎌倉時代に活躍したとされる「島津忠久」を祖とする、薩摩・大隅・日向などを守護してきた島津家。島津貴久が島津氏第15代当主となり、対外的には隠居した父親の島津日新公と共に国政を進め、争いの絶えなかった薩摩国を統一する。そして島津貴久の長男:島津義久時代には、九州統一寸前までいったものの、豊臣秀吉の九州征伐を前にして屈服してしまうのであった。
こちらにあったお墓は、島津日新公の三男だった「島津 尚久(しまづ なおひさ)」のものだった。島津 尚久は島津貴久の弟にあたる人物で、島津家の支配下にあった海賊衆を束ねていたとされている。
兄の島津貴久と共に三国統一を目指して戦いに参戦していたが、大隅国の肝付氏との廻城を奪い合う決戦で、島津日新公の次男で共に戦っていた「島津 忠将(しまづ ただまさ)」が戦死してしまい、その翌年に島津尚久も病で亡くなってしまったという。
このように昔は日常的に戦が行われていた時代があり、その歯車が1つ違っていれば、今と大きく勢力図が塗り換えられていたかもしれない。
「いろは歌」と、「いにしへの道」を歩く!
そして竹田神社の社殿のある場所から、祭神として崇められている島津日新公のお墓まで向かう道には、こちらの「いにしへの道」という、島津日新公が創作したという『いろは歌』が彫られている、47個の石碑が並んでいる道があった。
幼い頃より、禅の修行や朱子学などを学び、また神道にも通じて、儒学/神道/仏教の3つの教えを融合して島津日新公が1545年頃に創作したのが『いろは歌』である。
この『いろは歌』は島津家だけではなく薩摩藩の領民に対しても、代々教育の場で教え込まれてきた教訓であり、この教えが後に明治維新を生む、薩摩藩の一大勢力を育てていくのである。
おいどんの小せ頃は、毎日んごつ『いろは歌』を口にしちょったじゃ!
まず見えてきた『いろは歌』の歌碑は、この47個ある中でも最も代表的で、薩摩藩で重要な教えとなっていた内容だという。
いにしへの
道を聞きても唱へても
わが行ひに
せずばかひなし
この意味には、いくら先人達の素晴らしい教訓を勉強しても、自分で実行しなければ、そんな素晴らしい教訓も役に立たないという内容のようだ。
耳にタコが出来っ位、こんた聞かされたじゃ!
そしてこの「いにしへの道」では歌碑だけではなく、このようにそれぞれにその内容が解説された案内板も設置されていたので、見学する人にも優しい場所となっていた。
楼の上も
はにふの小屋も住む人の
心にこそはたかき
いやしき
こちらは、立派な家に住む人も、みすぼらしい小屋に住む人も、その住む場所によって人の価値が決まる訳ではない。それではなく、その人の心の有り様がその人の価値を分けるという内容となっている。
昔の日本では階級社会が根強かったので、武士の子供に生まれるか、それとも庶民の子に生まれるかで、大きくその後の周囲の対応に変化があった。しかし、幕末の薩摩藩内に西郷隆盛や大久保利通などに代表される討幕に大きく尽力した人が、下級武士の家から出てきたのも、こういった教えが藩上層部に教え込まれていたからかもしれない。
この「いろは歌」の存在は、約1年前に鹿児島の地を再訪した際に、西郷隆盛や大久保利通の生誕地周辺で初めて知ったのである。そしてその「いろは歌」の内容を調べてみると、400~500年前に創られていたとは思えない程に現代社会にも大きく当てはまる内容となっていて、感激したのである。
人間の本質は、たった数百年位では変わらないド~~ン!
昔の時代に生きた偉人達の名言は、古代ギリシャ時代から残っているけど、その時の内容が現代社会にも通ずるのは、人間の考える事は1000年や2000年を経ても、そう変化がないという事だ。使う技術や科学は発展したものの、考える事、欲する事、苦しくなった時に回避しようとする行動などは変化が見られないようだ。。
似たるこそ
友としよければ交らば
われにます人
おとなしき人
こちらの内容は、学生時代の優等生や生徒会長などが、その後に社会に出た時に大成しない本質を突いたような内容となっている。
人間は自分と似た意見や考えをしている人と同調し仲良くなりやすいけど、自分と同じ思考の人間と一緒にいても、そこから学べる事は少ない。それよりも、自分にはない優れた素質を持っている人間と仲良くなり、その近くで学ぶべきだという教え。
島津斉彬公がよう仰っちょったな!
優等生や生徒会長などは周りの目や評判を気にして、自分の主張を貫くよりも、周りの人に合わせやすいので、社会に出ると目立った特徴のない平均的な人物の箱に収まってしまうのだろう。
下手ぞとて
我とゆるすな稽古だに
つもらばちりも 山とことの葉
こちらは「下手だから・・・」と言って諦めるのではなく、誰でも最初に下手なのは当然なので、続けて稽古しているうちに知らず知らずのうちに上達してくるので、気を緩めず精進しろという内容。
下手だから辞めるのではなく、辞めるのは興味が無くなった時。自分が目標や憧れにしている人も、最初はその道の素人で”ド下手な素人”だったのである。そしてそんなヘタクソが周囲に認められるような人物になったのは、その人が地道に稽古し続けて、上達していったからである。
だから”塵も積もれば山となる”のように、ひたすら稽古に励みなさいという事。
島津日新公ん教えは、薩摩藩ん大事な教えじゃ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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