討幕の原動力となる薩摩藩で代々語り継がれてきた『いろは歌』を創った島津日新公の墓【熊本&鹿児島旅行記14】

熊本&鹿児島旅行記2021年12月-14

旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)

薩摩の名言ロード!

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道

世の中に優れた人物が出てくる機会があるけど、必ずその人は優れた師からの教えを受けている場合が殆どである。九州の外様大名の中でも名門だった薩摩藩の島津家も、豊臣秀吉や徳川家康という強大な勢力に敗れて、九州の南端に押し込められてしまったが、最終的に江戸幕府を討幕する原動力となったのは、島津家先祖から語り継がれてきた大事な教えを忠実に守っていたからかもしれない。

 

【竹田神社】

住所:鹿児島県南さつま市加世田武田17932

 

 

 

竹田神社を散策!

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 景色

鹿児島の南さつま市に造られている「竹田神社」は、戦国時代から江戸時代の島津家と薩摩藩に重要な教えを残した「島津日新公」が祀られている場所である。その重要な教えは『いろは歌』という、儒学・仏教・神道に深く精通した島津日新公が残した名言集であり、現代社会でも当てはまる内容となっている。

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 石碑5

この竹田神社では社殿から島津日新公のお墓までの道のりの間に、「いにしへの道」が造られていて、このように『いろは歌』の47個の歌碑が道沿いに設置されている。

科ありて
人をきるとも軽くすな
いかす刀も ただ一つなり

昔の国内では”死罪”として斬首刑や腹切りなどが行われていたが、そんな時代に人命を軽く扱うなという教え。

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 石碑5 案内

君主となると、その采配1つの動かし方で人の命が大きく左右されてしまう。だから当主になればなる程に、慎重な判断をしなければならない。また簡単に人を殺めるだけでは脳が無く、命を無駄に使うのではなく、有効に使う必要も説いている。このような教えを受けて育ったからか、西郷隆盛も戊辰戦争で東北地方で戦争をした時に、旧幕府軍側に付いて戦って敗北した東北勢に寛大な処置をして、無理に命を奪う事をしなかった。

東郷どん
東郷どん

命は奪うもんじゃなく、与ゆっもんじゃ!

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 石碑6

つらしとて
恨みかえすな我れ人に
報ひ報ひて はてしなき世ぞ

こちらは大昔のハンムラビ法典での名言『目には目を、歯には歯を』を、完全否定するような内容となっている。

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 石碑6 案内

世の中には自分が辛いからとか、シンドイからと他人にその捌け口をブツける人が意外と多い。そして人からされた恨みを返したり、周囲の人に八つ当たりする人も多いが、それはその人の心の弱さであって、恨みを返すとそれが連鎖反応となり、湖の波紋が激しくなるような事は誰も幸せにならないので自制せよという事なのだろう。

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 進む

最初は47個も設置されている歌碑の全てを写真に収める気で訪問したが、早々に疲れてきてしまい、ある程度だけ写真に収めて満足する事にした。。

 

「いろは歌」を纏めてくれているサイトも、このようにありますから・・・

東郷どん
東郷どん

学ぶ気合いが足らんべ!(怒)

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 石碑7

敵となる
人こそは己が師匠ぞと
思ひかへして身をも嗜め

”昨日の敵は今日の友”という諺にもあるように、自分の前に立ちはだかった敵となる人は、自分に大きな刺激を与えてくれた人物であり、またその敵を越えようと自分の技を磨く術を与えてくれた事に感謝すべきだという内容。

 

南さつま市 竹田神社 いろは歌 いにしえの道 石碑7 案内

敵となる人物を嫌み嫌うのではなく、その人から学べる事を盗み取るようにして自分の成長に繋げれる重要な存在という認識とすべきなのであろう。所詮、人間という存在は自分1人では大した事は出来ず、他人からの影響を強く受けて成長していくのである。

 

 

島津日新公の霊廟を訪れる!

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟前の景色

そんな「いにしへの道」を散策していくと、その奥の方にこちらの荘厳な雰囲気となっている「島津日新公」の霊廟が見えてくる。島津日新公は約600年前に生きていた人物で、霊廟に植わっている背の高い木々がその歴史を伝えてくれるような雰囲気だった。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟

このお墓は島津日新公が生前の時には「常潤院(じょうじゅんいん)という、寺の脇に建てた学問所だった場所の跡地に造られた。戦国時代当時には、このような寺の脇で寺の僧が学問を教えていた時代で、今のように学校で義務教育として行われる事すら想像できない時代だった。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 仁王像

そんな霊廟前に一対の古そうな仁王像が立ちはだかっていたが、この仁王像は明治時代を迎えての”廃仏毀釈”によって消えてしまった仁王像だったようだ。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 仁王像 説明

その廃仏毀釈から100年以上が経過した昭和57年(1982年)に、この近くの土手の下から一対の仁王像が出土して、再びこの地に飾られる事になったようだ。それとこの仁王像には「享和3年寄進」と刻まれており、1803年頃に造られた像だと考えられてる。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 仁王像2

この生還を果たした『常潤院の仁王像』も、よ~~く見ると腕部分が無かったりして、負の歴史を感じさせてくれる佇まいともなっていた。明治政府が行った『廃仏毀釈』の是非は今更どうこうと言いようがないけど、国内でも時代に応じて必要とされる宗教と、必要とされなくなった宗教でその待遇に大きな差があった事が理解できる光景ともなっていた。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 案内図

島津日新公は鹿児島の有名な島津家の中でも、宗家ではなく分家に生まれた人物だった。しかし、優れた師に教えられ、また儒学だけではなく、仏教と神道も勉強し、聡明な人物として周囲から一目置かれる存在だった。ただ、そのままであれば、このように後世までその名前が語り継がれる存在にならなかったかもしれない。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 紅葉

このように12月頭という事で紅葉シーズンは終わったかと思っていたけど、日本列島の中でも南端に位置する鹿児島県だけに、この12月頃に鹿児島では紅葉シーズンを迎えていたのかもしれない。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟を進む

そして奥に進んで行くと、島津日新公のお墓が見えてくる。島津家分家の当主としての運命にあった島津日新公が、島津家宗家に大きく影響を与えるキッカケとなったのが、島津家宗家内での家督争いだったのである。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟が見えてくる

室町時代後半に島津家宗家の跡取りが連続して早死にした事を受けて、目ぼしい跡取りを育成できぬ状態に陥り、島津家宗家は優れた人物として評判になっていた、分家の島津日新公に助けを求めた。そして国政を引き受ける代わりに、息子の島津貴久を島津家宗家の養子として跡継ぎにさせ、盤石な島津家の基盤を築いていく事になる。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 墓石前

島津氏当主15代目に就任した島津貴久と共に国政を行い、長く争いの続いた薩摩国を統一する事に成功する。個人的には西郷隆盛や大久保利通を下級藩士の身分から取り立てた、島津氏28代当主(薩摩藩11代藩主)の「島津 斉彬」を凄い人物だと思っていたけど、その島津斉彬もこの島津日新公が残した”大事な教え”を受け継いだ1人なのだろう。

 

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 記念碑

こちらは大正6年になってから、島津日新公に贈られた『従三位』の官職が彫られた石碑も見られた。死んでから300年以上が経過した人物に対して官職を贈る事にどれほどの意味があるのかは分からないけど、皇族に島津家の子孫が入っている事もあって、そういった事も影響していたのかもしれない。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 墓石を拝む

島津日新公のお墓の入口は、石のアーチが造られていて、そこをくぐって墓の中に入るようになっている。この島津日新公自身は島津家宗家を継がなかったので、全国的にはそこまでの知名度がない人物ともなっている。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 墓石

しかし島津日新公が残した教えを教訓として小さい頃より教えられた人物の多くが、その後に色んな場で活躍する人物となっていった功績を考えると、このような観光客が殆ど来ない神社にひっそりと佇んでいるのも、勿体ないよう感じるが。。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 殉死した部下の墓

こちらは島津日新公が没した時に、その下で仕えていた家臣が一緒に殉死した墓となっている。昔は主人にどんな時も仕えて、その主人が亡くなると一緒に腹を切って亡くなるのが筋という考えが一般的だった時代であった。しかし、江戸時代になると、当主が亡くなってその家臣団も殉職してしまうと、その後の体制を引き継ぐ担い手が減ってしまう事もあって、殉職は禁止されていくのであった。

東郷どん
東郷どん

おいどんも島津斉彬公が亡くなった際に、殉職しよごたったでごわす!

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 墓石 斜めから

このように島津家だけではなく、後の薩摩藩、そして明治時代に繋がる人々を輩出する事になった『いろは歌』を創作した島津日新公。全国から多くの人が訪れる場所ではないものの、”知る人ぞ知る”という島津日新公に興味を抱いた者だけが来れる場所ともなっている。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 夫人の墓石前

こちらは島津日新公の夫人であった「寛庭(かんてい)のお墓が、すぐ脇に設置されていた。こちらも島津家の分家だった「薩州家」に生まれ、島津日新公の正室となって、後の島津家宗家の当主となる島津貴久などを産む。また島津日新公が巻き込まれた、島津家宗家の争いでは主人の島津日新公が実家の薩州家と争う事になったが、実家の薩州家よりも島津日新公に味方したという。

 

南さつま市 竹田神社 島津日新公の霊廟 帰路の景色

長い間、島津家や薩摩藩の人々に語り継がれ、教えられてきた『いろは歌』も、現代社会の鹿児島ではそこまで浸透していないようだ。トルコ旅で出会った”西郷どん”クンも『いろは歌』について聞いてみたけど、そこまで関心がなかったようで、今では鹿児島の学校教育でも教えられる機会が大きく減っているようだ。

 

南さつま市 竹田神社 数百年前から生える大楠の木

そして竹田神社の境内に生えていた、これらの大きな楠木は、島津日新公が創建した日新寺以前からここに生えていた老木だという。という事は生きている島津日新公と、同世代を近くで過ごした生き証人ともなっている楠木である。

 

南さつま市 竹田神社 数百年前から生える大楠の木 説明

そして江戸時代の1798年に寺で起きた大きな火災の際に、その楠木の一部も燃えてしまい、辛うじて焼失はしなかったものの、その際の傷跡を残しているという。

 

南さつま市 竹田神社 数百年前から生える大楠の木2

この竹田神社を訪問すると、偉大な島津日新公の存在と、その島津日新公が残した教え『いろは歌』が刻まれた歌碑に注目が行ってしまいガチになるけど、このように島津日新公が生きた時代から生えている楠木もしっかり目に焼き付けておく必要がある。

 

南さつま市 竹田神社 数百年前から生える大楠の木3

このように歴史も自分で調べてみると、過去に素晴らしい教えを体得した人がいる。そしてそんな偉人を祀っている場所が、この日本国内にも知られていないものの、多数残されている。意外と身近にそんな偉人を祀った場所があるのに、人々は意外とその場所に興味すら持たない。

しかし、この大きな楠木のように、その偉大な教えは簡単には消えないものであり、見向き去れない時代はあっても、その長い年月の間に新たに興味を持って勉強しにくる人がいれば、それで充分なのであろう。

東郷どん
東郷どん

島津日新公が祀られちょっ竹田神社は、薩摩隼人の聖地にすっべし!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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