薩摩藩英国留学生記念館の見学①:幕府に隠れて送り出された薩摩の秀才軍団【熊本&鹿児島旅行記17】

熊本&鹿児島旅行記2021年12月-17

旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)

幼い方が吸収できる!

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 目の前の海

朝に鹿児島市内で照国神社や城山を訪れてから一路車を走らせて向かったのは、鹿児島県でも西端の海沿いにある、いちき串木野市羽島の海岸。ここは幕末の1865年に、薩摩藩が独断で15名の若い留学生をイギリスに向けて出航させた場所である。

 

 

 

薩摩藩英国留学生記念館の見学!

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 建物

そんな羽島浦に2014年に新しく造られた、こちらの立派な建物は「薩摩藩英国留学生記念館」という、その1865年に出航していった留学生達の軌跡を紹介する資料などが展示されている記念館。ただ鹿児島県内でも「いちき串木野市」は西側にあった、あまり観光客が積極的に訪れる場所ではないような場所ともなっていた。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 強い風

この薩摩藩英国留学生記念館は海のすぐ横に造られていて、大海原から吹き付けてくる風が何の障害物も無く駆け抜けていく場所でもある。なので台風などが接近した時には強風の為に、閉鎖されたりと来館を考えている時には、あらかじめ天候を事前に確認しておく必要のある場所ともなっている。

オカン
オカン

めっちゃ風、強いデ~~!

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 建物正面

江戸時代は”鎖国”という海外との流通を完全に遮断していた社会だったと思いガチだけど、実は江戸幕府が海外との交易を独占していたという裏事情もあった。歴史的にはキリスト教の国内での増殖を恐れて海外からの接触を全て断った事になっているが、オランダや中国などの貿易で利益をもたらす国とは、江戸幕府のみが牛耳っていたのである。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 建物前

1853年にアメリカ合衆国のペリー提督が来日して一気に開国に舵を切った江戸幕府であるが、その波を受けて江戸幕府に対して不信感を抱いていた聡明な藩主は、その江戸幕府の許可が下りなくても自らの判断から、隠れて使節団を海外に送り出すようになっていく。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 内観

ペリー提督がやって来てから江戸幕府は海外に使節団を数回送り出したが、国内の藩からの使節団は認められなかった。しかし幕末の江戸幕府の影響力はかなり弱まってきているのが明確だった時代なので、討幕を密かに考えていた長州藩や薩摩藩は、優れた先進国の文化や技術を導入する為に、若い留学生を集めて送り込む事になる。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 羽島への道

特に薩摩藩は国内でも最も西南にあった藩で、江戸幕府の監視が行き届きにくい場所だったので、その地の利が生かされる事になる。この英国への留学を上申した五代友厚などは長崎の武器商人だったグラバーと話をつけ、長崎からヨーロッパに戻る船に留学生を隠れて乗船させ、遥かヨーロッパの地へ薩摩の若者を送り出した。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 渡航辞令書

ただ江戸幕府の力が弱まっていたとはいいながらも、もしこの密航が江戸幕府に見つかったら懲戒処分ものだったので、薩摩藩でもトップシークレットだった。こちらは薩摩藩丁から留学生宛に送られた辞令書で、表向きの内容は「甑島や大島への渡航」とカモフラージュがされていた。

 

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学生が残した袴

そしてこの羽島の地に集められた留学生は、地元の信頼できる家にグラバーの船がやって来るまで匿われる事になる。そこで約2か月間に渡って外国語の習得などに励み、船に乗り込む際に世話になった藤崎家に留学生が来ていた裃を贈ったという。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 五代友厚の推薦

この大掛かりな隠密作戦でもあった『薩摩藩遣英使節団』の構想は、島津斉彬公が藩主時代からあったとされる。しかし、島津斉彬公は藩主となってこれからという時に急死してしまったので、その作戦は立ち消えてしまった。それから生麦事件や薩英戦争などが起こり、激動の時代にその中心にいた海外文化などに明るい五代友厚が、当時の藩の最高権力者であった島津久光に再び上申し、認められるのである。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 扉

この資料館は鹿児島県でも交通の便が悪く、あまり観光客が来そうにない場所でもあったので、他に来ていた見学者の姿はまばらだった。しかし、2014年に造られていただけあって、館内は綺麗な内観となっていた。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 見学スタート

今でこそ簡単に世界中の街の景色などを自分の家の中に居て見れる時代となっているけど、この幕末当時は全く見た事も想像した事もない光景が、薩摩藩遣英使節団の前に現れる事となる。

東郷どん
東郷どん

おいどんも行こごたった!

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学の様子の模型

こちらは羽島沖からグラバーの商船に、留学生達が乗り込む際の様子が再現された模型が展示されている。現代でも海外旅行に行く直前はワクワクとドキドキが入り混じる気持ちになるけど、この当時にその留学生達はどのような気持ちになっていたのだろう。ちなみにこの留学直前に留学生2人は、恐れをなしたのか辞退を申し出て、その代替えに新しく2人が追加されたという。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 渡航した経路の地球儀

勿論この幕末当時には飛行機というハイカラな乗り物は無くて、船で数ヶ月を掛けてヨーロッパの地に渡っていったのである。その道中には各地の港に立ち寄って、物資の補給もあったので数日滞在し、今のクルーズ船旅行のように数日間の現地での観光が含まれていた。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学生が食べたというパイナップルの模型

そして日本を出航した留学生は、初めて訪れた外国の街で、見た事のない人種や言葉と共に、見慣れない食べ物に大きく戸惑った事だろう。今でこそ物流網が大きく発展して海外からの食材が簡単に手に入る時代となっているが、この当時にはこのようなパイナップルすら見た事も食べた事もない物だった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 亜熱帯の体験

そんな長い船旅は、大航海時代にポルトガルなどがインド洋を渡ってきたルートを反対側から辿り、また度重なる船酔いに苦しみながらもヨーロッパに向けて着々と進んで行った。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学生の顔写真パネル

この薩摩藩から送り込まれた『薩摩藩遣英使節団』は、15名の留学生と、五代友厚と寺島宗則ら3人の使節、そして1人の通訳を含めた総勢19名だった。なお、寺島宗則は1862年に江戸幕府が初めてヨーロッパに派遣した使節『文久遣欧使節』にも加わっていた人物で、海外渡航をした事のある当時は数少ない経験者も同乗していたのである。

 

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学生の顔写真パネル2

15名の留学生は10代半ばから20代までの一団となっており、外国語や新しい文化を吸収しやすい若い世代が選ばれた。歳を取れば取る程に頭が固くなって吸収力が減ってしまう事がこの当時から判っていたので、なるべく若くて頭の良い人物が選ばれていたようだ。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 パネル

そして若くもあれば多少の不安があってもそこまで気にならない事もあって、まさに”未知の世界”に漕ぎだしていった若者達。しかし、現代に行く海外旅行とは比べ物にならない程の、困難が待ち受けていたのである。

シンガポールで蒸気客船に乗り換えた一行の中で、五代友厚は洋式便器を始めて見た事もあって、それが便器だと気付かずに洗面器かと思って顔を洗ったという。。

開聞茸
開聞茸

便器でも顔を洗えるよね!

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学生が渡航した経路

そして約2ヵ月の船旅の末に、イギリスの地に上陸を果たした一行。留学生は現地の文化や技術などを学びに行ったが、五代友厚は留学ではなく、現地の機械や武器などの購入が主な仕事だった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 留学生が現地で亡くなった時の新聞記事

「鮫島 尚信(さめしま なおのぶ)という留学当時に二十歳だった青年は、ロンドン大学の法文学部に約1年間留学し、その後に「トマス・ハリス(Thomas Lake Harris)の誘いを受けて6名で渡米をした。そして後に帰国して判事や外交官として活躍し、最後はパリに大使として赴任している時に若干35歳で亡くなってしまう。こちらはその鮫島 尚信が亡くなった時に現地の新聞に掲載された記事である。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 五代友厚の説明

そしてこの『薩摩藩遣英使節団』の中で後に最も日本で活躍したのは若い留学生ではなく、こちらの「五代 友厚(ごだい ともあつ)であった。明治時代の国内を代表する大実業家として知られる渋沢栄一は東の筆頭であるが、西の筆頭だったのがこの五代友厚である。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 串木野鉱山の金塊

渋沢栄一と五代友厚に共通する点は、両者ともに幕末の時代にヨーロッパに渡って、現地で法システムから最新機器や工場などを自分の目で見て、更には自分で交渉して買い付けを行っていた点である。五代友厚は帰国後に長崎のグラバーとの合弁で「小菅修船場(こすげしゅうせんば)という船を修理する日本初の西洋式ドックを開設したが、それ以上に大きな富を築く事になったのが「鉱山事業」であった。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 串木野鉱山の金塊2

西洋諸国へ実際に渡って日本にはない技術などを学んだ事により、その当時はまだ国内に導入されていなかった最新の鉱山技術を密かに持ち帰った為に、鉱山事業で五代友厚は大儲けしたのである。それ以外にも紡績業や製塩業などにも尽力し、また大阪に造幣局を建設して初代大阪税関長にもなって大阪の近代発展に大きく貢献した人物ともなるのである。

 

五代友厚の銅像 大阪証券取引所 中村晋也

五代友厚の銅像 大阪証券取引所 中村晋也

なお、大阪の歴史を意外と知らない大阪人は、大阪証券取引所など大阪市内に3箇所も五代友厚の銅像が設置されている理由を明確に答えれる人は少ない。五代友厚はそれだけはなく、商工会議所・証券取引所・運輸会社・貿易会社などを次々と開設していき、大阪の近代化に大きく貢献した、無くてはならない人物なのである。

 

鹿児島県いちき串木野市 薩摩藩英国留学生記念館 渡航時の出来事

なお、この薩摩藩遣英使節団が密航したイギリスの地で出会ったとされるのが、同じく長州藩から密航していた”長州五傑”とも呼ばれる5人の長州藩士だった。彼らもグラバー商会の協力を経てヨーロッパに渡ったのだが、伊藤博文と井上馨の2人は長州藩が下関で諸外国の船に大砲を撃ち込んだ事により、連合国から長州藩が狙われる事を聞いて帰国していた。その為にイギリスに残っていた”長州三傑”が、薩摩藩の留学生と対面したという。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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