熊本&鹿児島旅行記2021年12月-4
旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)
意外と暑い館内!
2021年春に新しく再建された、熊本城の大天守。2016年に起きた震災で被災してから約5年間をかけて、新しく建てられた天守閣。前回訪れた時にはまだ工事中で中に入れずじまいだったので、今回の訪問では中に入れるのが楽しみであった。
大天守内の見学!
こちらに展示されていた鯱は、江戸時代に造られた物らしく、横ひれのようなパーツは無くなっていたにも関わらず本体は現存していたという。
熊本の地で熊本城を築いた加藤清正は、白川という川を天然の堀として活用したが、大きく蛇行していた白川は大雨などが降ると川が氾濫して城下町などに被害を及ぼしていた。その為に白川の蛇行していた流れを土木工事を行って直線化し、河川の氾濫で悩まされない城下町へと造り変えられていった。
そして熊本城は白川の代わりに坪井川を堀として使い、また護岸工事を行って氾濫を防ぐ対策も行った。このように江戸時代には河川の流れを変える土木工事が全国で行われるようになり、自然の環境に対して人間が自分達の都合のいいように改造していく時代を迎えていったのである。
1611年頃に熊本藩の藩主だった加藤清正が亡くなってしまい、その息子で跡取りでもあった息子の加藤忠広は若干11歳で藩主に就任する事となった。しかし、加藤清正に仕えてきた重鎮の家臣たちは、そんな後ろ盾を無くした若すぎる藩主に対して、厳しい態度を見せた。
こちらはその2代目藩主となった加藤忠広の肖像画であるが、家臣団を纏められない藩主は江戸幕府から目を付けられ、度々改善の命を受けたものの、結局藩を纏められずに最終的には改易となってしまう。ただ加藤家は改易となったものの、東北の地に加藤忠広は流される事になって、細々とその後生活をしていたという。
そして空席となった熊本藩には、北九州の小倉藩を治めていた細川家が移封されてくる。熊本に入部した1632年から、細川家は11代に渡って熊本藩を守り通すのである。
熊本に移封されてきた細川家から熊本藩主となったのが、「細川 忠利(ほそかわ ただとし)」である。父親は”利休七哲”の1人として名立たる茶人としても有名な「細川 忠興(ほそかわ ただおき)」、そして母親は明智光秀の娘でキリシタンとしても有名で、また石田三成の捕虜となる事を拒絶して自害するという壮絶な最後を迎えた「細川ガラシャ」である。
この新しく再建された天守閣内には沢山の歴史説明パネルがあったけど、全部真剣に見て写真を撮っていると疲れてきたので、だいぶ省略しながら先を進む事にした。。
そろそろ、シンドなってきたで・・・
こちらは明治時代初期に撮影された、熊本城の天守閣。この時代には天守の建物はあまり活用される事が無くなっていた頃なので、建物の補修なども行う予定が無かった為に、ボロボロのまま放置されていたのかもしれない。
明治時代になると城の敷地内は民間に払い下げられたり、または陸軍の駐屯地として使われる事が多かった。ここ熊本も陸軍の拠点が置かれて、無駄な天守閣の建物の存在が邪魔になるようになっていった。
そして明治10年には新しい新政府の方針に怒った士族が各地で反乱を起こし、鹿児島でも若い士族を中心とした軍が動き出した。そして新政府軍の銃弾倉庫などを襲撃し、初めは乗り気ではなかったという西郷隆盛も、動き出してしまった機関車に乗るしか選択肢がない事を悟り、反乱軍に参加する事になった。
そして鹿児島を出発した反乱軍は熊本城へ向かい、その進軍ルートを予想していた新政府軍は神戸から船で熊本に軍隊を送り込んだ。最新式の銃などを装備した約3300人の新政府軍と、旧装備で固めた約13000人の薩摩軍が熊本城で激突するのである。
そして西南戦争が勃発する前日に、熊本城の本丸から火の手が上がり、大天守や御殿などの建物が大きな火をあげて燃えてしまった。この時に大天守は焼失してしまい、1960年頃に再建されるまで約80年間に渡って、熊本城本丸には中心部に天守が存在していなかったのだ。
この西南戦争前夜に熊本城本丸が燃えたのには諸説あり、詳しい事は判明していない。一説には大砲などの武器が揃って役に立たなくなってしまった天守などの建物を新政府軍側が焼き払ったという話もあるが、大きな戦いの前日に火の不始末で消えてしまったというのも信じがたいような気がするが。。
この熊本城での激戦は最終的に新政府軍側が勝利する事になるのだが、その代わりに熊本城の城下町は流れ弾を喰らうように、大きく焼失してダメージを受けてしまう。その戦いで被害を受けて焼失した建物は約9000戸にも及んだらしいが、その後には時間をかけて復旧され、今では広い道のアーケード商店街へと変貌しているのである。
戦争で破壊された町ほど、そん後に綺麗に復興されやすかたい!
そんな西南戦争の戦場となって炎上した建物が多かった熊本市内で、江戸時代に造られた五階櫓の「宇土櫓」は奇跡的に生き残った。そんな歴史的な宇土櫓も100年毎に修復工事が行われており、昭和2年(1927年)に改修工事が行われた際に、基礎部分にコンクリートが使われ、更に柱には鋼材の筋交いも付けられた為に、2016年の震災でも倒壊せずに残ったという。
そして戦後の復興時代に突入していった日本国内では、全国で天守閣の再建運動が盛んになっていき、この熊本でも市民からの寄付を募って1958年に天守再建に向かって動き出す。
そして約2年後に鉄筋コンクリート造りではあったものの、約80年振りに熊本城本丸内に天守の建物が鎮座する事になった。それまでは熊本城の天守というと「宇土櫓」の事を指していたが、この時よりその役目が譲られる事になるのだ。
大天守の最上階にて
そして真新しくて登り易い階段を登って、天守閣最上階にやっと到着する。この訪問時は思っていた以上に見学客が多くて、みんな新しい天守閣を見たかった人達のように思えた。
最近行った天守閣の中で、これだけの人が群がっているのはなかなか見た事がなかった為に、ちょっと戸惑う。ただこの12月頭は外の気温が寒くて厚着をしてきたが、この最上階はガラス張りで暖房がしっかり入れられていたので、逆に暑苦しい場所となっていたが。。
ワタシ1人だけ、汗だくになってました・・・
こちらは天守閣から北東側の景色で、手前には「KKRホテル熊本」という熊本城からとても近い場所にあるホテルなどが見える。
こちらは東側の景色で、さっき見上げた大きな大銀杏の木が上からだと、小さく見えている感じを受けた。また奥の方には西南戦争時に焼失した街並みが、今では立派な繫華街となっている。また写真中央辺りには「熊本市役所」もあって、その14階は無料の展望台として開放されているので、時間に余裕あれば訪問をオススメする場所でもある。
熊本市内にはそこまで高い建造物がない事もあって、この高台に造られている熊本城の天守閣が目立つ存在ともなっている。下手に高い展望台付きのタワーなどを建設してしまうと、このような城の有難味が消えてしまうので、この熊本ではそのような無機質なタワーは今後造られない事を祈りたいと思う。
熊本民からすりゃ、熊本城が一番のシンボルマークばい!
天守閣からの眺め! 動画
この時はあと15年程で熊本城の復旧工事が終了するのかと思っていたけど、2022年11月に熊本市長より復旧工事が遅れており、「完全復旧は当初の計画よりも15年遅れの2052年度となる見直し」と発表されてしまった。。
想定以上に石垣などん復旧にひまんいるようやわ・・・
この2021年は高知城や松江城などの江戸時代から残る天守を見学しただけに、天守最上階に窓が開いてない熊本城天守閣の空間が「ムワ~~!」とした暑苦しい空間だったので、ちょっと気分が悪くなりそうだった。。
こちらは宇土櫓が鎮座する西側の景色で、奥の広場付近にはかつて陸軍の宿舎などが置かれていた場所でもある。また熊本城復興作業向けのプレハブなども立ち並んでおり、立ち入れないスペースなどもある。
本当はこの宇土櫓の中の方が入ってみたかったけど、この宇土櫓も2016年の震災で被災して崩壊はしていないものの、立ち入りが禁止となってしまっている。前回の補修工事から約100年後となる2022年末頃より、やっとこの宇土櫓補修工事が進んでいくようだ。
最初は沢山写真を撮る気で天守内へと進んで行ったけど、思っていた以上に人が多くて、また冬だったので暖房が効き過ぎていた事もあって、早めに退散する事にしたのであった。。
このように今回の旅も、また素晴らしい晴天に恵まれた。ただ12月頭でもこの熊本と鹿児島はもう少し暖かいイメージがあったけど、意外と風は冷たかったのだが。。
このように新しく再建された天守閣も、この写真だけを見ると模型のようにも見える。個人的には明治時代初期のボロボロな外見のまま再建して欲しかったけど、耐震性や建造手間も含めてこのような鉄筋コンクリート造りの城となったのだろう。
西南戦争時に西郷隆盛が加藤清正が築いた城だけあって攻略しづらかったと発言したという話が残っているけど、この大天守を攻略できなかったのではなく、その周囲に張り巡らされた石垣や櫓などを攻略できなかったのである。なのでこの天守に辿り着く事すら困難だった熊本城という事が分かるエピソードでもある。
まいっど生まれ変わってん、西南戦争には参加せんど!
こんな旅はまた次回に続きます!
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