肥後藩の名石工:橋本勘五郎が手掛けた、歴史的な石造りアーチ橋の通潤橋と下鶴眼鏡橋【熊本&鹿児島旅行記6】

熊本&鹿児島旅行記2021年12月-6

旅行期間:2021年12月頭(2泊3日旅)

石橋の芸術!

下鶴眼鏡橋 石橋

熊本県初日は、今夜に鹿児島市内に入らないといけない事もあって、熊本市内を後にして鹿児島寄りの南部の山間に移動してきました。前に鹿児島を訪れた際に、肥後藩の石工達が江戸時代などに立派な石造りアーチ橋を沢山建造していた事を知り、今回の旅ではそんな歴史ある石造りの橋をこの目で見たかったのでもあった。

 

熊本市内から車を走らせて、約50分ほどで歴史ありそうな石橋が見えてきました。

 

 

 

途中にあった「下鶴眼鏡橋」に立ち寄る!

下鶴眼鏡橋の看板

目的にしていた石橋は”国の重要文化財”に指定されている通潤橋という橋だったのだが、その手前に「下鶴眼鏡橋」という立派な石橋が見えてきたので、思わず車を停めて見学する事にした。

 

【下鶴眼鏡橋】

住所:上益城郡御船町下鶴

 

 

下鶴眼鏡橋を斜めから眺める

こちらは山間に流れる一級河川の八勢川に架かる、明治19年(1886年)に完成した「下鶴眼鏡橋」という単一石造アーチ橋。このような立派な石橋が架けられる前までは木造の橋が架けられていたが、川が氾濫する度に橋が流されてしまって、周辺に暮らす住民にとっては不便な生活が続いていたようだ。

 

 

「下鶴眼鏡橋」を眺める! 動画

 

 

下鶴眼鏡橋の上の道

この下鶴眼鏡橋の幅は約6m強、そして長さは約23mとなっている。この石橋建設を指揮したのは、肥後藩の名石工で明治時代には宮内庁お抱えともなった「橋本 勘五郎」である。橋本勘五郎は皇居に架かる二重橋や、東京内の石橋建設にも関わったとされており、これから見に行く予定の通潤橋の建造にも関わっていたようだ。

 

下鶴眼鏡橋の欄干

このような石橋は江戸時代には農民だけが使う橋として、費用を掛けて整備される事が少なかった。しかし、何回も木の橋が流される事が繰り返されていくうちに、地元の有力者などが見かねて石橋建造の費用を出していく事になった。

 

下鶴眼鏡橋の説明板

この下鶴眼鏡橋は橋本勘五郎が宮内庁勤めを果たして熊本に戻って来てから建造された橋で、総工費は「2538円31銭」だったという。建造から100年以上を経過している下鶴眼鏡橋だが、その当時には考えられなかったような交通量と乗り物の変化の為に、今ではお役御免とばかりに隣に替えの新しい橋が架けられている。

 

下鶴眼鏡橋手前から眺める

その為に橋としては不要になった下鶴眼鏡橋だが、近代的な土木遺産として保存される事になった。また橋は通行禁止にもなっていないので、車などの車両で通行する事もまだできるようになっている。

 

下鶴眼鏡橋横に架かる新しい橋

こちらは隣に架けられた、新しい橋。昔は片道通行で問題なかったのだろうが、最近の橋は最低でも両車線1つずつは必要とされる時代なので、住民の利便性を考慮して新しい橋建造となったのだろう。昔の建造物を大事に使うヨーロッパでは、このようにちょっと不便になった橋でもそのまま使うけど、利便性などに敏感な日本人は、歴史ある橋よりも快適な近代的な橋を利用したいのだろう。

 

下鶴眼鏡橋の下を流れる八勢川

昔はこのような川の氾濫も多かったのだろうが、近代はダム建設や護岸工事などで川の氾濫も少なくなっている。このような山間の土地に立派な石橋が架けられたのは、それだけ農業の開拓などが重要視されていた背景もあったのかもしれない。

 

 

国の重要文化財である「通潤橋」にて

熊本県上益城郡 通潤橋 旗

それから更に山間の道を奥に約30分程、車を走らせていくと”国の重要文化財”にも指定されている「通潤橋(つうじゅんきょう)が見えてきた。前回2020年秋に熊本にやって来た時に、旅仲間の朋ちゃんが来たかった場所だったが、途中で道に迷って辿り着けなかった場所でもある。

朋ちゃん
朋ちゃん

王子のせいで、通潤橋見れなかったんだぞ~!(怒)

 

 

熊本県上益城郡 通潤橋 道の駅の建物

通潤橋の手前には、こちらの「道の駅 通潤橋」「通潤橋史料館」も併設されており、車が100台以上停めれる無料駐車場も用意されている。結構な山奥にある橋で周囲には全く何も無いかと想像していたけど、観光客が休憩したりする場所も用意されている。

 

熊本県上益城郡 通潤橋

ヨーロッパに行くと古代ローマ帝国時代に築かれた、このような石造りアーチ橋を見かける機会があるけど、日本国内にもこのように石造りアーチ橋が残されている場所もある。ただ「石造りアーチ橋」とは言っても、この通潤橋は人が渡る為の橋ではなく”水道橋”なのである。

 

熊本県上益城郡 通潤橋の説明

古代ローマ時代に架けられた石橋も水道橋だった事から、人類にとって水が昔からとても大事な物だった事が伺える。昔の日本は稲作がメインだった人種で、藩が貧しくなった江戸時代には、農民たちの新田開発を奨励し、農民たちはこのように山奥まで田畑を開拓していったのである。

 

熊本県上益城郡 通潤橋手前に架かる小さな橋

そして駐車場から通潤橋まで向かう途中には川があって、そこにはこのような「二ノ丸橋」という名前が付けられた木の橋が架かっていた。この辺りは中世時代に肥後国を治めていた阿蘇氏の居城だった「岩尾城跡」があった場所で、その二ノ丸付近に架けられた事から名付けられていたようだ。

 

熊本県上益城郡 通潤橋 布田保之助の銅像

そして木の橋を渡ると対岸には田んぼが広がっていて、その一角にこちらの銅像が置かれているのが見えたので、近づいて誰の像かを調べてみた。こちらは「布田 保之助(ふた やすのすけ)という、この熊本県上益城郡で村長を務めていた人物で、荒地だった周辺の白糸台地を開拓する為に先頭を切って尽力した人物だったようだ。

 

熊本県上益城郡 通潤橋 布田保之助の銅像 説明板

この布田保之助は通潤橋だけではなく、周辺の用水路や池、道路や堰などの土木事業も行い、村の発展に貢献した。また1830年代に発生した『天保の大飢饉』では、自分の管轄する村から餓死者が出なかったとして褒美を与えられたとも言われる。

 

熊本県上益城郡 通潤橋と、布田保之助の銅像

この布田保之助が通潤橋を造った訳ではないけど、この布田保之助が居なければ、このような立派な水道橋がここに造られる事はなかったのだろう。ちなみにこちらの銅像を製作したのは、愛知県生まれの「高藤 鎮夫(たかとう しずお)という彫刻家。この高藤鎮夫は熊本城手前の橋の脇に鎮座していた、加藤清正像を手掛けた彫刻家でもあるのだ。

 

 

熊本県上益城郡 水面に反射する通潤橋 

前に熊本県を訪れた際にはその存在すら知らなかった通潤橋だけど、帰ってからブログ作成時に熊本県などの石橋の事を調べていると、訪れたくなってしまった場所でもある。

朋ちゃん
朋ちゃん

あの時に道間違えなければ、通潤橋見れたハズなんだけど・・・

 

 

通潤橋を眺める! 動画

 

 

熊本県上益城郡 水面に反射する通潤橋 記念撮影

江戸時代の1854年に造られた、長さ約76m/高さ約20.2mの石造りアーチ水道橋の「通潤橋」。アーチの半径は約27.6mとなっていて、下を流れる老ヶ滝川の水面に橋が反射して、綺麗な写真が撮れる場所ともなっている。

 

熊本県上益城郡 通潤橋から流れ落ちる滝

ただ通潤橋も約6km離れている笹原川の上流から水路を引いてきて、ここの水道橋で渓谷を渡しているが、その一部の水を下の老ヶ滝川にも流していた。老ヶ滝川の下流では、その水を引いてきた笹原川に合流するようになっている。

 

 

豪快に水が流れ落ちる、通潤橋脇の水路! 動画

 

 

熊本県上益城郡 水面に反射する通潤橋 8の字

下を流れる老ヶ滝川も、このように上流部分は穏やかな水面となっているので、余計にこの水面に通潤橋が綺麗に反射するようになっていた。これは敢えてこのように整備したのかは分からないけど、近年の写真撮影ブームの時代には、より観光客を惹きつけやすいスポットともなっている。

 

熊本県上益城郡 通潤橋を下から見上げる

そしてこの通潤橋の真ん中付近には「水抜きの穴」が設置されていて、水道橋を通る水路内のゴミなどを排出すると共に、今では観光客向けのショーともなっているようだ。

 

ただし毎日放水をしている訳ではなく、限られた日にしか行われていないので、目の前で見たければ事前に「通潤橋公式HP」を確認しておく必要がある。

からし蓮君
からし蓮君

最近は橋上部ん公開もさるるごつなったけん、是非来なっせ!

 

熊本県上益城郡 通潤橋の警告文

この通潤橋は普通の橋ではなく、あくまでも”水道橋”なのであるが、昔は橋の上部も解放されていて歩く事が出来た。しかし、2016年の地震と2018年の豪雨で橋は被害を受けて、一時は放水中止と橋上部の立ち入りも禁止された。また橋を渡れたにしても、柵が設置されていないので、外国ではこのような警告は当然なのであるが、”自己責任”という概念が浸透していない日本人向けに警告内容が記載されていた。

 

熊本県上益城郡 通潤橋脇の高台に登る

そして下からだけではなく、上からも通潤橋を眺めてみたかったので、脇の坂道を強引に駆け上がる事にした。たが、このほぼ道がない斜面を無理矢理登らなくても、さっきの二ノ丸橋近くにこの上まで繋がる階段があるので、上から通潤橋見たい人はその階段を登っていった方がいいようだ。。

 

熊本県上益城郡 通潤橋から流れ落ちる滝2

平穏な時代となった江戸時代には、全国で農地の開拓が行われた。また財政状況に苦しくなった藩は積極的に新田開発を奨励した為に、農民たちは山の奥地まで開拓していく事になった。しかし、そこで問題になるのがこの「水」で、どうしても水を引っ張って来れない場所を、どうにかして水を引く為にこのような水道橋が造られる事になるのである。

 

 

通潤橋を横から眺める! 動画

 

 

熊本県上益城郡 通潤橋脇の高台から眺める竹林

そして斜面を駆け上がっていくと、このように綺麗に竹が並んでいる光景が待ち受けていた。最近はこのような竹林が手入れされ残される場所が減りつつあるので、昔からの日本的な光景が通潤橋と共に残っていって欲しいと思った景色でもあった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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