東京旅(2022年11月)-9
訪問:2022年11月
放送はラヂオから!
東京都港区内に見られた”バンクシー風”のネズミの絵があった階段を登って、こちらの「愛宕神社」の前までやって来た。
ただ東京の愛宕神社の参道は、こちら側から登るのではなく、東側に設置されている石段が『出世の石段』とも呼ばれている正式なルートのようだが。。
「愛宕神社」にて
この愛宕神社は”京都の愛宕神社が総本社”であり、徳川家康によって創建されたからと言って、ここが総本社ではないという。
ただ、それを知らない人からはこの港区にある愛宕神社が総本社だと思って、それに関わる連絡が多いようで困っているとホームページに記載があったが。。
私の「愛」は、この”愛宕権現”から一文字貰っているのです!
この港区にあった、東京都内でも珍しい自然に出来た「愛宕山」の上に築かれた愛宕神社。
ちなみにこの愛宕山は標高約25mの山で、自然の山としてはかつて平地で湿地帯だった東京都内で最も標高が高い山だという。
標高25mで最も高い山とは、如何にも江戸らしいさ!
この愛宕神社は、実は江戸末期に『桜田門外の変』という、当時老中首座にあった井伊直弼が襲撃された事件で、その襲撃を行った水戸藩の脱藩者達が、事件前に集った場所だともされている。
あの時は、牡丹雪が降った日だったさ!
「NHK放送博物館」の見学!
そんな愛宕神社のすぐ南側に、こちらの「NHK放送博物館」が建てられている。
この場所は愛宕山に設置された、”NHK発祥の地”である「東京放送局:旧局舎」の跡地に造られている、世界で初めての『放送博物館』でもあるという。
そんな放送博物館の脇に設置されていた朱色のアンテナは、「スーパーターン・スタイルアンテナ」という、昭和34年に東京タワーの最上部に設置されていた6段アンテナの一部だった。
そして約52年のお勤めを終了し、今ではここで老後暮らしをしているようだ。
この「NHK放送博物館」を見学したのは、NHK放送の歴史を一杯勉強できる場所にも関わらず、”入場無料”だったからである。
普段のNHK受信料から賄われているだけヤデ!
まずは3階から見学を始めていくが、最初のブースで見えてきたのはテレビが伝えた、その時代の名場面である。
これまでのテレビが各家庭に普及してから数十年間で、多くの歴史的な瞬間がテレビの映像として配信されてきた。
実際に自分がリアルタイムに見ていない古い時代の名場面でも、何回もその映像だけを見た事があるので、思わず脳が反応してしまう映像も多い。
こちらは王貞治選手が1977年に、当時世界記録になっていた755本のホームラン記録を塗り替えて、世界新記録となる756号ホームランを放った瞬間の映像である。
ただ、この時代はまだボクが生まれていない時代であるが、この時の映像は何回もテレビで見た事があるので、如何にも自分がその時代に生きていたかのような感覚を持っている瞬間でもある。。
こちらは1989年に新しい年号となる「平成」を発表した、当時官房長官だった小渕恵三氏を写した映像。
令和となった現代から振り返ると、この縁の広い眼鏡が如何にも昭和らしい雰囲気を出しているように感じる。
こちらは1961~1966年までNHKのバラエティ番組として、放送されていた『夢であいましょう』という番組の一場面。
50年前のバラエティ「夢であいましょう」
この番組は黒柳徹子が進行役(2代目)をしており、渥美清や坂本九なども出演していた。
それと番組内で『今月のうた』という、永六輔(作詞)&中村八大(作曲)が作った曲が発表され、ここから多くのヒット曲を輩出したという。
【上を向いて歩こう】 坂本 九
その『今月のうた』として作られた曲の中でも最も有名なのが、世界的に知られる歌となった、坂本九の『上を向いて歩こう』である。
坂本九は川崎市出身の有名人だよ!
【こんにちは赤ちゃん】 梓みちよ
『こんにちは赤ちゃん』も、この番組内で作られた歌だった。
『バットマン 』 ジャニーズ
それ以外にも、最近世間を騒がせる事の多いジャニーズ事務所が、最初に送り出した男性アイドルグループ「ジャニーズ」がテレビデビューしたのも、この『夢であいましょう』番組内での出来事だった。
懐かしいバットマン!
のちにNHKとなる「東京放送局」が大正14年(1925年)3月22日に、東京高等工芸学校図書室に開設した仮の放送所から、日本で初めてのラジオ放送が始められたという。
そこからこの愛宕山に新局舎が造られるまで、約4ヶ月間に渡ってたったマイク1個だけでの放送が続けられたという。
当時はラジオを聞く人口も、殆どいなかったさ!
こちらの「373型:ダブルボタンマイク」は、そのNHKラジオ放送が始められた時に使われていたマイクで、湿気にも弱かったので取り扱いに難儀したという。
こちらにあった胸像は「後藤 新平」で、近代日本に大きく貢献した人物である。
そんな後藤新平は東京放送局の初代総裁も務めており、最初にラジオ放送された際には、東京放送局:総裁として挨拶も行ったという。
その脇に置かれていた、こちらの半透明の物体は、当時冷房代わりに使われていた「氷柱」という、大きな氷の塊である。
今では考えられないが、昔は冷蔵庫にこのような氷の塊を入れて冷蔵庫内を冷やしており、また町中ではこのような氷の塊を売りに来る「氷屋」もよく見られたという。
現代ではテレビやラジオ以外に、インターネットという文明の新しい利器が世界中で猛威を振るっているが、昔は放送といえば「ラジオ」しか無かった時代があるのだ。
それまでは「電信」という情報伝達手段が最も優れた連絡手段であったが、1900年代初めにアメリカで実用化されてきたラジオが日本国内にも入ってきて、その当時の庶民達はラジオの凄さに度肝を抜かされた事だろう。
遠くの人の声が聞こえるなんて、奇跡さ!
いつの世も便利な物が開発されると、次々と人間は使いたくなってしまうものである。
日本国内でも瞬く間にラジオ人気に拍車がかかり、国内で初めてラジオ放送された1925年には、ラジオ聴取契約者は全国で約20万人近くに一気に膨れ上がったという。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2022年11月上旬に訪れた、2泊3日の東京旅です。