日本の終戦を告げる玉音放送もラジオから放送された【東京旅⑪】

東京旅(2022年11月)-11

訪問:2022年11月

言葉の重み!

港区 NHK放送博物館 ディクタホンの録音機

前回に引き続き、東京都港区にある”日本の放送の歴史”が学べる、入場無料の「NHK放送博物館」の見学は続きます。

ちなみにこちらは1929年頃に使われていた「ディクタホン」という、録音機。

 

 

 

NHK放送博物館の見学!

港区 NHK放送博物館 ラジオ講座 運動講座の本

こちらは1926年頃に放送された、「ラヂオ講演:運動講座」の台本。

この表紙に描かれているラグビーが日本国内で普及し出してきたのは、1920年代とされており、ちょうどラジオと同じ時代に日本国内に定着していったようだ。

 

港区 NHK放送博物館 二・二六事件とラジオ

そしてラジオ放送は一般人向けだけではなく、軍事的にも大きな役割を果たした。

1936年2月下旬に勃発した軍事クーデター『二・二六事件』では、反乱した兵士達に呼びかける内容でラジオ放送が行われた。

 

港区 NHK放送博物館 二・二六事件の歴史

そんな反乱兵に呼びかけるラジオ放送などの影響もあって、クーデターはたった3日で鎮圧されてしまった。

江戸春男
江戸春男

「プリゴジンの乱」はたった半日だったさ!

 

 

港区 NHK放送博物館 二・二六事件画報

海外ではよく”軍事クーデター”が起きたニュースなどを目にするけど、意外と日本国内では軍事クーデターが起きたという印象を受けない。

有名な『二・二六事件』も長続きしなかった為に、歴史的にそこまでインパクトがないのかもしれない。。

 

港区 NHK放送博物館 完成した「放送の殿堂」

ラジオ放送が開始された年から約14年後に、日本放送協会の拠点が愛宕山から東京都千代田区の「内幸町」に移転し、広くて立派な建物となった為に『放送の殿堂』とも称されたという。

 

港区 NHK放送博物館 「放送軍歌」

当初は庶民向けのラジオ放送が多かったが、戦争が拡大するにつれて、戦争プロパガンダの為に”軍歌”が流される事が多くなっていったという。

江戸春男
江戸春男

ラジオ放送で、国民をコントロールしようとしたのさ!

 

 

港区 NHK放送博物館 戦時下の放送

そして戦争の拡大と共にラジオも政府の情報統制下に入れられ、大日本帝国の手先となって、日本国に都合のいいニュースばかりが流されるようになる。

 

港区 NHK放送博物館 昔に放送された台本

このような社会主義的な思想の国の下では、庶民の思考をコントロールするような”愛国心の助長”や、国に命を捧げた人を理想化する話がどんどんラジオで流された。

 

港区 NHK放送博物館 玉音放送の説明

そして”最も日本国民の中で有名なラジオ放送”として知られているのが、1945年8月15日に流された『玉音放送(ぎょくおんほうそう)であろう。

 

玉音放送原盤レコード(玉音盤) NHK博物館

ちなみにこの「玉音」とは”天皇の肉声”を表す言葉であり、この玉音放送が録画されたのは「アセテート盤」という品質があまり良くないレコード盤だった。

 

港区 NHK放送博物館 玉音放送の説明2

1945年8月にソビエト連邦も日本に宣戦布告を行い、更に長崎と広島に原爆を落とされて壊滅的な状況となった日本は、ポツダム宣言を受け入れて、1945年8月14日の未明に昭和天皇の『玉音放送』スピーチを録音して、翌日に放送する運びとなった。

 

港区 NHK放送博物館 玉音放送 マイク

当時の天皇はまだ日本国民の中では”神聖な存在”と考えられていた為に、ラジオ放送に肉声を流すという事は禁じられていた。

しかし、当時の鈴木貫太郎内閣総理大臣が「我が国に勝ち目無し・・・」と悟り、昭和天皇にその意向を伝えて裁可を得た。

 

港区 NHK放送博物館 玉音放送の台本

なお、日本国内では1945年8月15日が”終戦の日”という認識になっているが、世界各国では第二次世界大戦の終結日は国によってそれぞれに異なっている。

ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日本が、連合国の降伏文書を調印したのは9月2日となっており、それまでは実質交戦状態だった。

 

その為にソビエト連邦は事実上降伏状態となっていた日本に攻め込み、北方領土を強奪したのである。

これがキッカケとなり、日本とソビエト連邦を継ぐロシアは、未だに領土問題を争っているのだが。。

 

港区 NHK放送博物館 玉音放送の台本2

こちらは玉院放送が流される1945年8月15日午後に、冒頭に喋るアナウンサーが書いた原稿の一部である。

歴史的な放送となる事を理解していた為に、途轍もない緊張がアナウンサーを襲った事だろう。。

 

港区 NHK放送博物館 占領下で生まれた番組

そして戦時中は日本帝国軍のプロパガンダとして統制下にあったラジオは、敗戦後には一転して「GHQ」の監視下に入る事となる。

その為にそれぞれの番組に対して、番組検閲が行われて、自由な放送を行う事が出来なかった。

 

 

港区 NHK放送博物館 「真相はからだ」

こちらは敗戦後の1945年12月から”GHQ占領政策”の一環として、ラジオ放送された番組「真相はかうだ」の台本である。

それまでは日本国のプロパガンダ内容で間違った情報が日本国民に伝えられていたとされ、GHQ側から戦前の歴史をキチンと伝え直す目的で放送された。

 

港区 NHK放送博物館 ラジオ

敗戦後は日本国民も貧しかった為に、このようなラジオ受信機も故障したら修理して使っていた。

現代ではスマホなんて”2年周期で買い替え”が当たり前になっている時代だが、昔を振り返ると当時の人々は物を大事にして使っていたのがよく理解できるのである。

 

港区 NHK放送博物館 のど自慢コンクールのポスター

こちらは今でもお馴染みの「NHKのど自慢」のポスターで、この番組は1946年と敗戦直後から続く超ロングラン番組となっている。

 

港区 NHK放送博物館 昔の番組

素人が歌を披露するという今考えると単純な番組であるが、現代でも同じような番組が海外で人気を博している様子を見ると、非常に先見性を見抜いた番組だったようだ。

 

港区 NHK放送博物館 のど自慢大会に使われた放送機

こちらは「のど自慢コンクール」の会場で使われていた、録音機。

こんな大きな録音装置を使って録音していたなんて、現代の子供達からすれば信じられない光景だろう。

 

港区 NHK放送博物館 のど自慢大会の台本

このように戦後には新しいラジオ番組がどんどん生み出されていき、その中でヒットした番組が生き残っていき、今でも見る事の出来る番組になっている事も多々あるようだ。

 

港区 NHK放送博物館 テレビの研究

そんな順風満帆なスタートを切ったラジオ放送も、その影で地道に開発が続けられていた「テレビ」という存在によって、主役から脇役の座に追い詰められる時代が来るのであるが。。

江戸春男
江戸春男

最近はラジオを聞かないさ!

 

港区 NHK放送博物館 テレビの開発

実はテレビの開発はラジオ放送が行われる前から始まっていたが、なかなか実用化できる程の開発まで辿り着かなかった。

そしてようやくテレビ放送が日本国内で始められたのも、ラジオ放送が始まってから約27年が経過した、1953年になってからである。

 

港区 NHK放送博物館 テレビ用のカメラ

こちらは1936年頃に、テレビ放送実験用に制作された「アイコノスコープカメラ」

戦後に改造されて”戦後第一号機カメラ”として、実験放送用に使われたカメラだという。

江戸春男
江戸春男

サイみたいな顔をしてるさ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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東京旅(2022)

2022年11月上旬に訪れた、2泊3日の東京旅です。

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