各家庭に普及したテレビと東京オリンピックで発展していく日本経済【東京旅⑫】

東京旅(2022年11月)-12

訪問:2022年11月

テレビ文化!

港区 NHK放送博物館 説明

ラジオの影で開発が続けられていたテレビ放送は、1939年頃から受信実験が行われて実用化に向けて着々と準備が進められていた。

しかし、太平洋戦争の勃発による戦時下になり、テレビ開発は一旦中止となって、実用化には至らなかった。

 

 

 

NHK放送博物館の見学!

港区 NHK放送博物館 反射型テレビ

こちらは「反射型テレビ」という1939年頃のテレビ受信試験に使われた物。

この頃にテレビ受信機の試験が盛んに行われていたのは、翌年に開催が予定されていた”東京オリンピック大会”があった事も大きく影響していた。

 

港区 NHK放送博物館 古いテレビ

しかし、嘉納治五郎などが苦労して誘致した「1940年東京オリンピック」は、日本が開戦に踏み切った事もあり、辞退する事になってしまう。

江戸春男
江戸春男

この頃はまだオリンピックより、戦争の方が大事だと思われていた時代さ!

 

港区 NHK放送博物館 街頭テレビの模型

昔はまだ一般的にテレビが家庭になかった時代には、このような街頭テレビの放送に群がっていた。

現代では各家庭に1台はテレビがあり、国民1人当たりに1個以上のスマホが普及している時代なので、今ではこのような街頭テレビに群がる光景は殆ど見られない。

 

港区 NHK放送博物館 テレビジョンカメラ

太平洋戦争は日本の敗戦となってGHQの占領下に置かれた日本では、戦前に中止されたテレビ開発が再開される。

こちらは「RCA テレビジョンカメラ TK-30A型」という、1953年に開始するテレビ放送に合わせて、「アメリカ・ラジオ会社(RCA)」から購入したカメラ。

NHKではこのカメラを分析して、後に国産として製造するカメラの見本にしたという。

 

港区 NHK放送博物館 昔のお茶の間

こちらは先程も”味の素の博物館”で見た事があるような、昔ながらの家庭の様子を再現した小部屋。

昔はこのように小さなちゃぶ台を囲んで、一家団欒しながらテレビを見るのがお決まりだったのだろう。

 

港区 NHK放送博物館 昔のお茶の間 クマの置物とテレビ

そしてテレビの上には、お馴染みの”北海道土産”の定番でもある『木彫りの熊』が置かれている。

ちなみにこの『木彫りの熊』は元々は”スイス土産”から着想を得た物で、北海道の寒い冬場に入植者やアイヌ人達に作らせて、販売させた物が人気になったという。

 

港区 NHK放送博物館 テレビ受信機

こちらは「ハリクラフター:17-816型 テレビ受信機」という1952年にアメリカで発売されたテレビ受信機で、日本国内で”テレビ受信契約:第1号”となる家庭で購入した物。

ちなみに当時の”大卒初任給の約60倍もする高級品”であり、裕福な人しか手にする事が出来なかった文明の利器であった。

 

 

港区 NHK放送博物館 パネル

1953年2月にNHKがテレビ放送を開始し、当初はラジオ番組をテレビ化しての放送が多かった。

しかし、テレビ放送が順調に進む程に、テレビ専用番組が増えていく事になる。

 

港区 NHK放送博物館  三菱 14T-210型テレビ

こちらは1957年に発売された、普及型の14型モノクロだった「三菱 14T-210型テレビ」

国内でテレビ放送が開始された頃にアメリカから輸入していたテレビと比べると、値段が数分の1だった為に、一般家庭でも何とか買えるようになっていく。

 

港区 NHK放送博物館 「夢で逢いましょう」などの場面

そして安価なテレビが普及して多くの人がテレビ番組を見るようになると、それに合わせてテレビ番組も充実して、色んな番組が競うように制作されていく。

 

港区 NHK放送博物館 「夢で逢いましょう」の台本

こちらは前にも紹介した『夢で逢いましょう!』という、NHK番組の第1回目の台本。

まさか、この番組から世界的に人気となる、坂本九の『上を向いて歩こう』が生み出されたとは全く知らなかったのだが。。

江戸春男
江戸春男

それだけ昔はテレビの影響が大きかったさ!

 

港区 NHK放送博物館 皇太子婚礼のテレビ画面

そして敗戦国となった日本では、天皇陛下は”神聖な存在”から”国民の象徴”という認識に変化した。

しかし、そんな皇族でも皇太子のご成婚パレードは大人気となり、このパレードを見たいがためにテレビを購入したという人が続出する程だったという。

 

港区 NHK放送博物館 皇太子婚礼の資料

1959年4月に行われた「皇太子のご成婚パレード」では、100台のカメラと1000人の撮影スタッフが動員されて、文字通り『国民的なお祭り』となった。

このパレードをテレビで見る為に、それまでの1年間で契約者は約100万人から、倍の約200万人にまで増えたという。

 

港区 NHK放送博物館 1964年頃からの説明

1960年代の高度経済成長期に差し掛かると、テレビ以外にも「三種の神器」と言われた車とクーラーも各家庭に普及し、人々の生活は豊かになっていく。

1967年にはテレビ契約者数は2000万を突破し、8年間で200万人から10倍に達する事になる。

 

港区 NHK放送博物館 東京オリンピック関係

そんなテレビ契約者数が大きく増えたのには、1964年に東京で開催された「東京オリンピック」も大きく影響している。

敗戦国となった日本が焼け野原から再出発して、たった20年間で大きく経済発展した姿をお披露目するビックイベントだった。

 

港区 NHK放送博物館 東京オリンピックのロゴ

こちらは有名な『1964年東京オリンピック』のロゴで、このロゴデザインは日本グラフィックデザイナー協会:初代会長となる「亀倉 雄策(かめくら ゆうさく)が担当した。

江戸春男
江戸春男

シンプル・イズ・ベストさ!

 

 

港区 NHK放送博物館 東京オリンピックのロゴ 原案

こちらはその『1964年東京オリンピック』ポスターの版下で、昔はこのように”アナログな紙出力”だった時代を感じさせてくれる。

現代のデザイン界ではほぼデジタルで作られている為に、今時こういった「版下」という紙を目にする機会は殆ど無くなっている。。

 

港区 NHK放送博物館 昔のテレビ

大量生産された更に安価になったテレビは各家庭にどんどん普及していき、テレビ契約者数が2000万人を超えた1967年にはテレビ普及率が80%にも達したという。

 

港区 NHK放送博物館 昔のテレビカメラ

こちらは「RCA TK-41型 3IO :カラーカメラヘッド」という、1957年にアメリカで製造されたカラーテレビ用のカメラ。

アメリカ国内では1954年にカラーテレビ放送が開始されたが、日本は出遅れていた。

こちらはNHKが購入したもので、重量が134kgと”超ヘビー級”なカメラでもあったようだ。。

 

港区 NHK放送博物館 昔のテレビ番組の写真

日本国内で出遅れていたカラーテレビは、1968年にNHKがラジオ契約を廃止して”カラー契約”を開始して、カラーテレビ放送を増やした事で、大きく普及していく。

そして大阪万博が開催された1970年頃にカラーテレビが爆発的に普及し、1973年にはカラーテレビが従来の白黒テレビの普及率を上回ったという。

 

港区 NHK放送博物館 「お笑いオンステージ」台本

こちらは「お笑いオンステージ」という1972年に土曜20時から放送された、NHKのバラエティ番組の台本。

 

港区 NHK放送博物館 「お笑いオンステージ」 出演者の似顔絵

三波伸介や伊東四朗が属していた「てんぷくトリオ」が中心となって行うスタジオ公開型収録で、芸能人の子供が出てきて、その話から三波春夫が似顔絵を描いて、その子供の父親を当てるというクイズも行われていたという。。

江戸春男
江戸春男

昔のテレビは、プライバシーもへったくれもなかったさ!

 

港区 NHK放送博物館 昔のスポーツ人気

そして大きく普及したテレビでは、多くのスポーツ中継も行われた。

そして爆発的にテレビ契約者が増えた時代には、アイドル的存在となる野球選手や相撲取りが続出し、黄金時代を迎えるのである。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓東京旅:一覧ページ↓↓

東京旅(2022)

2022年11月上旬に訪れた、2泊3日の東京旅です。

タイトルとURLをコピーしました