東京旅(2022年11月)-32
訪問:2022年11月中旬
リベンジ?
江戸城本丸跡内の見学をしに、ウロウロと皇居周辺を歩き回って、やっと本丸内に入れそうな門が見えてきた。
皇居の大手門にて
この門は江戸城跡の東側にあった「大手門」で、ここからやっと中の「皇居東御苑」となっている公園に入る事が出来そうだ。
しかも入園無料ぜい!
江戸城内で一般開放されている皇居東御苑に入るには、この大手門以外に、北側に設置されている「平川門」と「北桔橋門」の3箇所から入場できるようになっている。
この皇居東御苑は皇居近くの公園でもあるので、入口では荷物検査が実施されている。
その荷物検査をクリアして外側の高麗門を抜けていくと、内側には桝形に二重構造となっている。
大手門も内側の大きい方の櫓門は第二次世界大戦中の空爆で焼失し、1967年になって復元された物となっている。
ただ、こちらの外側の高麗門はそういった記述が案内に見られないので、戦争時に消失しなかったようだ。
そんな大手門の桝形になっている内側には、こちらの鯱が珍しく野外の地面の上に飾られていた。
どうやら戦争で焼失した櫓門の上に取り付けられていた鯱らしく、そんな物が手に触れられる位置に置かれていた。。
普通は博物館に飾られるレベルだぜい!
こちらの鯱の頭部分には文字が刻まれていて、「明暦3丁酉」と”1657年”を意味する言葉となっているという。
明暦3年というと、江戸の町で『明暦の大火』と呼ばれる大火事が発生した年で、江戸城外堀より外側で発生した火が強風に煽られて飛び移っていき、最終的には江戸城本丸まで到達して天守閣などの主要な建造物まで焼き払ってしまった大事件であった。
当時は燃えやすい家ばかりだったぜい!
この江戸城跡に来て幅の広い内堀などを見ていると、本当にこんな広い堀の上を火の粉が舞って、本丸まで到達したとは想像すらできない。。
そんな江戸城まで巻き込んだ『明暦の大火』の教訓を活かして、江戸の町では大火事が飛び火しにくいような工夫を凝らした町の再建が行われていった。
江戸の町は大火の度に強くなるぜい!
「皇居東御苑」内に入場!
そんな再建された大手門櫓門を通って、今では「皇居東御苑」と呼ばれる公園内に足を踏み入れて行く。
ただ、個人的には皇居東御苑というよりも「江戸城跡」を見学しに来た事もあって、公園を散策するのではなく城跡を散策する気満々であった。
進んで行くと、いきなり綺麗に整えられた石が積まれている門跡の石垣などが見えてきて、”城跡”という雰囲気の方が強く思えた。
大手三之門があった場所だぜい!
その大手三之門跡の奥には小屋が見えており、この門を警備する兵の詰め所だったという建物となっている。
なお、大手三之門では御三家以外の大名は門の前で籠を降りる必要があった場所で、「下乗」という札が立っていた場所でもあるという。
私も籠に乗りたいわ・・・
この大手三之門手前には堀が築かれていて、その堀を渡る「下乗橋」を渡って進む必要があった門のようだ。
この「下乗門」も枡形構造の2重になっていた門構えだが、今では脇にあった堀が埋め立てられている為に、昔の面影は感じられないが。。
その先には大手三之門の内側にあった大きな櫓門の石垣も、このように綺麗に残されているのが見えてくる。
城跡に何回も行った事があると、このような単なる石が積まれた石垣跡が「門跡」だった事に徐々に気付いていくのである。
その大手三之門跡を抜けて更に内側に入っていくと、こちらの「百人番所」という江戸時代から残る建造物が見えてくる。
この場所は大手三之門跡を抜けて、その先にある本丸と二ノ丸に行く場所だったので、とても警備が厳しい場所で常時100人程の兵士が任についていた場所だったから「百人番所」という名前が付けられている。
江戸幕府の中心地でもあった江戸城なので、当時の日本国内で最も警備が厳しかった場所でもある。
そんな当時は数えきれない程の兵士が常駐していた事だろうが、今ではここには警備する人の姿は見られないが。。
こちらは本丸に繋がる「中之門」が現存している時代に撮影されたと見られる古写真であるが、昔はこのような立派な門がそこら中に造られていたのである。
今では綺麗に整えられた石垣しか見られないが、その石垣の石が綺麗に削られた形状になっている姿を見るだけで、どれだけの手間をかけて造られていた門だったかが分かる。
そんな江戸時代の姿を知らない現代の日本人からすれば、簡単に通れる場所となっているこの「中之門跡」。
日本の城跡では近年に櫓門などがどんどん復元されつつあるけど、この江戸城跡を昔の姿に復元するにはかなりの予算が必要となるだろう。
江戸城を復元する財源はねえぜ!
江戸城には大勢の警備兵が常駐していたそうだが、基本的に江戸時代には攻め込まれる事がなかったので、意外と暇な仕事だったのかもしれない。
特に平和慣れしてしまった江戸時代には、常駐していた兵士達も警備よりもお喋りばかりしていた姿を、思わず想像してしまうのである。。
残念ながら櫓門は残っていないけど、この立派過ぎる石垣を見れるだけで、城好きにとっては幸せな気分になれる。
大阪城も江戸幕府によって再建された城であるが、当時の江戸幕府の権力の強さが象徴されているようにも見える石垣である。
江戸時代初期には城の建造技術が最も研ぎ澄まされていた時代でもあったので、普通の城で見られる”野面積み”などではなく、綺麗に大きな石を削っての「切込接(きりこみはぎ)」ばかりとなっていた。
これだけの大工事を諸大名に自己負担でさせたというから、それだけ諸大名からすれば江戸幕府が怖い存在であったという事の裏返しでもある。
しかし、そんな全国的に恐れられた江戸幕府も、200年以上も治世を続けると、流石に綻びが出てしまって滅亡する事に繋がっていくのである。
ローマ帝国も江戸幕府も、いつかは滅びるぜ!
今日は江戸城跡をゆっくり見学する時間がなかったので、二ノ丸の見学はパスして、本命の本丸跡を目指して進んで行くのであった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2022年11月上旬に訪れた、2泊3日の東京旅です。