祇園之洲公園でザビエル上陸記念碑や岩永三五郎が造った石橋を眺める

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

焼けても色んな史跡跡が残る鹿児島市

石橋記念公園に架かる西田橋-1

今日は鹿児島市内となっている桜島での一周サイクリング旅を終えて、フェリーに乗って市街側に戻ってきたその足で、鹿児島市内の北側にある「石橋記念公園」を訪れています。このエリアには江戸時代後期に鹿児島市内の甲突川に肥後国(熊本県)の石大工職人たちが集められて造った石橋が、元あった場所から移転されて保存されている場所です。

 

鹿児島市内の夕暮れ時にて

石橋記念公園を進む

江戸時代の1840年代に肥後国の種村の石大工達が薩摩藩に依頼されて、この鹿児島県内に30を超える数の石橋を造ったとされている。そしてその時代に造られた石橋の中でも、特に鹿児島市内中心部を流れる甲突川に架けられた5つの”甲突川五石橋”のうち、現存している3つの石橋が後世に伝える重要な文化財としてこの地に移転さて保存される事になった。

 

 

石橋記念公園内に設置されている岩永三五郎の像

石橋記念公園内に設置されている岩永三五郎の像

こちらが肥後国の石大工を率いていた石橋造りの名人と称されていた「岩永三五郎」。地元の肥後国(熊本県)にも多くの石橋を建造し、いまだに現役の石橋として使われているものも現存している。彼が関わった石橋はアーチ状の石造りの石橋で、その殆どは質素な外観となっていた。

 

なおこちらの今西祐行氏著の児童文学『肥後の石工』の中では、薩摩藩から石橋建造の依頼を受けた肥後の石大工達は軍事機密保持の名目で橋を建造しおわった後に「永送り」という殺し屋を送り込まれて、帰路の藩境で斬り捨てられたという。昔から街の噂話だったという永送りであるが、外国でも美しい城などの建造物を建てた設計家に他で同じような建物を造れないように殺したとか目をくり抜いたとかいう話も残っているので、こういった説もまんざらではないかもしれない。

 働いたご褒美に殺されるという、酷い時代です・・・

東郷どん
東郷どん

当時は名誉を何よりも重んじていたので、下手に生きるよりも逃げずに殺される方が名誉とされていたでごわす!

 

岩永三五郎が鹿児島で最初に造った石橋「永安橋」

岩永三五郎が鹿児島で最初に造った石橋「永安橋」の石碑

こちらの石碑は石橋記念公園から稲荷川を渡った向かい側にある祇園之洲公園内に設置されている、肥後の名石大工であった岩永三五郎が鹿児島に招聘されて一番最初に造ったとされる「永安橋」の石碑である。この永安橋は今では残念ながら見る事が出来なくなっているが、この辺りに造られていたという。そういう由縁があって、岩永三五郎らが建造した甲突川五石橋がこの地に移転されたという。

 

石橋記念公園から見える桜島

こちらは石橋記念公園と祇園之洲公園の間を流れる稲荷川。そしてその先には鹿児島県を象徴する桜島の雄大な景色が見えている。今日は桜島の火山の周囲に造られている周遊道路で、レンタサイクルをして十二分に火山の景色を間近に見てきたけど、やっぱりここに来ても桜島の景色に見惚れてしまうのであった。

桜島火さん
桜島火さん

やっぱりワシの姿は、いつ見ても惚れるド~~ン!

 

石橋記念公園から見える夕暮れ時

そろそろ19時頃になってきたので、真夏だけどお天道様もさすがに沈んでしまったようで、その残り陽が少しだけ幻想的な雰囲気を創り出す黄昏時を迎えていた。なお奥にはJR九州の日豊本線が見えていて、この鹿児島駅から宮崎駅や大分駅を経由して北九州の小倉駅まで約460kmに渡る路線が延びている。

 

 

「西南戦争 官軍戦没者慰霊塔」にて

石橋記念公園にある、西南戦争犠牲者の鎮魂碑

稲荷川を渡って北側に隣接する祇園之洲公園に入ると、まずこちらの「西南戦争:官軍戦没者慰霊塔」が見えてくる。この西南戦争は明治10年(1877年)に九州地方で行われた、地元の士族達による新政府軍への反乱で”日本で最後の内戦”とも言われている戦いである。

 

石橋記念公園にある、西南戦争犠牲者の鎮魂碑の説明

同じ日本人同士が戦った最後の内戦では、実に13,000人を超える人がその戦いで死んでいった。ここ薩摩は抵抗した士族達の拠点であったが、官軍(新政府軍)での戦死者約1,200人の亡骸はこの辺りに墓が造られて葬られた。しかしその後荒廃が酷くなった官軍兵士の墓は1955年に地下納骨堂に移動されて、西南戦争100年後の1977年にこの慰霊塔が設置されたという。

 

石橋記念公園にある、西南戦争犠牲者の鎮魂碑を眺める

薩摩(鹿児島)の人達からすると新政府軍に向かっていった薩摩隼人の敵である官軍(新政府軍)側の兵士であったけど、彼らも日本を良くしようと上の命令されて戦っただけ。結局は同じ日本人であり、大きく捉えれば同胞である。だから勇敢に敵ながら戦った官軍兵士の亡骸を丁重に埋葬した。

 

石橋記念公園にある、西南戦争犠牲者の鎮魂碑を眺める-1

いまだに世界中の国々では内戦が起きて、同胞同士が殺しあっている地域もある。だが日本は約140年程前の西南戦争を最後に内戦は起こっておらず、そんな平和な日本に住めているというのはとても幸せな事である。

東郷どん
東郷どん

おいどんたちの死を無駄にしなかった、今の日本人に感謝たい!

 

石橋記念公園にある、西南戦争犠牲者の鎮魂碑を眺める-2

西南戦争ではこの鹿児島の鶴丸城周辺でも激しい戦いが行われていて、いまだに石垣にはその際の銃弾跡が生々しく残されている。また熊本の熊本城では城に立て籠る官軍に対して薩摩軍が攻勢を掛けたが、加藤清正が一説には島津を警戒する為に特に南側からの攻撃に備えて堅固に造らせた熊本城を最終的には攻略できなかった。

東郷どん
東郷どん

現代に見られる城は実戦に使われてない城ばかりだけど、熊本城は恐ろしく堅固だったでごわす!

 

 

薩摩藩の砲台設置跡地にて

祇園之洲公園にある薩摩藩の砲台跡

そして祇園之洲にはまた別に「祇園之洲砲台跡」という史跡もあった。こちらは西南戦争よりも十数年前の時代に造られた薩摩藩が海上の敵に向けて配置した砲台跡である。江戸時代後半になるとヨーロッパ諸国の船が日本にやって来て、それぞれ強気に開国を迫ってきた。そんな日本の中でも一番南側に位置していた薩摩藩は、そんな風に押し寄せてくるヨーロッパ勢の脅威を一番早く感じており、平地に造られた鶴丸城(鹿児島城とも)は海からの攻撃に対して防御が弱かったので、この場所に砲台を設置した。

 

 

祇園之洲公園にある薩摩藩の砲台跡の景色

そして生麦事件という島津家の大名行列前を馬に乗って見物していたイギリス人を、島津家の侍が切り捨てた事件を発端に、イギリスと薩摩軍の戦いである”薩英戦争”に発展する事になる。この薩摩藩単独でイギリスの軍艦6隻と戦った戦いでは、事前にヨーロッパ諸国との戦いを事前に想定していた薩摩軍の砲台などの効果もあって、鹿児島の城下町などは大規模な損壊となったものの何とかイギリスの攻撃を凌いだ薩摩藩。

 

祇園之洲公園にある薩摩藩の砲台跡の景色-1

そしてイギリスは遅れた文明のアジアの一国とバカにしていた日本でまさかの抵抗を受けて、薩摩藩の実力を認めてその後に和睦する。薩摩藩も直接ヨーロッパ勢と一線を交えた事により、その強大な国力や先鋭化された武器を体感して、逆に”昨日の敵は今日の友”という言葉にもあるようにイギリスと親しくなって、最新鋭の武器などを積極的に仕入れる事になる。

 

祇園之洲公園にある薩摩藩の砲台跡の景色の説明

この薩英戦争の時にイギリス艦隊に被害を与えた砲台も、その後イギリス側からの徹底攻撃により跡形もなく破壊されてしまう。この当時の日本国内は外国勢をそのままシャットアウトし続けるという尊王攘夷派が多くいたが、薩摩藩は直接ヨーロッパ勢と刃というよりも砲弾を交えてその強大さを肌で感じた為に、後々の開国派に移行していったとされている。

東郷どん
東郷どん

この時代は薩摩藩が国内でも、外国勢に対しての危機感を一番持っていたでごわす!

 

石橋記念公園に設置されている高麗橋

そしてこちらに見える橋は石橋記念公園側ではなく、この祇園之洲公園内に移設された甲突川五石橋の「高麗橋」である。最初に見た時は「なんで川も水も無いこの場所に橋があるのかな??」と不思議に思っていた。

普通橋というものは、川や谷などに架けられるものなのに。。

 

石橋記念公園に設置されている高麗橋-1

その答えは江戸時代に石橋造りの名大工達が甲突川に架けた、歴史的な橋を保存する為であった。現代人にとっては街中にある何気も無い橋など、特に気にする事などない。それは生まれた時からその辺の川には当然のように橋が架かっていたから、特に気にもしないのである。しかし昔の江戸時代には今みたいに簡単に橋を造る技術も材料も道具もなかった為に、苦労してこのような橋が設計されて架けられていたのである。

東郷どん
東郷どん

こういった素晴らしい石橋を見て、そういう歴史を勉強するでごわす!

 

石橋記念公園内の橋を渡る

そして暗くなってきたけど、この近くにもザビエル像が設置されているというので見に行くことにする。昨日夜の鹿児島市内で3つのフランシスコ・ザビエル像を見たにも関わらず、また今日もわざわざザビエル像を見に行くのであった。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

オレは写真を全然撮らんけ、コイツの写真に撮りたがる気持ちが理解できんけ・・・

 

石橋記念公園内の橋を渡る-1

そのザビエル像が設置されている場所に向かう橋は、残念ながら歴史ある石橋ではなく、まださっきの石橋に比べると比較的新しそうな「田之浦橋」という名前が付けられていた。

 

石橋記念公園内にある玉江橋

そんな田之浦橋を渡っている時に北側を見ると、いかにも江戸時代に造られたような古そうな石橋が見える。たぶんあれも江戸時代に造られた石橋のようなので、あとであの橋の所まで行ってみるとする。ただ今は気持ちがザビエル像に向いてしまっているので、先に像へ向かうのである。

 

石橋記念公園内の橋の下を渡る

途中にこのようなバイパス道路の下に造られている通路を進んで行く。この辺りも勿論全然人の姿が見られなかったけど、「ただザビエル像が今日も見たい!」という気持ちで進んで行くのであった。

 

石橋記念公園を進んで行く

先に進んで行くとこのような南国っぽい道が整備されていた。なお横には祇園之洲公園という野球が出来そうなグラウンドもあった。どうも地図を見ている限りはこの今いるエリアは埋め立て地のような形をしていた。

 

 

ザビエル上陸記念碑にて

石橋記念公園にあるザビエル上陸記念碑

そして見えてきたこれが「ザビエル上陸記念碑」である。1549年に鹿児島の今の坊津町坊(薩摩半島南西端)にまずやって来たサビエルは、薩摩藩の了解を取ってから8月15日にこの祇園之洲付近に上陸したとされている。

 

石橋記念公園にあるザビエル上陸記念碑のザビエル像

そしてこちらがカトリック教会では聖人としても列聖されている、フランシスコ・ザビエルの像である。なおこの像は昨日見た像とは違って、宙に浮いているかのようなポーズをしていた。遠い遠いスペインから危険な長い航海をして、遥か遠方のこの日本までわざわざカトリック教(イエズス会)を宣教しにやってきたザビエル。

 

石橋記念公園にあるザビエル上陸記念碑のザビエル像-1

このザビエルが日本にやって来た当時はまだキリスト教という宗教が日本には全然伝来していなかったので、当時の日本国内では全く脅威になっていなかった。そういった背景もあってか、ザビエルを始め数人の宣教師達がキリスト教の普及を始めると、大名まで含めて多くの信者を獲得する事に成功するのであった。

 

石橋記念公園にあるザビエル上陸記念碑のザビエル像-2

しかしそんなキリスト教(カトリック)の普及も実はポルトガル勢の植民地化政策の一環で、現地住民たちをキリスト教に洗脳して戦になった時に反乱させる為の施策として船に乗せていたのであった。なのでそれらの行為に気付いた豊臣秀吉や徳川家康の時代には、徹底的にキリスト教の弾圧が行われる事になるのであった。

 

石橋記念公園にあるザビエル上陸記念碑にあったレリーフ

こちらのレリーフには薩摩藩の「丸に十文字」の家紋も彫られているのが見られる。薩摩藩内でもキリスト教の信者がどんどんと増えだし、それに危機感を覚えた薩摩藩はキリスト教の弾圧を行った。宗教というものは”幸せ(救い)を与える”という名目で、特に昔は虐げられていた農民や下級庶民たちが挙って信者となっていった。このようにキリスト教の教えは全世界の人々にとても効果があり、中でもフランシスコ・ザビエルはカトリックの信者を世界中で最も獲得した宣教師とも称されているのである。

 

石橋記念公園にあるザビエル上陸記念碑にあったレリーフ-1

歴史を語る上で「たら、れば」は禁句であるが、もしこのキリスト教の弾圧を行っていなかったら、日本はヨーロッパ諸国の植民地になっていたかもしれない。その宗教の布教の先に植民地支配化の匂いを嗅ぎ取った豊臣秀吉や徳川家康は、今から考えるとやっぱり名君だった訳である。

 

石橋記念公園にある玉江橋

そんな鹿児島に来てから4つ目となるザビエル像を見た後は、さっき見えていた古そうな石橋の方へ向かう。なおこの石橋はさっき見た古い石橋2つとは違って、今でも流れている川に架かっている橋だった。

 

石橋記念公園にある玉江橋の石碑

この石橋の袂に行くと、その手前にはこのように「玉江橋」という名前が彫られているのが見える。この石橋も1849年に肥後の石大工:岩永三五郎らによって造られた石橋で、他の現存している橋に比べると比較的損傷が少なかった為に、この川の上に移築されているようだ。

 

石橋記念公園にある玉江橋を渡る

この「玉江橋」という名前は、”雨が降る度に入り江の様に水が溜まる”という由来で名付けられたという説もあるという。なおさっき急な雨が降った事もあって、この橋周辺には水溜りが出来ていて、案の定その水溜りに足を着けてしまった・・・。

だから体を持って、そんな名前の由来を体感できました・・・

東郷どん
東郷どん

ちょっと濡れた位で、女のようにわめくではなかとです!

 

 

石橋記念公園にある玉江橋を渡る-1

現代の街中ではまずお目に掛かれない位に、いびつな形の石が敷き詰められて、橋表面もボコボコな玉江橋。でもそんな石橋は日本に存在した石大工の職人たちが、知恵を絞って造った現代にも通用する芸術作品でもある。

桜島火さん
桜島火さん

桜島にもこんな芸術的な石橋を造ってくれド~~ン!

 

石橋記念公園にある玉江橋を渡った先にある松の木

今では何気なく造られている橋ひとつに注目するだけでとても勉強になる石橋記念公園。次は大きな松のような植物が見えてきた。枝があまりにも長くなり過ぎて、自分では支え切れない程に伸びているようだ。

 

石橋記念公園にある玉江橋を渡った先にある松の木-1

この辺りは分家した島津家の屋敷があった場所らしいので、その時に大切にして育てられた松かもしれない。ただ個人的には人の力を借りないと生きていけない植物を、そのまま育てるという行為に少し疑問を感じてしまうのであったが。。

 

石橋記念公園にある記念碑

そしてこの祇園之洲公園の端っこで、この「薩英戦争記念碑」を見つけたのでしばし眺めてみる。この鹿児島にあった薩摩藩は、さっき慰霊碑を見た西南戦争やこの薩英戦争の舞台ともなっており、近世でも混沌としていた場所であった。ただそれは逆に薩摩藩がそれだけ危機感を持っていた裏返しであり、それが将来的に討幕に紐づいていくのでもあった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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