九州縦断旅:鹿児島編
旅行期間:2020年8月中旬~下旬
肥後の石大工職人の傑作
今回の九州旅で来たかった桜島。そんな桜島にやって来て、島内一周サイクリングを成し遂げたし、美味しい料理にも、優しくて面白い人達にも出会えてすっかり満足気分。そして天気が急変して雨が降って来そうな感じになっていたので、眼下に見える桜島港フェリーターミナルへ急ぐ。
夕暮れ時の鹿児島市内にて
この桜島港フェリーターミナルの建物はまだ新しく、2年前の2018年3月に約13億円掛けて新しく造られたもの。桜島の観光客を増やす為にも綺麗で新しい建物にしたのはいいけど、この2020年はコロナ禍の影響で全世界的に大きく観光業は大打撃を受けた1年であった。ただこれが2020年だけで収まればいいけど、2021年度もなんとも見通しのつかない様子でスタートしている。。
桜島からフェリーで鹿児島市街地へ渡る
そしてこのフェリーは桜島港側で料金を支払うので、今回は先払い。ちなみに鹿児島市街地からだとフェリー運賃は後払いになるシステム。この時期には、このようにあまりフェリー利用のお客さんの姿は見られなかった。
行きの桜島へ向かうフェリー船内でもデッキに陣取ったけど、帰りも勿論デッキに陣を取る。夏場でデッキに出ても寒くはないし、景色がいいので船内室を選ぶ理由がボクには無かった。しかし普段からこのフェリーを日常的に使っている人からすると、見飽きた景色なので冷暖房とWi-Fiが完備されている船内室を選ぶのであろうが。。
こちらは先程歩いて登った「桜島自然恐竜公園」があった付近の景色。こうやって見るとそんなに高台には無いように見えるけど、登る道は車用道路となっていて蛇行しているので、頂上に徒歩で登るにはそこそこな時間を要した。
桜島フェリーは行き交う本数が多いので、デッキで出発を待っていると対岸からやってくるフェリーとすれ違う事が多い。鹿児島では海底道路建設を検討しているらしいけど、噴火が多い活火山周辺に穴を掘ってそこに道路を造るのはかなり困難なように思える。
もし海底トンネルなんて造ったら、すぐにぶっ壊してやるド~~ン!
という訳で桜島に別れを告げる瞬間がやって来た。しかしそんな鑑賞に浸るよりも、先程から落雷が轟いていた雨雲が東側からどんどん迫って来ていた。しかも落雷の回数がドンドンと増えてきて、嫌な感じの約15分の航海となりそうである。。
フェリーで桜島港を出港 動画
鹿児島市街地に帰ってからもちょっと周辺にある史跡を散策しようと思っていただけに、雨降りというのは困る。ボクは基本的に外人スタイルのように傘は持ち歩かずに、多少の雨であれば傘は差さない。しかし多少の雨だったらいいけど、雷を伴う雨雲はそこそこな量の雨を降らす事が多い。そんな雨雲が東側から急速に接近していた頃合いだった。
去年(2019年10月)にこの鹿児島を訪れて、3泊4日で色々と鹿児島県内を巡ったけど、それだけじゃ全然回り切れなかった鹿児島。というよりもその時の旅行で鹿児島の色んな史跡などに興味が出て、回りたい場所が結構増えてしまった。なので今回も一応は3泊4日した鹿児島旅であったが、結果的には十二分に鹿児島内を巡ったけど、更に色んな場所に行きたくなってしまった。
行けば行くほどに、色んな場所に興味が出てしまう成長期!
鹿児島はええとこばかりでごわす!
黒豚と野菜が好きな人はハマるよね!
鹿児島港に到着する
そして雷が響き渡る薄黒い雲に追いかけられるような感じで、予定通り約15分で無事鹿児島港に到着する。天候はいい時だと問題ないけど、台風などが近づくとフェリーは欠航になる。なのでそれらの対策用として海底トンネルを造りたいみたいだけど、今では一応陸続きになっているので巨額な費用を掛けてまで活火山の近くにトンネルを掘るのは、デメリットの方が多過ぎるような感じがするけども。。
そして鹿児島港に到着するとほぼ同時に、ポツリポツリと雨が降ってきた。やっぱりフェリーが進むスピードよりも、雨雲が進むスピードの方が速かったようだ・・・。
そしてフェリーを下船する頃には、ゲリラ豪雨のような大雨が降ってきた。やっぱりゴロゴロと音を立てる雷雲が発生すると、このように大雨になるのである。
大雨が降りだした鹿児島港 動画
そんな急に降り出した豪雨の前に傘など勿論持っていなかったので、なすすべなく鹿児島港のフェリーターミナル内で雨が止むのを待つ事にする。ただ幸いフェリーターミナル内には無料のWi-Fiが飛んでいたので、そこまで不自由を感じなかった。しかしこの18時を過ぎた頃にはフェリーターミナル内で営業しているお店などが全て閉まっていたので、ちょっと合間にうどんやそばなどが食べれるお店があれば良かったけど、この時間に閉まっているという事はそれだけ需要がないのであろう。。
傘を持っている人や車を停めている人達はフェリーターミナルから出ていくけど、徒歩で帰ろうとしている人達はボクと同じように雨が降るのをじ~~っとベンチに座りながら待っていた。しかし10分が経過してもまだ雨が止みそうにはなかった。
結局20分程経ってからやっと雨脚が弱まってきた。急に降ってくる雨はその分、早くあがりやすいので助かった。ただまだこれからも雨が降る可能性もあったけど、このフェリーターミナル内に残っていても退屈なので、多少濡れてもいいからと外に出ていく事にする。
そして鹿児島港から古い石橋と東郷平八郎の墓がある、鹿児島市内の北側に向かって歩いて進む。空の色はあまりいい色をしていなかったけど、幸いさっき降った雨で打ち止め。ちょっと暗くなってきたけど、とりあえずどんな場所に東郷平八郎が祀られているのかも見たかったので進む事に。
そして漁船が停泊している先に、先程近くまで訪れた桜島の火山が見えている。ゲリラ豪雨が降ってその雨雲が消えた為に、先程よりスッキリと桜島が見えている。
ある人が「山は遠くから見るもの!」と言っていたけど、確かにそうかもしれない。。
この日は早くから寝たぞド~~ン!
石橋記念公園を訪れる
そして鹿児島港より徒歩約10分ぐらいの距離にある「石橋記念公園」に到着する。実はこの公園を訪れた時点で、この場所がどういう場所かなんて全然理解していなかった。そして「石橋記念公園」という公園の名前の由来すらも、勿論全然知らなかったこの時である。
勉強不足でごわす!おいどんの大好きな石橋たい!
公園の入口を進んで行くと駐車場があって、その左手にはこのような石橋記念館という建物が見える。ただし営業時間が18時30分と書いてあったので、ほぼ閉館になる時間であったが。。
この時は全然この場所の存在というものを理解していなかったので、この「石橋記念館」という名前を見た時に久留米のブリヂストン社じゃないけど「石橋さんという人に関わる記念館か!」というデタラメな考えが頭に浮かんできた瞬間であった。なおここは石橋さん関連ではなく、「石の橋である石橋」についての記念館であった。
そして振り返ると、このように江戸時代に造られた立派な石橋が見えている。こちらは江戸時代に薩摩藩の家老までのし上がった調所笑左衛門が財政改革を行った際に、鹿児島内でのインフラを整える為に造らせた石橋「西田橋」である。そしてここから背景に桜島も一緒に写る景色は、よくパンフレットなどでも見かける写真スポットでもある。
薩摩藩の家老になった調所笑左衛門は薩摩藩が抱えた約5,000億円にものぼる莫大な借金にも怯まずに、島津重豪から命令された無謀にも思えた借金全額返済&貯蓄をやってのけた革命家でもある。まずは雪だるま式になっていた借金の金利を払う事をせず、踏み倒す訳ではなく”250年掛けて元金は返済する”という妙案を実行した。勿論薩摩藩にお金を貸していた大阪や江戸の商人たちは大反発を起こしたが、借金がどんどん膨らんでいく薩摩藩を見ているとそもそも借金を返済できないと思っていたから、それに比べれば一応お金を返す気持ちがあるという態度が見えたのが上手くいった要因かもしれない。
そんな借金に対しての妙案を実行し借金の増加を減らし、更には薩摩藩内の役人による不正を徹底的に禁じた。そしてそんな対策で捻出できた資金を、鹿児島領地内のインフラ事業に思い切って投資をした。今までは川を船で渡っていたりと不便だった交通を整える事で、その投資に比例して商い量が増えて、特産品の利益も増えていくのであった。
そんな橋造りのインフラ事業を依頼した業者が、隣の肥後国で石橋造りの上手さに評判高かった、今の熊本県八代の種山村にいた種山石工達だ。そんな石工の責任者でもあった岩永三五郎の石像が、この石橋記念公園内に設置されている。この際には鹿児島市内の中心を流れる甲突川にこの西田橋を初めとして掛けた5つの橋は、”甲突川五石橋”と呼ばれて約150年間も甲突川の中に立ち続けた。
調所笑左衛門が岩永三五郎に依頼して造らせた石橋は、鹿児島県内で36箇所程も造られたという。彼ら肥後の名石工達は主にアーチ型の眼鏡橋スタイルを好んだ。ただこの眼鏡橋のスタイルは中国から来た東洋式ではなく、西洋式の方に似ているという。そして一説にはその種山石工達の起源は元々長崎に出入りするヨーロッパ諸国から西洋式石橋を学び、その後西洋文化の弾圧を受けた際に熊本の種山村に逃げて、そこでひっそりと種山石工の技術を代々伝えていたという。
そして”甲突川五石橋”のメインの橋でもあるこの「西田橋」だけど、ここに流れている川は甲突川ではない。これは人工的に流されている水であって、自然の川ではない。ではなぜここに西田橋が架かっているかというと、それは平成5年(1993年)に鹿児島で起きた大水害の影響で甲突川五石橋のうち、同じ石橋の「新上橋」と「武之橋」が崩壊して流されてしまったのだ。その後甲突川の補修工事が行われて、その際に残る3つの「西田橋」「玉江橋」「高麗橋」が石橋の保存を考慮してこの場所に移築されたのである。
なおこの江戸時代に造られた石橋を解体して移築する際に、石橋に使われていた石を調べてみると、全ての石が規則正しく削られている訳ではなく、その石を削った職人のクセによって細かな違いが見つかったという。
そのように個性の違いが出るのが、機械ではなく人間の味でごわす!
そんな肥後の名石工によって江戸時代に造られた5つの代表的な石橋の中でも、一番重要な橋だったのがこの西田橋である。この西田橋はそんな石橋の中でも参勤交代の道中に通る重要な橋だった為に、「擬宝珠」(ぎぼしゅ)という欄干にねぎのような形をした特別な青銅の装飾が施されている。
なお、この擬宝珠は城主が中納言以上の官位を持っていないと認められなかった装飾であるが、その当時薩摩藩主だった斎藤斉興はそれに値する官位を持ってはいなかった。その代わりに初代薩摩藩主であった島津家久が中納言だった事を引き合いに出して、その先祖が造った橋という事を主張して強引に造ったという。この石橋の西田橋としては新設になるが、木造として今まで架かっていた西田橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠を、そのまま流用したという。
肥後の石工によって造られた西田橋 動画
甲突川五石橋で残っていた「西田橋」「玉江橋」「高麗橋」は、1994~1999年にかけて解体・復元される。そして肥後の石工として集められた岩永三五郎らが鹿児島で最初に建造した石橋「永安橋」が設置されていたこの場所に、2000年に新しく「石橋記念公園」としてオープンして今に至る。
まさか(岩永)三五郎が造った石橋ば、壊れるとは思ってなかったでごわす!
江戸時代には木で造られた橋も多かったけど、この肥後の石工は頑丈な石組みにこだわった。この鹿児島でも有名な甲突川五石橋は残念ながら2つの橋は倒壊し、残り3つの橋も安全な倒壊がない場所に移転されてしまっているけど、「雄亀滝橋」や「霊台橋」(国の重要文化財)など熊本県内には岩永三五郎が設計したとされる石橋がいまだそのまま使われている所もある。
基本的に岩永三五郎(肥後の石工)達が築いた石橋は、橋側面の石は整えられておらず、欄干も付けられていなかったりという質素な橋が多かった。というのも肥後内で彼らが受注した橋は肥後藩からの発注ではなく、地元の住民たちからの依頼だったので、そんな橋建造に掛ける予算が少なかったからである。しかしこの西田橋だけは特に貧乏に喘いでいた薩摩藩の中でも、唯一島津家の誇りを内外に見せつけれるようにと欄干には擬宝珠を設置したのだろう。
おいどんは何回もこの橋を行き来したでごわす!
こちらは城下町の正門となっていた西田橋に繋がっていた「西田橋御門」である。この御門があった城下町は西南戦争の際に火の海になったので、昔の写真や他の建造物などの資料を参考に一部だけ再現された門である。
この西田橋御門の焼失前の写真は、明治5年に明治天皇が行幸した際に撮られたものが残っているそうだ。そしてこちらの門は城下町の関所となっており、朝6時~18時まで開門し、それ以外の時間は固く閉められていたそうだ。
この西田橋は甲突川五石橋の中でもメインの橋だったので、1846年に他の橋の建造費の約3倍(現在の価値にして7~8億円)を掛けて造られたもの。この頃の薩摩藩は調所笑左衛門による財政改革が実を結んで、徐々に現金貯金が膨らみだした頃。今までは質素な生活を強いられてきた当主:島津斉興も最低限度の見栄を張りたかった気持ちが、この西田橋に表れているのかもしれない。
こんな旅はまた次回に続きます!
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