松山城天守閣で保管されている伊予松山藩の遺物【愛媛旅行記⑩】

愛媛/松山旅行記⑩

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

伊予松山藩の歴史

松山城大天守内2階にある展示品

愛媛県松山市の松山城天守閣内に入場したけど、すぐに天守閣の上に行ける訳ではなくて、まずは伊予松山藩が所蔵していた鎧や書物などを見学してからの通路となっている。なのでまずは「せっかく松山城に来たんだから、松山藩の勉強を先にしていってね!」という松山市側からのメッセージに思えてしまう見学通路。。

 

松山城天守閣に保管されている鎧

戦国時代には常に戦乱中の時代で戦いに必要だった鎧や兜といった防御品も、江戸時代に入ると戦乱が無くなり平穏な時代になってしまったので、このような鎧などは殆ど出る幕を失って飾りと化す事が多くなってしまった。こちらは伊予松山藩主(久松松平家3代)松平定長が着用していたという「鉄板黒漆塗紺絲素懸威最上胴丸」と名前の付いている鎧。

 

松山城天守閣に保管されている鎧1

次の鎧兜は上の伊予松山藩主(久松松平家3代)松平定長の跡を継いで、松山藩主(久松松平家4代)となった松平定直が着用していたという「鉄切付五枚胴紺絲威具足」というもの。この時代になってくると兜の前立ての形が凝ったものが出てくる。この兜は鯱っぽい小さな龍のような生き物らしきものが乗っかっているのが見える。

 

松山城天守閣に保管されている藩札

次に展示されているのは「藩札」という、江戸時代に全国の藩が造り、それぞれ自国内領土で通用するお金の役割を果たしていたもの。ただしこの江戸時代に流通していた小判や貨幣などに比べると和紙で出来ていたので耐久性が弱くて、また偽札なども比較的造り易かった為にこの藩札は導入しながらも上手くいかなかった藩も多かった。

 

松山城天守閣に保管されている藩札1

この藩札は基本的にはその発行された藩内でしか流通しないもので、他藩では通用しないものだった。しかし経済的に力を持つ藩の場合はそれが例外で、他の藩などでも通用したという。

 

松山城天守閣に保管されている書

こういう字を見ると江戸時代の人達は達筆だったのがよく分かるが、しかし今ではこのような達筆の筆跡で書かれる機会が大幅に減っているので、こういった書を見ても何が書かれているかは全然分からない。

 

松山城天守閣に保管されている書の説明

この書状は伊予松山藩主(久松松平家9代)松平定国が書いたもの。1984年の夏に書かれたもので、その年の初めに落雷によってこの大天守を含む本壇全体が焼失してしまった後に、その時の苦しい心情が描かれているのかもしれない。

 

松山城天守閣内

さてまだまだ天守閣へと登る階段は現れずに、展示品コーナーは続いて行きます。

 

 

松山城天守閣内の展示

江戸時代といっても約250年間の歴史があり、現存する天守が残っている城は日本全国に12個だけだが、その城が造られた時代もバラバラである。この松山城の今いる大天守などの中心部分(本壇)は1784年に焼失してしまい、すぐに江戸幕府から再建の許可を得たものの財政面でもあまり余裕が無かった為に、実際に大天守などが再建されるのは1854年になってからである。

 

松山城天守閣内の展示されている刀

この江戸時代に城の中心部分で大事な天守閣が、落雷による焼失や周囲の建物からの出火によって炎上してしまう事が多かった。そして藩にとってはその権力の象徴が天守閣でもあったので、天守閣を再建しようにもまずは江戸幕府からの許可を貰い、また資金を集めなくてはならなかった。ただ江戸時代には参勤交代や江戸に別邸を造り、藩主は本拠と江戸にそれぞれ交代で常駐していたりで、どの藩も潤沢な資金はなくて疲弊しきっていた。

 

松山城天守閣内の展示されている刀の説明

こちらの刀は1784年に大天守などが落雷によって焼失した時に、その残骸から出てきたものだという。木製のものであれば全部燃えてしまっていたのであるが、幸い刀は火事でも姿を消す事は無かった。

 

松山城天守閣内の展示されている書状

江戸時代中期になると全国どこの藩でも藩政が上手くいかなくて、借金だらけであった。先述したような参勤交代や江戸との二重生活などに費用が掛かり、また跡継ぎを残さないと改易となってしまう為に正室だけではなくて側室も何人か用意しなければならなかった。また側室を1人入れると、その付き人で数人を雇用せざるを得ない。また正室や側室が生んだ藩主の子供も養育費や衣装代や付き人などの費用がかさみ、跡継ぎ以外は他の藩に嫁ぐ為にそれはそれでまた別にお金が掛かったという。

 

松山城天守閣内の展示されている書状1

そして江戸時代中期までは主に稲作中心の藩政だったので、飢饉などが長引くと藩政に大きなダメージを受けていた。そして藩の収入もその大部分が家臣達に支払われて、農民たちには殆ど恵みはなかった。そして苦しい藩政でも常に出費が求められた為に、江戸や大阪の商人に借金をしていた。そしてそれらの借金も返せないものが多く、次第に複利がどんどん増えていき、各藩共に膨大な借金を抱えていくのである。

鯛五郎丸
鯛五郎丸

そんな借金ばかりであれば、簡単にお城の再建もできないタイね!

 

松山城天守閣内の展示されている瓦

この伊予松山藩を治めていた久松松平家は徳川家康の血筋を引く家なので、このように鬼瓦には「葵の御紋」を使う事が認められていた。この江戸時代には徳川家だというと他の外様大名に比べると特権があって、裕福な暮らしをしていたイメージがあるけど、それはあくまでも江戸幕府内だけ。御三家などの徳川家は外様大名に比べると立場的には上であったが、財政的には貧困にあえいでいたという。

 

松山城天守閣内の展示されている城の図

こちらはこの松山城本丸の大天守などがある本壇を再建する際に、まずは設計された立体的な図面「本壇諸櫓平絵図」である。基本的には平面図である設計図面であるが、このように特別な建物は立体的に表現されていたようだ。

 

 

松山城天守閣内の展示されている城の図の説明

1784年に大天守などが焼失してから、約60年後になってやっと出来てきた再建計画。伊予松山藩に属する人々はそこを治める藩主の威厳が象徴される建物だけに、大天守などの再建計画を待ちわびていた事だろう。

 

松山城天守閣内を進む 

今いる松山城大天守などがある本壇部分には大天守だけではなくて回廊などの櫓も連結されており、これらも江戸時代末期に再建された建物なので完全木造の建物である。今では鉄筋コンクリート造りの建物ばかりとなってしまっているけど、木造の建物らしく木で出来ている床板を踏みしめるとギシギシと音がするのが何とも趣を感じさせてくれる。

 

松山城天守閣内の展示されている絵

このような屏風は展示室では基本的にこのように立っている状態しか目にする事がないけど、収納される時は勿論折りたたんでコンパクトにする事ができる。しかし屛風というイメージでは、折り畳まれている状態ではなくて、このように立ててあるイメージしか頭には無い。

 

松山城天守閣内の展示されている絵の説明

こちらの屏風は伊予松山藩の江戸時代後半に活躍した絵師「遠藤広実」という人物が描いた作品のようだ。『伊予四季図屏風』という名前の通り、4面それぞれに春夏秋冬の顔を表しているという。

 

松山城天守閣内の展示されている絵1

世界は大昔から長らく男尊女卑の時代が続き、女性の地位向上が行われてきたのもここ20世紀に入ってから。なので江戸時代には女性は結婚相手の子供を産む事が一番の使命であり、また女性にとってもそれが至高の喜びであったようだ。そして藩主などの肖像画は単独で描かれているものが多いが、このように女性も一緒に描かれているものを見るとその人物がよほどその女性を大事にしていた事が表れている。

 

松山城天守閣内の展示されている箱

こちらは江戸時代に荷物を入れて運んでいた「長持」(ながもち)である。これは海外でもそうだけど主に嫁入り道具を入れていたもので、徳川の「葵の御紋」が入っているので徳川家からの養子か嫁がやって来た事を意味する。

 

松山城天守閣内の展示されている箱の説明

この長持は両端に付けられている金具に棒を通して、2人で担いで移動される。勿論この長持を嫁入りする人物が直接担ぐ事はない。それと今では物が長い間使われている事を「長持ちする」と言うが、この「長持」がその由縁になっている可能性もある。それだけ大事なものであったのであろう。

 

松山城天守閣内を更に進む

この松山城本壇の建物はほぼ木造ではあるが、室内はさすがにこのように照明が天井に備えられている。また天井が高いのでクーラーなど無くてもそんなに暑く感じないし、ここにクーラーが設置されていたら江戸時代に造られた建造物の雰囲気を壊しているようだっただろう。

 

松山城天守閣内を更に進む1

よく意地悪問題で「この城を建てた人は誰でしょう?!」という答えに、「ブ~~! 加藤嘉明ではなく、大工さんです!」などというひっかけ問題をたまに耳にする。今となっては江戸時代に築城された城を建てた人物は、その時代に藩主として総責任者だった人間の事しか歴史には残されていない。しかし設計から石垣造りから瓦の製造・設置まで、無数の職人達がその工事には絡んでいる。

 

 

松山城天守閣内の展示されている木の部材

そんな職人はよほどの人物でない限りは自分の名前を城には残せなかったけど、代わりにいたずら書きのようにこんな似顔絵を見張り台の床板裏に残していたという。このような見張り台の床板裏に似顔絵を描くというのは、尊敬されていた訳ではなくて恨まられていた事だろう。。

 

松山城天守閣内の展示されている木の部材1

このような装飾品も今であれば大きな3Dプリンターなどで簡単に複製品が造れてしまう時代となっているけど、昔は全部手作りでイチから造っていた訳である。そう思うと人類の化学や技術の発展スピードは驚愕的に感じられるけども、その反面、人類としての能力を失ってもいると言えるだろう。

鯛五郎丸
鯛五郎丸

機械を使えば大量生産できる代わりに、人間の機能が失われていくタイ!

 

松山城天守閣内の展示されている鯱

天守閣でも基本的には厄除けという意味合いで設置されていた鯱でもあるが、外から多くの人達の目に付くものであったので、この松山城大天守などが再建された時には特にこだわっていたという鯱のデザイン。

鯛五郎丸
鯛五郎丸

鯱ではなくて、松山らしく鯛にすれば良かったタイ!(笑)

 

松山城天守閣内の展示されている木組の部材

そしてやっぱり昔の木造建築物の凄さは、宮大工などが全部手作りで金具などは一切使わずに、また多少の地震が起きても簡単には崩れないような構造が柱などにされていた事である。

 

松山城天守閣内の展示されている木組の部材1

こちらのサンプル「鎌継」の形などはよく男性・女性が表されているマークなどにも見える。前回奈良を訪れた時に平城京跡でこのようなサンプルを見たけど、奈良時代から約1000年程が経過してもこのような技術が江戸時代になっても使われていたようだ。

 

松山城天守閣内の展示されている木組の部材2

このような木材は生き物のように水分を吸ったり吐いたりするので、僅かな伸縮をも計算に入れた設計が必要とされる。だからカッチリとこの溝に出っ張りを隙間ないように入れるのではなくて、多少の余裕を持っておく必要がある。そうしないと木材が水分を吸って膨張した時には、木材が割れてしまうのである。

 

松山城天守閣内の展示されている木組の部材3

人間の夫婦にも同じ事が言えるかもしれないが、何事もカッチリとしておくのではなくて、常に多少の余裕を持って相手が大きくなってもそれを受け止めれる余地をあらかじめ用意しておく事が大事なのかもしれない。

オカン
オカン

結婚もしてないクセに、言う事はいっちょ前やな!(怒)

まだまだこれから可能性だけはありますよ!(笑)

 

松山城天守閣内

しかしこの本壇の建物も江戸時代末期の国内での戦乱が殆ど無くなった時代に造られた城だけど、この頃は逆に国内ではなくて盛んに来航してくる海外勢との争いを考慮して、このような石落としや銃眼なども手抜きなく全ての建物に施されていたのかもしれない。

鯛五郎丸
鯛五郎丸

それともこの銃眼や石落としの穴が、窓代わりだったのかもタイね!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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