愛媛/松山旅行記⑬
旅行期間:2020年9月23日~26日
復元された二之丸史跡庭園
こちらは松山城本丸の大天守などがある本壇脇の「紫竹門」で、この本壇入口と西側にある「乾門」の間を防御する為の門。なので先程行った西側にある乾門を突破してもこの「紫竹門」が、次の難関として待ち受けているという訳だ。
この「紫竹門」は1784年の本壇落雷による焼失で姿を消してしまったが、その後大天守などの本壇とともに1854年に再建された当時の物が残っており、今では国の重要文化財としても認定されている門。
「紫竹門」という名前だけあって、このように竹っぽい木が植えられている。なんでもここは乾門側から侵入して敵を撃退する為の場所でもあって、ここに竹を植えて茂みを造ってそこから狙い撃ちする場所でもあったという。
今見られる状態では、スカスカで待ち伏せしてても敵に見破られますね・・・
さて松山城の本壇や本丸を一周してそろそろ夕暮れ時となってきたので、松山城を後にして松山市内にある観覧車へと乗りに行く事にする。この松山市駅横に設置されている観覧車は伊予鉄が運営する観覧車でもあるので、路面電車の一日乗車券を購入しているとその利用日は1回限りだけど無料で乗れるのである。
「黒門口登城道ルート」を下る
この松山城本丸へと下から通じる登城道は全部で4つあり、この「黒門口登城道ルート」は本丸から西側へ行くルートであり、その道の先は「二之丸史跡庭園」へと繋がっている。
この「黒門口登城道ルート」はこのように綺麗に整備されているので、約120m程の高低差がある登城道だけど、そこそこに快適に上り下り出来る道となっているのであまり心配せずに進める。
このように「野生動物注意!」という看板が立っていると普段街中にしか住んでいなくて、このような緑溢れる場所にあまり立ち入らない人間からすると思わず身構えてしまう。こういう場所によく立ち入りする人からしたら当然なんだろうけど、都会人からすると急に警戒感をまとってしまう。。
でも動物側からしたら、人間の存在の方が怖いタイね・・・
一応松山城の本丸は標高120m程の場所にあるので、このようにそれなりに階段が続いている。このような階段を昇り降りしたくない人は、城の東側にある「東雲口登城道」に設置されているロープウェイ/リフトを使えば簡単に移動できる。
ただやっぱり運動不足の現代人からすると、たまにはこのように周囲が林になっている環境で体を動かして汗を掻くと、とても気持ち良く感じる。年をとっても自分の足でちゃんと歩きたい人は、このような坂道や階段などを毎日歩くように心掛けた方がいいかもですね。
この登城道の階段も綺麗な階段になっている場所ばかりではないので、このように足元が不安定な形になっている箇所もあり、油断せずに足元を確認しながら一歩ずつしっかりと踏み下ろして降りた方がいい。
今ではこのように林となって木だらけの「松山城山樹叢」は、こちらの案内板を見ると加藤嘉明が江戸時代初期に築城した時は”はげ山”となっていたという。しかしその時にこの山一面にアカマツを植えて松の山となり、この地域が「松山」と呼ばれるようになったのかもしれない。
そして登城道を降りて行くと、そこには大きな屋敷のような敷地が目に飛び込んでくる。こちらは昔藩主が暮らしていた屋敷などがあったという「二之丸史跡庭園」。ただ一旦は姿を消していた場所で、平成になってから約3年と16億円を掛けて復元された場所でもある。
全国でもよく見るようにお城跡脇にある日本庭園のような感じに見える「二之丸史跡庭園」。ただ日本庭園のような場所も普段はあまり目にしないけども、行ってみると全国どこにでもあるような日本庭園なので、この時は入場料金を払ってまで入りたいとは思っていなかった。
こうやって下まで降りてくると松山城本丸の下部分にも、これだけ大規模な石垣が見える。本丸だけではなくて、その足元から大規模な石垣が造られているのを見ると、かなりの労力を掛けてここに石垣が建造されたという事が分かる。そしてそれだけ力を入れて強固な城を造る必要があったという事も、この石垣を見れば分かるのである。
この「黒門口登城道ルート」も松山城本丸が造られた当時からある道だけど、明治時代になって閉鎖された為に荒廃したと書かれている。このような道も整備する人がいなくなると、雑草がぼうぼうに生えたり、木が好き勝手な方向に生い茂ってしまう。
何気なく通れる道も、その裏では綺麗に管理してくれている人がいるからですね!
しかし昔は日本全国でこのような城が何百~何万という数が造られていた訳で、そう考えるとこの石垣を造っていた石大工などは日本全国に沢山いたのであろう。しかし江戸時代になって一国一城制度となると新たに造られる城が殆ど無くなってしまったので、そういった石大工などの数も大幅に減っていったのであろう。
こちらは松山市内に設置されているデザインマンホール。今までは日本国内をあまり旅行していなかったけど、このように日本全国に飛び出した2020年は全国でこのようなデザインマンホールを各地で発見する事が出来た。
「二之丸史跡庭園」にて
気分的にはこの日本庭園を見学せずにそのまま次の目的地である、松山市駅上に造られている観覧車を目指すつもりであったが、何気なく歩いていると「二之丸史跡庭園」の入口が目の前に見えてきた。
この二之丸史跡庭園は入場料金200円(大人)で、まだ時間的に観覧車に急いでいく必要性もなかったので、入場料の安さに導かれる事にしてみる。
こちらは「二之丸史跡庭園」の入口で、この門を入って左側にある建物で入場料金を支払う。勿論体温測定と連絡先などを紙に記入する必要もあったけど、これらはどこでもやっているので慣れたものである。それとここの受付ではこの庭園で植えている柑橘類が置かれている場合があり、「どうぞ、ご自由にお持ち帰りください!」と酢橘を受け取る。
早速二之丸史跡庭園に入ると、まずはちょっとした資料などが置かれていたので、それらに目を通してみる事にする。すると早速このような”恋人の聖地”と書かれているモニュメントを発見する。こういう”恋人の聖地”というのも若い世代のカップルを無理やり呼び込もうとする意図しか見えないが・・・。
こちらも若い世代のカップルに向けた二之丸史跡庭園:宣伝用のポスターが目に入る。ただここまで”恋人の聖地”と宣伝されると、逆にオッサンは1人で立ち入りしにくい場所となってしまう。
そう思いつつ、敢えて1人で突撃します!
元々は松山藩主が住んでいた二ノ丸の、縮小模型が展示されている。1600年代の後半になって近くに三ノ丸が造られて、その際に藩主は三ノ丸へ移り住み、この二ノ丸は世継ぎなどの子供を世話する場所となったという。
こちらは先程上の松山城本丸で見た「筒井門」と、その奥にあって敵に奇襲を掛ける為の「隠門」の模型。この筒井門を攻めている敵兵に、奥に隠れているという「隠門」から奇襲を掛けるという説明だったけど、そこまで気付かないような門ではなかったので、奇襲性も少なかったようにも思えて仕方ないのであるが。。
昔から日本人にとっては年一回の楽しみであった祭りだけど、個人的には地元で行われていた祭には一回も参加した事がない。だから個人的にはこのような祭りの楽しさや醍醐味がイマイチ理解できない人間となっている。。
この「二之丸史跡庭園」は平成になってから再建されたもので、普段から綺麗に手入れされているので、とても綺麗な場所だった。なおこの二之丸史跡庭園では年間500人前後が、ここで結婚記念の写真などを撮るといい、それもあって”恋人の聖地”ともなっているそうだ。
この「二之丸史跡庭園」敷地内には色んな建物が復元されており、伊予松山藩主:加藤家・蒲生家・久松松平家とそれぞれの藩主宅なども再現されている。ただあくまでも再現されているだけで、昔あった建物がそのまま残っている訳ではないので。。
松山城本丸にはチラホラと人がやって来ていたけど、この二之丸史跡庭園では殆ど観光客の姿を見る事が出来なかった。そういう自分もさっきまでこの二之丸史跡庭園を見ないで、通り過ぎる予定だったし。日本庭園って全国どこでも一応見る事が出来るので、よほど時間にゆとりのある人しか来園しないのかもしれない。
敷地内を歩いていると、昔の日本家屋が見えてくる。こちらの建物は「聚楽亭」というもので、お茶会など用に使える有料レンタルスペースともなっている。
日本全国でも田舎に行けば今でもこのような日本家屋の建造物が見られるけど、都会ではめっきり姿を消してしまって、たまに畳屋さんの前を通ると、その畳の匂いに懐かしさを感じてしまう程である。それとこのような障子も今では見る機会が減っており、子供の頃に破って怒られたのをこれも懐かしく思い出す。
この建物も自由に中に入れるのかと思っていたけど、このように有料レンタルスペースなので事前に予約が必要だという。この二之丸史跡庭園も約16億円という工事費用が投入されて再現された場所なだけに、多少は費用を回収しないといけないのであろう。
ここは日本庭園といえども一般的な日本庭園というよりは、ちょっと”現代的な日本庭園”風な雰囲気の場所。そして敷地内には柑橘系の多種多様な植物が植えられていたりと、ちょっと変わった雰囲気の日本庭園を楽しめる場所となっている。
こんな旅はまた次回に続きます!
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