松山城の天守横にある、「坂の上の雲」撮影ロケ地の櫓【愛媛旅行記⑫】

愛媛/松山旅行記⑫

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

司馬遼太郎の「坂の上の雲」

松山城天守から降りる階段

さて松山城の天守の上に登ってそこから見える松山市内の景色を満喫して、それと江戸時代からの木造建築物を充分に満喫したので、このいかにも頭をブツけてしまいそうな急勾配の階段を降りて、天守閣を後にする。

 

松山城天守から降りる階段を眺める

こちらは松山城大天守(天守閣)の入口から、まずは1階に登る階段。この大天守は1854年に再建されたものが未だに残るもので、約160年間に渡って多くの観光客などを受け止めてきた階段は、さすがに木でも足で踏みしめられている部分がすり減っているのが見て分かる。

 

松山城天守地下の下足場所

ここは大天守の入口であり、石垣内の地下部分に造られている靴脱ぎ場。城内は土足厳禁なのでここで靴を脱いで無料の下駄箱に預けて城内を見学するようになっている。この地下部分は元々は保管庫として使われていた場所だそうだ。

 

松山城大天守から出る門

さてこれで松山城の見学は終了・・・と言いたい所だが、まだ16時前という時間だったのでとりあえずこの本壇(大天守などがある高台)周辺を散策してみる事にする。

 

松山城本壇にある「天神櫓」

こちらの建物は登って来る時にチラッとだけ見えた「天神櫓」という、本壇の北東側を守る為の建物でもあり、また久松松平家の先祖とされている菅原道真(天神)を祀っている場所でもある。なおこの天神櫓は1945年の戦争中に空襲で焼失して、1979年に再建されたもの。

 

 

本壇の周辺を散策する!

松山城本壇を出る

松山城の本壇で入ってきた正面口から出る際に見えているこちらの竹は、この右側の先にある「紫竹門」という門がある為にここに場違いな感じで植えられていたようだ。

 

松山城本壇から見える石垣

こちらは本丸を取り囲むように石垣が周囲に一周して造られているのが見えるが、一般の観光客はこの本丸内にはやって来るけど、石垣しかない本丸の周囲をわざわざ歩く人はあまりいないようだ。

 

松山城の石垣

城の基礎部分でもある石垣は全て人の手作り作品で、場所毎にその石垣は人間と同じようで色んな顔がある。ただお城にある石垣も中には地震や戦争時の空襲や火災などの影響もあって倒壊している物もあり、その細かい説明までは書かれていないけど、このように色の濃淡があったり、石の大きさがマチマチだったり、石垣の間に隙間が見えていたりと色んな顔が見えている。

 

松山城本壇を眺める

石垣というものはとても強固な造りになっているが、でも大きな地震に遭遇するとそんな石垣も崩れる場合がある。この旅行の一ヶ月前に熊本城を訪れた時は、約4年前に発生した大地震の影響で強固なハズの石垣までも無残に崩れさっている場所があった。しかし石垣の崩壊も何も残念な事ばかりではなくて、その石垣を修復する際に昔の人達が石垣をどうやって作ったかのヒントが見つかったりと、壊れた石垣からも勉強できる事もあるようだ。

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」

こちらは天守などがある本丸本壇の東側にある「艮門/艮門東続櫓」という大手門とは別の勝手口だった所。こちらはもし敵が大手門に攻めてきた時に、この門から別動隊が出動して敵を側面から叩く事も想定されていたという。

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」の案内板

この「艮門/艮門東続櫓」は1984年に再建されたもので、残念ながら江戸時代の建造物ではない。しかしパっと見では全然新しいものとは思えないような古い外観に上手く加工されていた。

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」でのロケ写真

そしてこの場所が司馬遼太郎原作で、NHKドラマスペシャルとして2009~2011年に渡って放送された『坂の上の雲』で、ロケ地として使われていた場所だという。こちらのパネルには「秋山好古」役の阿部寛「秋山真之」役の本木雅弘「正岡子規」役の香川照之がそれぞれ大人時代役として松山城をバックにポーズを撮ったシーンが載っている。

 

勿論NHKのドラマに興味の無いボクは、この作品も見ていません・・・orz

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」から見える松山城

この『坂の上の雲』のドラマでも写されたというこの石垣はよ~~く見ると、上の方と下の方で同じ石垣なのに積み方が違うのが分かる。下側の石垣の方が外側が汚れているので、恐らく下側は江戸時代初期に造られたものだろう。そして上側は1784年にこの大天守など本壇の建造物が焼失した際に、一緒に崩壊した部分かもしれない。

 

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」の写真

江戸時代の城跡でもこれだけ本丸周辺の建物が残されている(半分は復元)のも、なかなか珍しい。これら櫓の中へは立ち入り出来なかったけど、恐らく外側には銃眼や石落としの穴などが沢山設けられていたのであろう。

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」の写真1

「艮門」という名前にもなっている『艮(うしとら)』とは、東北という意味だそうだ。本丸まで攻め込むにはこの狭い門よりも大手門から入ってくる可能性が高かったのか、こちらは裏口というか勝手口として使われていたようだ。

 

松山城本壇脇にある「艮門/艮門東続櫓」近くにあった石碑

こちらの脇に鎮座していたのは「伯爵:久松定謨(さだこと)頌徳碑」という石碑で、伊予国松山藩14代藩主で最後の藩主となった「松平定昭」が、明治時代にこの松山城:城濠部分を払い下げられたのを寄付金と共に松山市に寄付した記念に置かれているという。なお松山藩だった松平定昭は明治維新後は松平の姓を名乗るのが禁じられて、この石碑にあるように「久松 定昭」と名前を変えたのである。

 

松山城本壇の石垣や櫓を眺める

戦国時代には日本全国に何万ものお城があり、江戸時代には1国1城制となって約300程の城に減ってしまう。それでも平穏な江戸時代になったにも関わらず、常に敵襲に警戒した造りとなっていたお城。だけど当主達はそんな住むには適さない城に住む事が少なくなり、城は倉庫と化していた所も多かったようだ。

敵が攻め辛い城程、味方も入り辛いという事ですかね・・・

 

松山城本壇の石垣を眺める

江戸時代になって造られた城で築城の名手としても名高かった「加藤嘉明」の時代に築城された松山城だけに、この角の石垣部分はしっかりと隙間がなく造られているのが分かる。こういった石垣は”武者返し””忍び返し”として有名な熊本城などでも見る事が出来るけど、江戸時代になると築城技術があがって全国でもこのような精密な石垣が増えていったのであろう。

 

松山城本壇の石垣や櫓を眺める1

こちらは本壇の西側から見た景色で、左側から「北隅櫓」「十間廊下」「南隅櫓」と連立式天守として建物が繋がっているのが見える。なおこの建物は先程大天守内を見学していた時に、天守の上に登るまでに展示品などが置かれていた廊下で、さっき歩いた場所である。これらの建物も攻めてきた敵を撃退する為に造られたものである。

 

本壇西側を防衛する「乾櫓」と「乾門」

松山城本壇から「乾門」を通る

そして本壇から西側にはこちらの「乾櫓/乾門」が見えている。こちらも天守へと繋がる3つの門の1つだけに、侵入しようとやってくる敵を撃退する場所として造られていた為に、堅固な造りとなっている。

 

松山城本壇から「乾門」を出る

ここ「乾門」は本丸正面の筒井門の横に位置する隠門のような細工はない。しかしこのように登山口から曲がって門に突入しないといけないので、助走を付けて城門にぶち当たるという作戦が採れないようになっている。

 

松山城本壇から「乾門」を出て見える道

松山城へはロープウェイ/リフト以外にも登山道が4箇所造られている。こちらの道は「古町口登城道ルート」という松山城本丸から北西方面を繋ぐ道であるが、この時は途中で土砂崩れの為に通行止めになっていた。

 

 

松山城本壇か松山城「乾門」の表側

こちらは「乾門」を外側から見た景色で、さっき見た狭い「艮門」とは違って幅があるので、太い柱なども使われていて強固な造りとなっているのが見て分かる。ただメインの出入り口では無かったので、大きな扉ではなくて幅半分以下の扉となっていて、なおかつ小さな勝手口まで設けられていた。

 

松山城本壇か松山城「乾門」の案内板

この「乾門」とそれを守る為に造られている「乾櫓」や塀などは1945年の戦争の空襲によって焼失してしまい、1982年に復元されたもの。せっかく現存していた大事な建造物ばかりだったのに、空襲で燃えてしまったのは残念だけど、この本丸全体が焼けずに済んだのが何よりも幸いである。

 

「乾門」から眺める松山城

この松山城内には全部で21個の建造物が「国の重要文化財」に指定されている。この重要文化財に指定されている建物は、江戸時代に建てられて現存するものばかりである。なおこの「国の重要文化財」というのは日本国政府(文部科学大臣)が指定している、歴史上/芸術上価値の高いものだが、所有者は国ではない。

ただし修理や譲渡を行う場合は必ず日本国政府(文部科学大臣)の許可が必要で、基本的には所有者が自己負担で修理を行わないといけない。ただし特別な事情がある場合は、国から補助金が出るシステムだという。

 

松山城「乾門」の登山道を降りる

このように江戸時代の城の、一番重要で強固な造りになっていた本丸部分がしっかりと残存していると、この城を攻めるにはとても苦労しそうだなという事が見て感じれる。本丸に向かう道も坂道になっているので、向かってくる敵が勢いに乗って門を打ち破る事が出来なかったりと、ありとあらゆる箇所に防衛機能が考えられている城。

 

松山城「乾門」の登山道を降りるが通行止め

そしてダメ元で「古町口登城道ルート」を進んでいったけど、案の定このように「通行止め」とアナウンスがあった。さすがにこのようにダメとなっているルートは進む訳には行かずに、乾門まで仕方なしに戻るのであった。。

 

松山城本壇脇を遠回り

そして「乾門」まで戻る途中に本丸の石垣の外側を歩くスペースを見つけたので、本丸内には戻らずに一段低いこの本丸外側を散策する事にした。写真左上に見えている石垣の上に乗っている櫓は「野原櫓」という、本丸の北西側を守備する為の建物で、この建物は加藤嘉明が築城した松山城初期の頃に造られた物が残っているという。そして”日本で唯一現存する望楼型二重櫓”でもあるようだ。

 

松山城裏手の林にあった、ハチ取り器

そして本丸の外側を散策しているとそこは林のようになっていて、このように蜂を撃退する「フマキラー:ハチ激取れ」という商品が設置されているのが見えた。

 

松山城裏手の林にあった、ハチ取り器の中身

この松山城本丸の周辺はそのまま自然の林が残されているので、当然ながら昆虫などは普通に生息している。ただ人間に危害を加える可能性のある蜂だけは、このように駆除して松山城にやって来る観光客から苦情が出ないようにしっかりと対策を行っていた。

 

 

松山城裏手の林にあった、消火装置

そしてこの本丸の外側はそんなに歩いている観光客はいないけど、このように木造建築物の松山城がもし火が付いた場合に備えて近くにホース格納箱が、石垣風にデコレーションして何気なく設置されているのも見える。

 

松山城本壇裏手を進む

しかしこちらの石垣の中ほどに見えているスチールパイプは残念ながら、その無機質な姿を晒していた。ただ排水口のような管だとは思うけど、元々は下水などの排水管などが設置されていなかった城であり、また地中に潜らすとしても石垣の中を掘り進まないといけないのでやむを得ずに設置されたようにも見える。

 

松山城大天守の正面に戻る

そうして一周して松山城本壇の大天守が見える正面門の所まで戻ってきました。この愛媛県松山市に来るまではこんな立派なお城があるとは知らなかっただけに、「松山市内でも一番の見所のある松山城は、是非観光すべき場所である!」と断言出来る程に素晴らしい場所であった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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