高知県旅行記2021年3月-27
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
キレイに捺せるかな?!
さて高知城近くに造られている「高知城歴史博物館」の見学は、もう少しだけ続きます。普段歴史博物館の見学をしている際に、しっかり見ていたハズでも意外と記憶に残らない事が多かったりするけど、後でその際に撮影した写真を見返して復習すると、とても勉強になる事をいつも実感するのである。
高知城歴史博物館の見学!
高知城近くの歴史博物館見学は後半になってきて、土佐藩ゆかりの品々が展示されているブースになっています。こちらは”羅背板(らせいた)”という起毛した毛織物の素材で作られた陣羽織で、甲冑の上に着飾っていたとされる上着である。この陣羽織は、土佐藩5代藩主:山内豊房(とよふさ)が所有していた物と考えられている。
こちらには高級そうな入れ物が置かれているが、徳川家の御紋が入れられているので、将軍家から下賜された品々だったのかもしれない。このような漆塗りの製品は何十もの漆を重ね塗りしているので、手間が掛かって、それなりの値打ち品となっている。
そしてかつては”武士の命”ともなっていた日本刀。ただ江戸時代には全国的に生活が苦しくなっていった為に、元武士の家では使わなくなった具足や刀などを質屋に持って行ったが、質屋に足元を見られて安くしか引き取ってくれなかったという。
戦国時代が終わると利用価値の下がった刀や鎧は、二束三文だったぜよ!
こちらは土佐山内家の藩主やその夫人などを描いた肖像画の控えで、合計32点も現存しているという。しかし、ご覧の通り、着色された肖像画ではなく白黒となっているので、如何にも”控え”という感じの肖像画となっている。
こちらの扁額に彫られている文字の「教授館(こうじゅかん)」は、1760年に土佐藩第8代藩主:山内豊敷が創設した藩校である。江戸時代中頃になってくると全国の藩で教育を施す為に藩校が続々と創立されていき、藩士達の教育に力が入れられていく事になった。
こちらはその藩校:教授館で総宰となっていた、土佐藩第10代藩主:山内豊策(とよかず)の三男で、後に分家として東邸山内家:初代当主となる「山内豊道」が記入していた業務日誌である。全国で教育が施されていく程に多様な学問や文化の質が向上していき、最終的には腐敗していた江戸幕府崩壊の引き金を引く人材を生み出す事に繋がっていく。
こちらは「絵幟(えのぼり) 養老滝図」(複製)で、江戸時代後半にとある商家に贈られた旗である。この時代には子供が初の節句を迎える際に紙製の横旗を飾る事が流行したらしく、こちらは紙ではなく厚手の木綿に描かれた品となっている。
こちらに描かれているのは、「養老の滝」での”親孝行の孝子伝説”となっている。
「養老の滝」の”親孝行の孝子伝説”、この話はある貧しい木こりが養老の滝を訪れた際に、目の前で流れ落ちる滝の水が「日本酒だったら酒好きな父に呑ませてあげたいな!」と思っていたら、足を滑らせて転落して気を失ってしまった。そして気が付くと酒の匂いが周囲に漂っていて、近くの岩からお酒が噴き出していたという。その酒を持ち帰り、老父に呑ませると急に若返ったと言われて、その話を聞いて全国から人がやって来る滝になったという。
温泉は湧き出るけど、酒は自然には湧き出ないぜよ!
個人的には”伝説話”というのは全て眉唾物だと思っているので、あくまでも想像上の逸話という認識である。特に古代の伝説話程に現代科学から遠く離れた考え方が一般的だった為に、現代人からすれば怪しい話にしか思えなくなっている。
この板は「太刀:国時・康光の刀櫃内蓋」という、1815年頃に土佐藩12代藩主:山内豊資(とよすけ)が掛川神社の神宝となっていた”太刀 銘 国時(くにとき)”と”太刀 銘 康光(やすみつ)”を研ぎ直して奉納した際に太刀が収められた箱の内蓋である。
こちらには藩主が使う豪華な装飾が施されている陣羽織も見える。戦が殆ど無くなってしまった江戸時代だけど、こういった昔は戦に使われていた道具が消えていくのではなく、逆に装飾品として豪華な見た目になった造りに進化していったようだ。
こちらは土佐藩第15代藩主で、大政奉還時にも大きく関わったとして有名な山内容堂が所有していたとされる鎧。この鎧は『茶糸 威 二枚胴』という、胴体部分は黒い漆を厚塗りされ、茶糸威が垂れ下がっている。胸の部分には山内家の家紋である”三つ柏”が入っているが、2016年に修理が行われるまでは胴にヒビが入っていた状態だったようだ。
こちらは土佐藩第2代藩主:山内忠義が所有していた、『萌黄糸 威 胴丸具足』という具足。これは小倉藩初代藩主となった細川忠興から贈られた品となっているらしく、”利休七哲”の1人ともされた文化人だけあって、普通の具足ではなくて拘りのある造りになっているようだ。
こちらは豊臣秀吉が気に入って使っていた、高級和紙の「大高檀紙(おおたかだんし)」を近年に復元して、その高級和紙に秀吉時代に発令された”刀狩令”を書いた物となっている。この大高檀紙は秀吉から秀頼に受け継がれ、更には江戸幕府でも継承して使われていた。先程見た領知判物などにも用いられており、将軍家が使う高級和紙となっていた。
楮で漉いた白い和紙で厚みがあり、表面にシボがある大判の高級紙だった「大高檀紙」。”大高”とは、サイズが大きい檀紙を表す言葉のようだ。秀吉~江戸時代の伝統を引き継ぎ、現在も皇室の宮中行事などでも大高檀紙が使われているようだ。
という事で4回に渡って、土佐藩の歴史的な史料などが保管/展示されている「高知城歴史博物館」の見学は、ここで終了となる。この歴史博物館は高知城のすぐ脇に造られている建物なので、この3階部分からは高知城の天守がよく見える場所となっていた。
来場記念のスタンプ!
そしてその3階部分の窓側には、こちらのスタンプ台が設置されていた。普段は城に設置されている「日本100名城スタンプ」などは捺そうと思わないが、ここのスタンプは一工夫された物だったので、トライしてみる事にした。
というのもこの来館記念スタンプは、5色のスタンプを順番に押していく事によって、カラーのスタンプになる。しかも専用のスタンプ台紙が用意されていて、その台紙にスタンプを捺す事によって、記念絵葉書にも使えるという。
スタンプって普段は単色しか使わないけど、多色捺しする事でカラーの絵に仕上げる事が出来る。なおスタンプは日本国民が愛用する「シヤチハタ」のスタンプ台となっていた。シヤチハタはインキ浸透印というハンコを開発し、捺す際に朱肉を必要としない為にその便利さが受けてハンコ業界の最大手企業となった。
(※シャチハタという呼び名が浸透しているが、正式な社名は”ヤ”が大文字)
一般的にはハンコもシャチハタと言うけど、正式な商品名は「Xスタンパー」と言うぜよ!
ただこのような重ね捺しスタンプの場合は、”見当ズレ”(版ズレ)状態で捺すと綺麗にカラーで表現できない為に、このような専用の台紙入れ枠が用意されていた。
まずは1色目の薄緑色を捺す。普通雑誌などカラー印刷はC(シアン/藍)・M(マゼンタ/紅)・Y(イエロー/黄色)・K(ブラック/墨)の4原色を使うが、5色印刷というのもそこそこに珍しいと思う。
次の2色目はその薄緑の上に、チラホラと濃い色が載せられた。ちなみにオフセット印刷業では、このような5色刷りは”特色5色”という印刷に分類される。
前職は印刷業の営業だったので、つい印刷になるとその当時の思い出が・・・
そして3色目を捺すと、1~2枚目に捺した山部分は特に変化がなく、どうも空の部分の青色が捺されたようだ。
そして4色目は、このように黒で天守や手前の追手門などの輪郭部分などの太い箇所が捺された。このように順番に色を重ねる段階では、その完成品のイメージが付かない。ただオフセット印刷と比べて、このスタンプはゴム版なのでそこまで細かい点などは再現しにくい。
しかし5色目を捺すと、4色目と比べてもしっかり絵に仕上がっている。この5色目は追手門の屋根などを見れば分かるように、思った以上に細かい線まで再現されているので、近年のゴム版製作技術などがだいぶ向上している様子を感じた。
そして枠から取り出すと、このように思った以上に綺麗な台紙に仕上がっていた。普通の絵葉書を貰うよりも、このように自分で5回もスタンプを捺して仕上げた台紙だと、記憶にも残って特別な記念品と感じる事だろう。
そして楽しかった高知城と歴史博物館の見学を終えて、これから車に乗って桂浜に向かいます。なお、高知市内では日替わりで道端で市場が営業しており、この日は高知県庁から真っ直ぐ南に下った街路樹が並ぶ道沿いで「木曜市」が見られた。
このような街路市は、江戸時代から続いているぜよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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