高知城見学で、本丸御殿から天守に進んで城の歴史を勉強していく!【高知県旅行記21】

高知県旅行記2021年3月-21

旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)

木造の雰囲気!

高知市内 高知城 懐徳館 入口 進む

ここは高知県の中心部にそびえる「高知城」の、天守脇に隣接して造られている本丸御殿。江戸時代から現存する天守と共に、この本丸御殿も現存するというのは日本国内でも稀である。

 

 

 

高知城の見学!

高知城 追手門 棟上札

こちらには先程城の敷地に入ってくる時に通過した、「追手門」の棟札が展示されている。この棟札には「建替」「享和元(年)」という文字が見えるが、江戸時代初期に高知城が建造された時に合わせて造られた追手門が、享和元年の1801年に新たに改築された時の工事を記念した物のようだ。

 

高知城 天守閣 歴史の紹介

この高知城のある場所は、南北朝時代に何かしらの城が築かれていた場所だと考えられている。そして戦国時代に四国を制覇した長宗我部元親が一時居城にしていた事もあるが、水はけが悪かった為に桂浜近くの浦戸城に拠点を移したという。

 

高知城 天守閣 歴史の紹介1

戦国時代に四国を制覇した「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)も偉大な人物であるが、それ以上に強大な勢力を手中にしつつあった豊臣秀吉が送り込んだ10万を超える軍勢の前に、敗北を認め君従する事になる。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

四国を制覇しても国を制覇する程の勢力には、なり得なかったぜよ!

 

高知城 天守閣 石落とし

そしてボランティアガイドのオバサマの後を付いて進んで行くと、いつの間にか本丸御殿から天守の建物に入ってきていた。その為にこのような「石落とし」の穴が造られていたりと、御殿から防御施設の内観に変わっているのが分かる。

 

 

高知城の天守内にて

高知城 天守閣 内観

そしてこの高知城の天守は江戸時代から現存する天守でもあるので、当然内部は全て木造建築となっている。このような木造建築物には大きな木の柱が何本も並んでいる光景が見られて、かつ木の香りが匂ってきて、江戸時代の雰囲気を思わせる場所となっている。

 

高知城 天守閣 土佐漆喰 説明

この高知県は実は”国内で最も年間降雨量が多い”地域となっている。そしてそんな雨の多い地域では、昔からの水害から得た教訓を活かして、逆に”雨に強い”工夫が建築物やインフラなどに生かされているのだ。なので高知城も雨風に強いという『土佐漆喰』が、天守の壁などに塗り込まれていて、この高知県独自の城となっている。

 

 

高知城 天守閣 土佐漆喰

こちらには普段は見る事の出来ない「高知城:内壁模型」なる、昭和時代に天守を補修工事した際に採取された壁の一部が展示されている。このような歴史ある建造物を造る技術も、建築業界で代々伝授されて継がれていっているのかと思いきや、城の補修工事の際に色んな技術や加工方法が発見される事が多いようだ。

 

高知城 天守閣 鉄砲狭間 説明

そして城が築かれた江戸時代には、すっかり鉄砲が戦で主流の武器となっていた時代なので、敵が攻めてきた際に鉄砲を打ちこむ小窓の「鉄砲狭間」が至る所に造られている。そして写真は撮れなかったけど、石垣の上に建つ櫓などの建物の足元には、「忍び返し」という侵入者を撃退する大きな針のような障害物が設置されている。

 

高知城 天守閣 鉄砲狭間

敵が攻め込んでくる事を想定して造られている鉄砲狭間だけど、結局江戸時代以降は平穏な時代になった為に、主に換気用の空気窓として使われる事が多かったのだろう。特にコロナ禍の現代では、部屋内の空気入れ替えの為に、こういった鉄砲狭間がとても役に立っているのである。

 

高知城 天守閣 築城技術 説明

江戸時代になると関ヶ原の戦いで西軍に加担した長宗我部元親は改易となってしまい、その代わりに静岡から山内一豊が移封されてくる。その山内一豊が藩主となった時代に、この地に再び拠点となる大きな城を築く事になる。なお、高知城の石垣には、採掘した石をそのままの形で積む”野面積み”が多く採用されている。

 

高知城 天守閣 築城風景の模型

戦国時代から多用されている”野面積み”は、見た目には雑な石垣のようにも見えるけど、石をキッチリと整える隙間の無い石垣に比べて、雨が降った際の石垣からの排水には優れている。特に全国的に降水量の多い土佐藩では、石垣の見た目以上にその機能を考えて、野面積みを採用した可能性が高いという。

 

高知城 天守閣 築城風景の模型1

江戸時代の建物にはあまり排水溝などが無かったので、降水量の多い土佐では建物に一工夫が必要だった。排水のし易い野面積みと共に、「石樋」という石垣内の水を排水する設備まで導入されていたという訳だ。

 

高知城 天守閣 築城風景の模型3

現代の観光客側からすれば”無敵の石垣”に思えるかもしれないが、地震や大雨によっても石垣は緩くなって倒壊する可能性がある。特に最近はゲリラ豪雨などの滝のように一気に雨が降る現象が増えてきているので、そういった雨によっても石垣内に溜まった雨水によって石垣が崩れる危険性もある。

 

 

高知城 天守閣 築城風景の模型2

しかし城の石垣が崩れるというニュースは地震による場合が殆どで、大雨が降った際に崩れたというニュースはあまり見た記憶がない。城の石垣は多額の予算を掛けて念入りに造られているので、そういった雨水が排水しやすい構造になっているという。

 

高知城 天守閣 築城風景の模型 木組み

こちらは1955年に高知城天守閣の改修工事を行う際に、その天守閣を囲む足場として造られた「素屋根」の模型。高さ約40mほどの山の上にある天守閣で、補修に数年掛かる為に毎年来襲する台風にも耐えられる足場を設置しなければならなかったので工事担当者の頭を悩ませた。

 

 

高知城 天守閣 築城風景の模型 木組み 説明

しかし、当時の工事担当者らはまず模型で天守閣を作り、そこに模型で色んな足場を作って実験を行った。今でも江戸時代からの姿を残す高知城だけど、過去に度々難度の高い補修工事を行ってきている。その裏では、工事担当者達が苦労して色んな難題に立ち向かって、見事に障害を克服してきた歴史もあるのだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

江戸時代と現代の人々の苦労が融合した城でもあるぜよ!

 

高知城 天守閣 三つ葉柏文軒丸瓦

こちらは山内家の家紋があしらわれた「三つ葉柏文軒丸瓦」。ただこのような瓦1つをとっても、微妙に形が異なっており、その形の違いで製作された時代が違うという。

 

高知城 天守閣 階段

そして江戸時代から現存する天守の醍醐味でもある、このような急傾斜の階段を登っていきます。この高知城では傾斜は昔の階段のままだけど、階段自体は登り易い段差のある階段となっていたので、江戸時代からの階段では無かったのかもしれない。

 

高知城 天守閣 2層目 景色

そして上に登ってくると、部屋の真ん中にショーケースに入れられた大きな高知城とその周辺の模型が見えてきます。このような天守の中には、色んな資料などを展示している城もあったり、逆に素朴な雰囲気を残して資料を展示していない城もたまにあったりで様々である。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル2

この天守まで階段などを登ってくる時にあまり意識していないと分からないけど、このように城の敷地を上から見ると、何回もクネクネと折り曲がって進まないと本丸に辿り着けない構造になっている。この高知城は40mほどの高さの山の上に造られているので、近くからはすぐに天守が見えているけど、実際に天守に辿り着くまでには想像以上に長い道のりを歩かないといけない。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル

現在の高知城では、天守を含む15の建造物が”国の重要文化財”に指定されている。これらはみな江戸時代から現存する物ばかりだが、第二次世界大戦時には高知市内にも連合軍の爆撃機がやってきて、多くの焼夷弾を落としていった。その高知大空襲によって高知市内では多くの犠牲者が出て、街は焼け野原となってしまうが、幸い高知城だけは奇跡的にほぼ無傷で残ったという。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル3

第二次世界大戦途中までは20個ほどの江戸時代から現存する天守が残っていたそうだが、戦争時の空襲でその約半分が焼失してしまっている。戦争は自国の利益を最大化する為に欲張った人間達が行う行為だが、それで犠牲になるのは庶民や歴史的な建造物なのである。

 

高知城 天守閣 2層目 城の模型

この階にはショーケースに入った高知城の模型が2つ展示されていて、こちらの模型は粘土で製作したと思われる、熱意溢れる高知城だった。江戸時代から現存する天守がある高知城だけど、江戸時代には二ノ丸や三の丸にも御殿などの建物が沢山あって、今では想像できない賑わいだった事だろう。

 

高知城 天守閣 2層目 城の模型2

平地にある城と比べても、標高40mほどの山の上にある高知城なので、高知市内からは目立つ建造物となっている。江戸時代には今のマンションぐらい程の高さのある建物すら無かったので、街のハズレからでも城の姿を確認できた事だろう。

 

 

高知城 天守閣 2層目から見える鬼瓦

そして窓の隙間からは、怖い顔をしている鬼瓦が顔を覗かせているのが見える。本来は人間に危害を及ぼす鬼などの怖い存在を、敢えて自分の家や城に設置する事で、それで悪い者がやって来ないようにと”魔除け”として使われる事が多かったようだ。

 

高知城 天守閣 2層目 内観

鉄筋コンクリート造りで昭和時代に再建された天守と違って、江戸時代に造られたままの天守はこのように大きな柱が何本も配置されているので、少々狭くも感じる。しかし昔は鉄筋のように頑丈な素材など無かった為に、太くてしっかりした木の柱が何本も使用されているのだ。

 

高知城 天守閣 2層目 消化用の水

そんな木造の建物だけに、こちらの片隅には消火器と共に、防火用水も設置されていた。昔は消防車などが簡単に来ない時代だったので、各家庭の前にこのような防火用水が設置されていた。今でも地方の村などに行けば置かれている光景を目にする事があるけど、都会ではまず見れなくなっている光景でもある。

 

高知城 天守閣 2層目 城の模型

そしてもう一つの高知城の模型は、このように手間を掛けて造られている物となっていた。こうやって見ると、詰門のあった二ノ丸には沢山の建物が密集していて、これだけ密集していると火事になったら、簡単に他の建物にも火が乗り移ったというのも納得してしまう。

 

高知城 天守閣 2層目 城の模型2

このように石垣が幾重にも積み重ねられており、攻める事を考えるのが嫌になりそうにも思えてしまう。しかし鉄壁にも思える城にも必ず弱点は存在していて、根気があれば攻め落とす事も可能だったのかもしれない。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル

この”江戸時代から現存する天守”という表現も、「江戸時代のいつに建てられたか?」によってその歴史的な価値は大きく変わる。この高知城では江戸時代に入ってから移封されてきた山内一豊時代に建造されたが、1729年に火災によって多くの建物が焼失してしまっている。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル2

現在見られる江戸時代から現存する高知城の建造物は、主にその火災から約20年後に再建された物ばかりとなっている。そしてその再建された建造物類は明治時代を迎えて、本丸などのメイン以外は撤去されてしまう。また高知城は高知県の管理する公園として利用されていく。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル3

そして第二次世界大戦を迎えて、高知市内の街は空襲によって壊滅的なダメージを負ったものの、奇跡的に高知城には大きな被害はなかった。しかし、その翌年に大きな地震が発生して、高知城は大きな被害を被った。その為にそれから数年掛けて”昭和の大修理”が実施されて、今の外観を取り戻した訳である。

 

高知城 天守閣 2層目 説明パネル4

その”昭和の大修理”が行われ、シロアリ被害の大きい部材以外は再利用する事が原則とされた。このように歴史的な建造物は文化財保存の為に、普通の建造物よりも難易度の高い技術が求められる。そのような改修工事で苦労した職人達に感謝しながら、城を見学していく心構えも必要なのであろう。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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