高知県旅行記2021年3月-43:完結編
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
偉大な人物の像!
さて今回も大満喫となった高知県旅も、もう最終日の夕陽が綺麗に沈んでいく時間帯となってきました。予定していた場所は全て訪れており、更には道の駅にお土産を買いにも行ったので、後は満を持して帰りの飛行機に乗る高知空港に向かうのみとなりました。
「高知空港」に到着!
そして2日ぶりに戻ってきた「高知空港」。この空港名は2003年に『高知龍馬空港』という愛称が付けられているが、日本国内の空港の愛称に人名が付けられているのはここ高知空港が初めてで、そして日本でも唯一この空港だけとなっているようだ。
まずは今回の旅で頑張って走ってくれたレンタカーをオリックスレンタカーに無事返却して、今回の旅も事故する事なく空港に辿り着く事が出来た。旅行中に大きな怪我をした事がない人からすれば、無事に空港に到着して当然と思うかもしれないが、”何でもないような事が~幸せだと思おう~♪”と虎舞竜の歌う『ロード』の歌詞にもあるように、今の特に問題の無い状態を幸せに思う事は大事である。
不慮の事故は突然襲ってくるぜよ!
龍馬も誕生日にいきなり切り殺されたからね・・・
今回搭乗する飛行機はこのANAではなく、「FDA(フジドリームエアラインズ)」の飛行機である。ANAは滅多に乗る機会がないけど、個人的にはJALの方が接客対応などに優れているように感じるので、基本的にはJAL一択なのである。
そしてこの高知空港には、1体の有名な土佐が輩出した人物の銅像が設置されているのだ。高知空港に到着した時には全く気付かなかったのだが、空港の建物の入口付近ではなく、建物の脇の方に設置されていて、意外と気付かない観光客も多いと思う。
こちらはGoogleマップで高知空港を上空から見た映像だが、このように建物の角でもちょっと死角になりそうな場所に設置されている。恐らくバスや車で来る人は自然と道沿いにある吉田茂の銅像が見えると思って設置したのだろうが、どうせなら高知空港の正面玄関付近でも良かったようにも思うが。。
この吉田茂の銅像は元々は1984年に、この場所では無くて空港の南東側の海沿いに造られている「高知空港緑の広場」に設置された物だったようだ。
ただこの「高知空港緑の広場」という場所は、高知県にやって来た観光客やビジネスマンはまず来ない場所で、その存在を知っている高知県民しか来ない場所だった。その為に2012年になってから、もっと人目に付くようにという配慮でここに移設されたという。
この銅像となっている「吉田茂」(1878年~1967年没)は説明するまでもなく、日本が敗戦してGHQ統治下にあった日本で5期に渡って内閣総理大臣を務めた人物である。特にこのGHQ統治下の時代は、連合国としてアメリカ以外にもイギリスやフランスなどが日本の領地分割を狙っており、下手すれば日本国が4つ以上に分割されてしまっていてもおかしくはなかったという。
吉田茂の父親は土佐藩で板垣退助と共に自由民権運動を推進していた人物「竹内綱」の五男として、1878年に東京で生まれた。そして3歳頃に横浜の貿易商の家に養子に出されて、この銅像が設置されている土佐の地と小さい頃には縁が意外となかったようだ。
横浜の貿易商を営む義理の父となる「吉田健三」は江戸時代末期にイギリスへ密航した経験を活かして、明治時代に入ると実業家に転身し、武器や生糸など色んな物の貿易を行い、横浜有数の富豪となった人物でもある。そんな実業家の吉田健三は板垣退助が設立した自由民権派の自由党を支援していた影響で、竹内綱と出会って彼の息子を養子に迎えたという。
吉田茂が11歳の時に養父が無くなり、当時は莫大な遺産だった50万円が相続されたぜよ!
そして現在の東京大学法学部を卒業した吉田茂は、外交官の仕事に就く事になる。外交官として中国で約20年ほど過ごした後にイタリア勤務となり、1936年の『二・二六事件』直後に駐イギリス大使となる。しかし、東アジア地方に進出を狙う強硬な日本国の方針に反対して和平案を探ったが、日本は太平洋戦争へと突入していく。
そして太平洋戦争で日本軍は敗北し、QHKの統治下となる。戦後の内閣総理大臣に就任したのは陸軍大将で皇族だった「東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)」で、その内閣で吉田茂は”外務大臣”として初入閣を果たす。しかし、その「東久邇宮内閣」は”在職日数がたった54日間”という歴史的な短命内閣で、次の「幣原(しではら)内閣」でも吉田茂は引き続き外務大臣となる。
そしてその翌年1946年に日本自由党の総裁に選出されて、自身初めての内閣総理大臣に就任する事になる。その後1951年には連合国側と『サンフランシスコ平和条約』を締結し、戦争で負けて立場の弱い日本でありながらも、欧米に屈する事なく交渉を続け、日本国の全土を勝ち取った立役者とも言える人物である。
ただ吉田茂首相が1人で日本国を勝ち取った訳ではなく、『サンフランシスコ講和会議』の出席者で当時のセイロン(現在のスリランカ)の大蔵大臣だったジャヤワルダナ氏が”憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む”と発言して、日本への戦時賠償を放棄するスピーチをしたのは有名な話である。
また後にスリランカ2代目大統領となったジャヤワルダナ氏は、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」と遺言に残した。そして1996年に亡くなると、その遺言通り左目の角膜は日本に送られて、日本人女性に移植されたという。
色んな外国人に助けられて、今の日本国があるぜよ!
今何気なく国内旅行をしている日本という国も、ボクが生まれる前の時代に色んな人達が築いてきた苦労と努力の上に成り立っているのである。目の前にはそんな苦労の跡が殆ど見えない時代となっているけど、このように過去の偉人たちの銅像に出会って、その歴史を興味持って調べてみると大きな気付きに出会えるのだ。
そして楽しみにしていた吉田茂の銅像を見終わってから、満を持して空港内に進んで行く。この高知空港は小さい空港でそこまで利用者の数も多くなく、またコロナ禍の時代でもあったので、このようにガラガラ状態であった。
ガラガラだったのであっという間に飛行機のチェックインを済ませて、2階フロアに登っていく。すると空港名に「龍馬」と付けられているだけあって、カラーが塗られた龍馬像を発見する。ただ坂本龍馬のポーズというと、この有名な写真のポーズばかりで、そろそろちょっと違うポーズの龍馬像が見たいのであるが。。
空港には国内線出発の約1時間前に到着しているので、早速荷物検査を受けて中に入ってしまうと、待ち時間を持て余してしまうので、そんなに広くはない空港だったけど、もう少し散策してみる事にする。
展望デッキにて
そして空港に来た時のお約束でもある「展望デッキ」に到着する。空港の展望デッキでは飛行機好きの甥っ子ちゃん向けにいつも写真や動画を撮って送っていたのであるが、最近は空港の写真などを送っても反応が見られなくなってきているので、個人的にはブログに載せるために撮っているという認識になりつつある。
高校生になって思春期も迎えて、難しい年頃やからな・・・
そしてこの高知県は、『アンパンマン』の生みの親でもある「やなせたかし」の出身地でもあるので、このように展望デッキの壁にはアンパンパンに登場するキャラクターの絵が描かれているのが見える。ただ屋外にペイントされている絵なので、直射日光が当たって絵が退色してしまっていて、色褪せているのがちょっと残念だった。
人口減少が止まらない高知県では、その少なくなる人口と共に税収も減りつつあって、このような空港の利用者もそこまで増えないので、色褪せた看板のペンキ塗り直しなども頻繁に行えないのだろう。。
そして西の空から山の隙間に向けて、沈んでいくように見える夕陽が別れを告げている。毎日変わらず地球上を明るく照らしてくれている太陽という存在が無ければ、この地球という惑星に多くの生命体が存在できなくなる。なので、地球上の生き物にとって一番大事な存在なのは、この「太陽」なのである。
そしてこの展望デッキでも、「土佐の双眼鏡クン」を見つけた。この双眼鏡クンはなかなかに使い込まれたような顔をしていて、さっきの色褪せたアンパンマンの絵じゃないけど、これはこれで逆に味が出て、良い雰囲気に思えたのだが。
土佐は色んな偉人を多く輩出しているが、その中でも突出して知名度の高い坂本龍馬。空港名にわざわざ人名を入れる程かとも思ってしまうけど、とにかく龍馬頼みで観光客を何とか増やしたい高知県の想いが表れていたのかもしれない。
そして展望デッキを後にして、2階フロアのお土産販売しているコーナーを少し見学する。そしてそのフロアには、このように『よさこい祭り』で使われる「鳴子」のデカいオブジェが展示されていた。
【よさこい祭り】(高知県高知市)
よさこい祭りは、阿波踊りに対抗して1954年に開催された高知の祭ぜよ!
そして最後のお土産も購入して保安検査場を通って、待合室に移動してくる。下のチェックインカウンターでは全然人を見かけなかったけど、このようにチラホラと飛行機に搭乗予定の人が見られた。
こちらは『高校三年生の山田まん』という、高知県香美市の「高知県立山田高校:商業科」の生徒(第55期生)が企画開発をして、高知市内の「青柳」という菓子メーカーで作ったまんじゅうとなっている。
意外とヒットした、人気商品ぜよ!
そして今回の高知旅は空港からレンタカーを借りてのドライブばかりだったので、日中にアルコール類を飲めなかった事もあり、最後の空港の待合室でこちらの「四万十川」という名前の純米吟醸酒を味わう事にした。
江戸時代から日本酒を作っている「菊水酒造」が製造した純米吟醸酒で、見た目には爽やかな四万十川の水を飲んでいるようにも思える日本酒だった。
いや、思いっ切り日本酒やで!!
そしてその日本酒のアテとして購入したのが、こちらの「塩けんぴ」である。
こちらの商品は宮崎県産のサツマ芋を、芋けんぴのように細くカットして食油で揚げてから一旦乾燥させる。それから、高知県室戸海洋深層水から作られた塩と砂糖を混ぜた蜜を塗った、土佐名物のお菓子である。
土佐名物の塩けんぴをアテに四万十川の清流っぽい日本酒を飲んでウダウダしていると、あっという間に飛行機内への搭乗時刻となる。楽しかった土佐の地も、飛行機に乗り込んだ瞬間に別れを告げる事となる。
そして格安航空会社の部類に入る「FDA(フジドリームエアラインズ)」の機内は、結構に快適である。またJALとも業務提携をしているだけあって、CAさんの対応もなかなか良いように感じた。
そうしてあっという間に大阪に到着して帰宅する。今回の高知県旅の印象を表現するには、こちらのポテトチップスのパッケージを見れば、全てを代弁してくれているかのように感じた旅であった。。
お疲れ様やった。
<まとめ>
初めての高知県に旅立ち、かつて”土佐”と呼ばれた地でまず出迎えてくれたのが、土佐だけではなく、日本国内の歴史的なヒーローともなっている「坂本龍馬」だった。高知県に来ると坂本龍馬は別格扱いのスターとなっていて、至る所で龍馬が見受けられた高知県。
激動の幕末時代にここ土佐藩で精力的に活躍していたのは坂本龍馬だけではなく、『板垣死すとも自由は死せず』の名言でも知られる「板垣退助」なども輩出している。ただこの板垣退助の名言は岐阜遊説中に暴漢に襲われた際に発した言葉とされているが、その事件では一命を取り留めており、その場では死なずに天寿を全うして亡くなっている。
若く志半ばで亡くなった人間の方がストーリー性があって、小説などで取り上げられやすいぜよ!
板垣退助もその暴漢に襲われた際に、もし亡くなってしまっていたら、その歴史的な扱いが違って、もっと崇められる存在になっていたのかもしれない。
去年2022年7月に奈良遊説中の安倍晋三:元首相が、銃殺されるというショッキングな出来事が起きた。日本の政治界で歴史的な長期政権を務めた安倍晋三:元首相の死に対し、事件直後はマスコミ各社が安倍晋三の人柄や功績を取り上げて、非常に素晴らしい人物だったと報道した。
吉田茂元総理以来の、国葬まで行われる事になったぜよ!
しかし事件の容疑者の身元が明るみに出るに従って、安倍晋三氏と統一教会の関係性にメスが入れられた。安倍元総理の事を手を挙げて”優れた功績を残した人物”と褒め称えていたマスコミ各社は一転して、カルト宗教と裏で手を組み、自分達の票欲しさの為に利用していた事実を追求し出した。
今のマスコミには、熱い志が欠けとるぜよ!
そして土佐藩の居城だった高知城は、”江戸時代から現存する12天守”の1つともなっている歴史的な建造物だ。太平洋戦争時には高知市内に連合軍が爆撃空襲を行ったにも関わらず、高知城本丸は奇跡的にほぼ無傷だった。
そして高知城では天守の建物だけではなく、本丸内に造られていた「本丸御殿」の建物までが現存しているのである。これは”江戸時代から現存する12天守”の中でも、ここ高知城のみとなっている。
高知城は国内に誇れる城ぜよ!
こちらは高知城天守内で、江戸時代から現存する天守なので、このように木造建築の内装となっている。こういった木造の城に入ると、木材の香りが漂ってきて、素晴らしい気分になれる場所でもある。
個人的には江戸時代から現存する天守内の、急傾斜の階段が好きなポイントでもある。ただ高知城内の階段は江戸時代のような登りにくい階段ではなく、後で付け替えられたような階段だったが。。
土佐の地を見晴らす高台に造られた高知城。国内で最も年間降雨量が多い高知県らしく、湿気や排水処理なども考慮した建築技術が導入されており、その技術はここ土佐だけではなく、他の全国の城にも導入されていった。
その土佐藩の初代藩主は、こちらの「山内一豊」である。元々は尾張の織田家に仕える家に生まれ、その後に織田信長・豊臣秀吉と天下人に付いていき、最終的には徳川家康を選ぶ決断が大成功となり、ここ土佐国を与えられる事になった。
そして山内一豊というと、2006年にNHK大河ドラマで放送された『功名が辻(こうみょうがつじ)』で、全国的な知名度を得る事になる。
しかしその『功名が辻』では、仲間由紀恵演じる、山内一豊の妻だった「千代」が実質的な主役となっていた。この千代が夫の欲しがっていた馬を嫁入り持参金で購入して喜ばせたなどの逸話から、昭和前半には”良妻賢母の見本”として学校で教えられる程に有名な人物ともなっていた。
そして土佐藩の藩主で有名なのは15代藩主だった「山内容堂」で、討幕派になれなかったものの、最終的には江戸幕府が朝廷に権力を返還する”大政奉還”を建白した人物としても歴史に名を刻んでいる。
無類のアル中で、勝海舟に無理やり酒を呑ませたエピソードもあるぜよ!
この高知県は四国の南西側に位置しているが、東西の領域はかなり長く、南側が太平洋に面している為に、昔から漁業が盛んな地域でもある。
そして戦国時代まで色んな支配者が治めてきた土佐と、後の四国を統一する事になった「長宗我部元親」。四国では敵なしの快進撃を進めて制覇したが、全国との差は大きく、当時勢力を急拡大していた稀代の天下人:豊臣秀吉の前には、なすすべもなかった。そして関ヶ原合戦では豊臣側の西軍に付き、敗北して後に政権を握った徳川家康に改易されてしまう事になる。
そんな土佐の人々が愛してやまないのが、”最後の清流”とも称される事が多い「四万十川」である。ただし、高知県内で最も水質が綺麗な川ではなかったのが、意外であったが。。
その四万十川流域では、こちらの「沈下橋」という、水害が起きた際にも流されにくい構造となっている橋が多々建造されている。この橋の形状はまさに四万十川流域に住む人々の知恵の結晶だが、人口減少が続く高知県内では取壊しの可能性も出ていた。しかし、あるデザイナーなどがこの沈下橋の価値を見出し、今では観光名所の1つとしてPRされている。
『何でもないような橋が、観光名所に変わ~る~♪』ぜよ!
そしてその四万十川流域を車で走っている時にカーナビの指示通りに走っていたら、”酷道”として知られる「国道439号線」に差し掛かってしまう。この国道439号線は四国を縦断するように、徳島県徳島市~高知県四万十市まで延びている国道だが、途中の山道では舗装されておらずに、また道幅が狭くて対向車を交わすのが難儀な道としても知られていたのであった。
ここは高知市内の繫華街エリアの一画にあった「はりまや橋」。江戸時代に繁盛した城下町の多くでは、荷物などを運搬する水路が至る所に掘られていたが、後に工業化が発展してくると陸上輸送が一般的になって、このような堀は全国的に埋められてしまう事になった。なお、この「はりまや橋」が架かっている場所も、かつて堀跡だった場所である。
そして土佐の地の有名な食べ物というと、目の前に広がる大海原:太平洋から獲れる海の幸である。その中でも「鰹(カツオ)」が代名詞となっており、昔から「カツオのタタキ」や「鰹節」が土佐の代名詞となっている。
そして土佐の地では、江戸時代から出店が多くて、高知市内ではこのような餃子を販売する屋台が大人気であった。手軽に飲みながら食べれる餃子はサラリーマンにも人気なようで、2軒目などのハシゴなどにも使われる店で、行列が出来る場所となっていた。
こちらは高知県の景観地として、昔から有名な「桂浜」である。ちなみに「桂浜」という名前は、この辺りが「勝浦」と呼ばれていた名残から来ている説があるが、こういった地名の由来を調べるだけでも意外と楽しいのである。
この桂浜はこのように太平洋に面しており、人類には考えられない程の長期間に渡って、太平洋から打ち寄せる波を受け続けている浜でもある。
こちらはそんな桂浜で出会った、一匹の猫ちゃん。
出会った瞬間にいきなり膝の上に飛び乗ってきて、居心地良さそうにしていた。そして膝の上が居心地がいいのか、全く膝から降りる様子も見られなかったが。。
この子、猫チャンからだけは人気あるみたいです!(笑)
このように初対面の人間に対して躊躇なく寄ってくる猫ちゃんは、元々人間に飼われていた可能性が高い。そしてこのような場所に居るという事は、飼われていた人間に捨てられた可能性も高い。しかしある情報によると、この猫ちゃんはこの後に引き取り手が出てきて、貰われていったという。
猫の運命も人間に大きく左右されるぜよ!
そして桂浜というと、その綺麗な景観だけではなく、こちらの「坂本龍馬の銅像」も有名である。旅行案内のパンフレットなどでも必ずと言っていい程に見かける銅像だが、実際に訪れてみると、このようにとても高い台座の上にあって、龍馬の顔がとても小さく見えた。
この銅像は戦前に設置された物で、太平洋戦争時に金属回収令が全国に出回って多くの銅像などが運ばれていったが、全国的に尊敬されている坂本龍馬の像という事もあって、撤去される事もなく今も目の前に立ち続けている。
龍馬が生きた幕末の時代は、江戸幕府の長期政権が故の腐敗によって弱体化し、またそれ以外の人々の知恵や思想が教育によって向上していた為に、坂を転がるボールのように時代が動いていく事になる。その中でも特に大きな影響を与えたのが、1853年の”黒船来航”だろう。この出来事により江戸幕府はそれまでの鎖国政策を撤回し、それによって全国の藩が欧米の軍艦や武器を買えるようになっていった。
その頃、国内ではそんな諸外国勢を武力で追い払う”攘夷派”と、江戸幕府が朝廷と手を組んで理想の国家を目指す”公武合体派”に分かれていた。そんな勢力争いで当時老中首座に就いた井伊直弼が反対派を弾圧した『安政の大獄』を行い、それが逆に反対派に火を点ける事になり、その後に『桜田門外の変』で浪人達に暗殺されてしまう事件に発展した。
このように江戸時代末期になると、それまで徳川幕府が怖くて手が出せなかった人々が反旗を翻し、武力行使によって戦い始めた時代でもあった。そんな時代に坂本龍馬は生まれ、江戸遊学を通じて、多くの賢人との出会いが龍馬の志を大きく変えていくのであった。
江戸を見てきた龍馬にとって、土佐藩という縛りのある場所に耐え切れずに脱藩を行うしか選択肢はなかった。そして運命の出会いである「勝海舟」と出会い、将来的に江戸幕府が治める日本を変えるという大きな目標を持つようになる。
そして薩摩藩の庇護もあって海外との取引をする商社的な会社を運営し、薩長同盟の締結にも大きく関わり、幕末の勢力分布図を大きく塗り替えていった。その活躍もあり、自分が考えていた”大政奉還”を果たす日を迎えて大きく喜んだ事だろうが、奇しくもその直後に迎えた自分の誕生日が命日となってしまうのであった。
こちらは高知県南国市に2021年3月にオープンしたばかりだった「海洋堂スペースファクトリーなんこく」。地方で少子高齢化社会が進む南国市で、このような近代的な建物でしかも真新しかったので、威圧感を放っているようにも感じた建物であった。
ここに立ち寄ったのは、海洋堂のフィギュアを所有していて興味があったからだ。ただ、大阪人なのにこの海洋堂の創業地が「大阪府門真市」という事を全然知らなかったのだ。
知らない事から始まって、知っていくぜよ!
この施設は1階に海洋堂の制作現場が設置されていて、しかもその過程を窓ガラス越しに見学できるようになっていた。海洋堂としては創業者が高知県出身で、近年は国内で造形の技術者が減り続けている事などに危機感を持っていたので、ここ南国市の地域振興と人材育成を兼ねて、この施設を造ったという。
この海洋堂という会社はフィギュア界に革命を起こし、昔の突っ立った姿の人形から、このような躍動感溢れる”アクション・フィギュア”を生み出した。それと同時にこのようなフィギュアは子供向けという認識だった物を、大人も楽しめるフィギュアに変えた事で、大きく売り上げを伸ばす事に繋がった。
それと共に色んな版権を入手して、様々な種類のキャラクターのフィギュアやソフビ人形を手掛けていく。その中でも漫画やアニメで根強い人気があった『北斗の拳』や『新世紀エヴァンゲリオン』のフィギュアが大ヒットして、海洋堂の名前は世界に轟くようになっていく。
そしてこういった造形物を製作する際に重要な要素が『創造力』で、その創造力は”遊び”の中で生み出される事が多い。日本の社会では「仕事中に遊ぶ」という事を非常に悪い事だと捉えがちだが、そのせいで創造力に欠ける社会となっている。
海洋堂の”創造力”は今まで誰も考えなかったようなアイデアをドンドン生み出し、更に市場に送り続ける事によって、更に磨かれていった。このような大便器でキバるライオンの人形なんて、数十年前にはまず商品化される事もなかった事だろう。このような商品が見れるという事は、それだけ海洋堂の創造力が磨かれていった証でもある。
それと高知県というと、泣く子も黙る人気アニメ『アンパンマン』の作者である「やなせたかし」が幼少時代に育った場所である。1つのアニメで登場するキャラクターの数がギネス記録に登録される程に多数生み出した「やなせたかし」も、その創造力が大きく溢れていた人物だった事だろう。
似ているキャラもあって、そのキャラはギネス記録から排除されたぜよ!
こちらの柚子飲料は『ごっくん馬路村』で、柚子が沢山採れる集落だったが、柚子の外観が悪かった為に売れずに困っていたのを逆手にとって、柚子の果汁を使った商品展開をして成功したのである。
馬路村の成功も、”創造力”の賜物ぜよ!
四国の中でも最南端にある足摺岬近くには、江戸時代末期に太平洋を漂流して、最終的にアメリカ本土に渡った「ジョン万次郎」の資料館が造られている。
土佐の中浜で生まれた万次郎は、家が貧しかった為に小さい頃から労働に駆り出された。そして本人の希望で漁師の手伝いをする事になり、漁船に乗り込む仕事をし出した。そんな漁師の手伝いをしていたある日、嵐が船を襲って難破し、太平洋を流されて遠く離れた無人島の鳥島に漂着する事になる。その無人島で万次郎一行の命を救ったのが、こちらの「アホウドリ」であった。
アホウドリから、名誉棄損で訴えられそうな名前ぜよ!
そしてそんな無人島で約半年生き延びた万次郎一行を救ったのが、こちらのアメリカの捕鯨船であった「ジョンハラウンド号」だった。この時代はアメリカで捕鯨ブームが起きており、アメリカ本土から多くの捕鯨船が太平洋を行き交っていたのだ。
そして救い出された万次郎一行は補給基地となっていたホノルルに連れていかれ、その中でも船長の眼に適った万次郎はアメリカ本土に単身渡る事になる。その当時はアメリカ大陸にはほぼ日本人はいなかったと考えられているが、そんな見た事もないような環境の中で生き抜き、更にはその後に勃発したゴールドラッシュにも参加して、日本に帰る資金を稼いだのである。
こちらの像はその資料館近くに設置されていた物で、万次郎一行が遠くに見える船を見つけて突っ走っていく姿となっている。無人島で当初はアホウドリを食料として生き延びる事に成功したが、食べ物と同じく貴重な水の確保に苦労したという。島には湧き水があまりなく、たまに降る雨水を確保して飲み水としていた。更に水が無くなった際には自分の小便を吞まざるを得なくなり、体に水分が少ない時に尿を捻り出す事の苦しさを後年に語っていたという。
この漂流した時の万次郎は14歳頃で、この一行5人の中で最も若かった。しかし若いながらもキラリと光る才能があり、その才能を見出した捕鯨船の船長がアメリカ本土まで連れて行って教育を施した。アメリカで色んな事を勉強した万次郎は、救助された捕鯨船で仕事を手伝っていた時の手腕を見込まれて、再び太平洋を巡る捕鯨船に乗り込んで行く。
そして捕鯨を手伝ったり、アメリカのゴールドラッシュに参加してお金を稼ぎ、ホノルルに住んでいた仲間たちと合流して、日本に帰国する事を決意する。そして助け出された万次郎一行5人のうち、万次郎を含む3人で見事日本に帰国を果たした。しかし、鎖国していた日本で待ち受けていたのは、約1年半という長期間に渡る取り調べであった。
だが当時の国内は海外情勢についての情報が以前より多く入ってきている状態で、単身アメリカに渡って数年暮らした万次郎に対して、彼が見てきたアメリカの様子を知りたい薩摩藩主の島津斉彬などが興味を持って、直接面会もしている。
そして万次郎が土佐国に戻った翌年に黒船が来航し、日本国内が慌ただしくなる。そして土佐藩に登用され、更には江戸幕府にも登用されて、英語を喋れて、アメリカ文化を充分知り尽くした貴重な人材として重宝される事になった万次郎。既に全国的に有名過ぎる坂本龍馬よりも、個人的には日本人が殆どいなかった時代にアメリカで1人生き抜いた万次郎の人生の方が興味深く思えた。
そしてその万次郎が帰国した後に土佐藩で取り調べを受けた際に、土佐藩の絵師でもあった河田小龍が住み込みで万次郎の話を聞きとって、その体験記をまとめた『漂巽紀略』を後年に出版した。この河田小龍は後に坂本龍馬と出会った際に、万次郎から聞かされた海外情勢の話をして、これからは海外との貿易に力を入れるべきだと伝えたという。
このように龍馬の存在だけがクローズアップされがちな土佐だけど、それ以外にも龍馬の人生を構築するにあたって貢献した人物は多数存在していたのである。全国的な知名度が高過ぎる龍馬を活用するのもいいけど、ジョン万次郎などもっと陽の目が当たるべき人物のアピールもして欲しいなと思った。
それと高知県に来る人は龍馬だけを勉強して帰るのではなく、それ以外の土佐が生み出した偉人や歴史などをしっかりと見出して、”土佐らしさ”を今までの人生で培った”創造力”を活かして存分に味わって欲しいと思った、高知旅だった。
是非、土佐に来るぜよ!
2022.10.23
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