高知城歴史博物館で学ぶ②:土佐地方らしい城と江戸時代の資料群【高知県旅行記25】

高知県旅行記2021年3月-25

旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)

雨対策完備の城!

高知城歴史博物館 館内 ブース

高知県というと「坂本龍馬」が頭に浮かぶけど、”土佐”と呼ばれていた高知県では江戸時代に土佐山内家が都合16代に渡って治めていた土地でもある。

 

【高知県立:高知城歴史博物館】

住所:高知県高知市追手筋2-7-5
営業時間:9時~18時頃(※日曜のみ8時~、年末休み)
電話番号:088-871-1600
入館料:大人500円/18歳以下無料

 

 

 

高知城歴史博物館の見学!

高知城歴史博物館 山内一豊の肖像画 アップ

そんな江戸時代には、その藩の藩祖となっていた人間が神様の如く崇められていた。日本人が好きな”元祖”という言葉にも表れている通り、最初に藩を立藩した初代は場所によっては神格化されて、神社に祀られている所もあったりする。

 

なお、こちらの肖像画は土佐藩初代藩主だった「山内 一豊(やまうち かずとよ)。『功名が辻』という2006年にNHKで放送された大河ドラマの主人公ともなった人物で、現代となっては若い時に山内一豊に馬を贈った奥さんの逸話も有名になっている。

 

高知城歴史博物館 土佐山内家の説明

山内一豊を藩祖とする土佐藩は、16代に渡って明治時代を迎えるまで土佐山内家で守り通された。歴代藩主の名前を見ると、3代目から山内一豊の「豊」が必ず入れられているのが分かる。江戸時代には神格化された藩祖や、江戸幕府に君従の姿勢を見せる為に当時の将軍の名前一文字を貰って付けられる事が多かった。

 

高知城歴史博物館 土佐山内家の家系図

こちらには大きな紙があって、その一面に細かい文字が書かれているのが見える。こちらは系図」と呼ばれる、土佐山内家で山内一豊の祖父:山内久豊から、第13代土佐藩主「山内豊熈(とよてる)までの家系図である。

 

高知城歴史博物館 土佐山内家の家系図 アップ

このように長く続いて繁栄した家系では、家系図がとても大きくなる。ただ江戸時代には現代とは違って成人するまでの死亡率が高かった為に、この家系図の中には早世した人も多く含まれている。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

現代人はこの時代に生まれただけでも幸せぜよ!

 

高知城歴史博物館 土佐山内家の家系 藩主

山内一豊の祖父:山内久豊は、尾張地方を支配した守護代の「岩倉織田氏」に仕えていた。なお、織田家というと織田信長の家系を思い浮かべてしまうけど、織田家といっても「清洲織田氏」と「岩倉織田氏」が尾張を支配していて、織田信長が輩出された「織田弾正忠家」は、その清洲織田氏に仕える”清洲三奉行家”の1つである。

 

高知城歴史博物館 土佐山内家の家系 藩主2

山内一豊が生まれた後に父親が仕えていた岩倉織田氏が織田信長に滅ぼされてしまい、山内家は離散する事になる。そんな中、山内一豊は転々と世渡りしていき、織田軍勢の木下藤吉郎の配下に辿り着く。そして1570年に起こった織田/徳川連合軍 VS 浅井/朝倉連合軍が戦った「姉川の戦い」が初陣だとされている。

 

高知城歴史博物館 土佐山内家の家系 藩主1

そして出世していき、遠江国掛川に約5万石を与えられて小大名となる。そして豊臣家が崩壊間近となった際には、次の覇者を狙う徳川家康と親密になり、江戸時代を迎えると土佐約25万石を与えられる大名となった。ちなみに幕末に大政奉還を建白した第15代土佐藩主:山内容堂は”土佐藩最後の藩主”と勘違いされやすいが、実際には井伊直弼による”安政の大獄”で隠居を強制させられた為に、次の第16代土佐藩主「山内 豊範(とよのり)が最後の藩主である。

 

 

高知城歴史博物館 土佐の城の説明

日本全国にはかつて沢山の城があちこちに建造されていた。今では昔の城も城跡となって、当時の姿を残している所は殆ど見られない。この高知城は全国的にも珍しい”江戸時代から現存する天守”となっている城だが、一見どこの城も同じように見えるけど、実際にはその地方毎に気候などに適応するよう小さな違いがあった。

 

高知城歴史博物館 土佐の城の説明3

特にこの高知県は、全国的にも年間降雨量が一番多い地域となっている。「雨が多いって言ったって、堅固な造りになっている城は問題ないでしょ?!」と思うかもしれないけど、実際には雨が多い地方らしく、排水機能や雨がかかっても耐久性のある”土佐漆喰”などが用いられる工夫がされていた。

 

 

高知城歴史博物館 土佐の城の説明1

雨が多いと城を支える石垣の内側に、沁み込んだ雨水が石垣の中に溜まってくる。城に用いられた石垣は、その内側は大きな石が入っているのではなく、逆に大きな石はなくて代わりに細かい砂利などが入れられている。そしてその砂利などが入っている部分を通じて雨水が通過していき、石垣の外に排出される仕組みになっていた。

 

高知城歴史博物館 土佐の城の説明2

”城は単なる観光名所”と思っているだけであまり城の造り自体に注視しない観光客からすれば同じに見えるけど、このように細かい箇所毎に色んな工夫が籠められている。華やかな部分に目が行きガチになるけど、このように足元部分の工夫などに目を向けると、城見学がより楽しめる事になる。

 

高知城歴史博物館 高知城の模型

この高知城の天守は”望楼型”で、天守という建物が出てきた時代の初期頃に多く見られた形状となっている。この”望楼型”は下に1~2階の建物を造り、その上に物見台を兼ねた上層階を載せた形となっている。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

もう1つの”層塔型”は、下から規則正しく造られている形ぜよ!

 

 

高知城歴史博物館 土佐の城の説明4

そして城が造られた場所に多かったのは、その地方の町にとって物資運搬の重要な役割をしていた大きな川や港など、経済的に中心地だった場所。その中心部が見下ろせる高台に城が造られる事が多く、また城の守りを固める為にも小高い山の上に築かれる事が多かった。

オカン
オカン

山城は登るのシンドイから、現代人の事を考えて下に城造ってて欲しかったわ!

 

高知城歴史博物館 高知城の模型2

このような天守という建物は、それまで遠くを見渡せる物見台を豪華にした織田信長が生み出したという説がある。元々城には豪華な装飾などを施す建物ではなく、攻め込まれた際に命を守る為の建物だったので、それ以前は装飾など二の次であった。しかし”天下の革命児”として世に出た織田信長は、そんな無機質な城も豪華な建物に変身させたのである。

 

高知城歴史博物館 徳川家斉 領知判物

こちらは江戸幕府第11代将軍の徳川家斉の時代に、新将軍となった徳川家斉から送られてきた「領知判物(りょうちはんもつ)の書状となっている。この「領知判物」とは2代目将軍となった徳川秀忠の時代から行われ、新たに就任した将軍が全国の藩の石高を確認して、その領地を安堵させる意味合いで送りつけていた書類のようだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

藩の免許証みたいなもんぜよ!

 

高知城歴史博物館 幕藩体制 説明パネル

江戸幕府は1万石以上を治める者を「大名」とし、1万石以下で将軍にお目見え出来る「旗本」「御家人」という身分に分類した。小さい旗本と御家人は約17,000も存在していたのに対し、大名は約300ほどしか無かった。そして更に古代の国単位の所領を持つ”国持大名”は20ほどしか無かった。

 

 

高知城歴史博物館 幕藩体制 説明パネル2

そういった大名などの区分には、更に徳川家一門から成る「親藩」、徳川家に昔から使える家臣の「譜代(ふだい)、そして関ヶ原の戦い以降に君従した「外様(とざま)と大きく3つに分類された。なお、江戸幕府で執政を行っていた老中は、代々徳川家に仕える2万5000石以上の譜代大名から選ばれていた。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

山内一豊は”外様大名”にあたるぜよ!

 

高知城歴史博物館 領知目録

こちらの書状は先程見た「領知判物」と共に発給された「領知目録」という、土佐藩内の群毎の石高と村数が記載された物。実際に将軍が替わる度に検地を実施していた訳ではなく、あくまでもそれまでの数字をそのまま記載する、建前的な恒例行事だったようだが。

 

高知城歴史博物館 武家諸法度 説明

「武家諸法度(ぶけしょはっと)という言葉は日本人として国内で育った人間はまず聞いた事のある言葉だが、その内容を説明できる日本人は割と少ないのではなかろうか。この武家諸法度は江戸幕府がその支配体制を盤石にする為に、全国の大名を鎖で縛って、反乱を起きさせないようにする目的があった法令である。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

これにより、何でも幕府に届け出が必要となったぜよ!

 

高知城歴史博物館 参勤交代 説明

その武家諸法度の中でも有名な「参勤交代」システムだけは知名度が高いけど、自分の城から江戸に上っていく事だと思いガチだ。しかし、江戸時代には基本的に藩主は自国の城ではなく、江戸城周辺の藩屋敷に住んでいたので、参勤交代というと江戸に向かう事よりも”国に帰る”というイメージの方が強かったようだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

跡取りも基本は江戸藩邸で生まれ育ってたぜよ!

 

高知城歴史博物館 山内豊房 書状

こちらは土佐藩5代藩主の「山内豊房(とよふさ)が、1700年頃に参勤交代で初めて土佐の地に足を踏み入れた際に、その時の感動を記した書状となっている。この山内豊房は本家ではなく第2代藩主:山内忠義の弟から出た分家「新橋山内家」の出身で、第4代藩主:山内豊昌に跡取りが居なかった為に本家に養子として迎えられて土佐藩主に就任した。

 

高知城歴史博物館 武家諸法度

こちらは武家諸法度の内容を記した書物で、基本的に将軍が口頭で読み上げるだけでその内容が記載された書類の配布が無かった為に、諸大名はこのように聞いた内容を記した控えを作成していたようだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

昔はコピー機も無かったから、書き写すのも全部手作業ぜよ!

 

高知城歴史博物館 武鑑 外観

こちらの古書は「武鑑(ぶかん)」という、江戸時代に発行されていた大名・旗本・幕府役人などの詳細が記されている名鑑となっている。ボクの小さい頃には好きだった日本プロ野球界の名鑑を閲覧するのが楽しかったけど、それの江戸時代Verというべき書物である。

 

高知城歴史博物館 武鑑 中身

こちらのページは土佐藩主の土佐山内家を紹介しており、家紋以外にも纏や持ち槍の模様なども図示されているのが興味深い。ちなみにこの武鑑は幕府側ではなく民間が発行する書物だったが、その購買層は参勤交代の行列が目の前を通る事の多かった地域の役人や庶民達だったそうだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

当時の参勤交代マニアの愛読書ぜよ!

 

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐藩人口

なお、5代藩主に山内豊房が就任した1700年頃の土佐藩には、約40万人が暮らしていたそうだ。こちらの円グラフを見ると判り易いが、その人口の中でも農民が圧倒的に多くて約70%を占めていた。また土佐では海に面していた事もあって、漁師も約11%となっていたようだ。

 

高知城歴史博物館 藩の仕組み 説明パネル

そして江戸幕府と全国の大名との区分が決められており、更に大名毎にその組織内で譜代と外様的なグループで分けられていた。そして問題を起こさない限りは基本的に家老などの大役は世襲制となっており、その影響もあって江戸時代は保守的な時代となっていたようだ。

 

高知城歴史博物館 高知城周辺の説明パネル

このように城の造りだけみてもたっぷり楽しめるけど、江戸時代の様子を色々と勉強するだけで、更に楽しくなってくる。今まで江戸時代の暮らしや制度などについて全く興味を持っていなかっただけに、今その反動が大いに跳ね返ってきて、こういった歴史博物館見学が楽しくて仕方ないのである・・・・。

オカン
オカン

私もう疲れたので、ベンチに座ってるわ・・・

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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