高知城歴史博物館で学ぶ①:土佐を描いた何種類も残る古地図【高知県旅行記24】

高知県旅行記2021年3月-24

旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)

地図の推移!

高知県立高知城歴史博物館 建物

ここは高知県の中心部にある高知城のすぐ脇にある、2017年に造られて比較的新しい「高知城歴史博物館」。やっぱりお城の見学した後に近くの歴史博物館に立ち寄って、その城の過ごしてきた歴史を頭に叩きむ事がとても重要に感じる。

 

【高知県立:高知城歴史博物館】

住所:高知県高知市追手筋2-7-5
営業時間:9時~18時頃(※日曜のみ8時~、年末休み)
電話番号:088-871-1600
入館料:大人500円/18歳以下無料

 

 

 

高知城歴史博物館の見学にて

高知城歴史博物館 館内 展示スペース

ただ一口に「歴史博物館」といっても、その場所毎に展示されている内容などの特色は異なる。勿論その地域で時代を形成して安定した政権を長く築いてきた大名がいた場所だと多くの史料が残されているが、逆に長期政権が続かずに何度も大名が入れ替わり立ち替わりしていた場所は、あまり史料が残っていなかったりするからだ。

 

高知城歴史博物館 昔に描かれた古地図のスペース

さて早速、綺麗な高知城歴史博物館の中を見学していきます。まずは鎌倉時代から明治時代にかけて描かれてきた、この土佐の古地図が展示されているブースが見えてくる。このような古地図を見ていくと、まるで地形が大きく変わったような印象も受けるが、それは地図を描く技術や精度が向上したからである。

 

高知城歴史博物館 鎌倉時代に描かれた土佐の古地図

こちらは”鎌倉時代の日本地図”で、国内では「行基式日本地図」とも呼ばれる。名前からは奈良時代の僧侶「行基(ぎょうき)が作ったのかと思いやすいけど、実際に行基が製作したという地図は残されていないので、真偽は不明なようだ。

 

ただ当時の都だった平城京辺りの大和国を中心にして、そこから広がるように描かれているのが特徴のようだ。江戸時代に精密な日本地図を作成した伊能忠敬なども、こういった地図を参考にしていた可能性が高い。そういう意味では、日本国内のルーツ的存在でもある「行基式日本地図」

 

高知城歴史博物館 戦国時代にポルトガル人が描かれた土佐の古地図2

次にこの地図は日本列島だけではなく、隣のカムチャッカ半島や中国大陸の一部も描かれている地図となっている。これは戦国時代にアジア周辺に勢力を拡げていたポルトガル人が、製作した日本地図となっている。日本内に住む日本人とは違って、国内だけではなく、その周辺国まで見ていた視線が感じられる地図ともなっている。

 

高知城歴史博物館 戦国時代にポルトガル人が描かれた土佐の古地図

そんなポルトガル人から戦国時代に見られていた日本は、北海道(蝦夷地)や沖縄(琉球国)は同じ国だとみなされていなかった事が興味深くも思える。そして当時は希少だった銀などが採れる鉱山の在り処も示されており、ちょっと分かりにくいけど、当時は世界最大級であった石見銀山も記されている。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

当時日本にやって来る外国は、日本の貴金属が目当てだったぜよ!

 

高知城歴史博物館 戦国時代にポルトガル人が描かれた土佐の古地図3

そんなポルトガル人の地図の中で、小さく「TONSA」と記されているのが今の四国。四国は島としてはかなり大きめの島になるが、この地図ではそこまで存在感を感じない。対外的に見ていたポルトガル人からしても、あまり征服する魅力が無かったからこのような描かれ方をしていたのかもしれない。

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐の古地図

そしてクロワッサンのような形にも見える、こちらの土佐地図は江戸時代前半に描かれた物とされている。これは紀州徳川家の私設図書館である「南葵文庫(なんきぶんこ)に保管されていた土佐国図。

 

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐の古地図 アップ

江戸時代に入ると、このようにある程度詳細な地図が描かれるようになっていく。このような地図は江戸幕府が各地域を掌握する為に、各藩に描かせていた物もあった。江戸時代には基本的に江戸で政治が行われていた為に、将軍が今みたいに日本各地を遊説する事も出来なかった為に、このような地図を見て想像するしか方法はなかったのだろう。

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐の古地図 土佐国絵図

こちらは徳川幕府の第3代将軍:徳川家光が派遣した諸国巡見使(しょこくじゅんけんし)が、土佐を訪れて仕上げた地図となっている。江戸時代には”参勤交代”という全国の外様大名を2年に1回江戸に来させる行事があったが、幕府側から役人を行かせての実地調査の意味合いが高かった諸国巡見使。

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐の古地図 土佐国絵図2

例えば1国1城令に違反していないかとか、謀反の企てをしていないかなどの調査も含まれていた地図。こちらには、かつて城だった場所も城跡として記されており、単なる地図というよりも、江戸幕府側からの実地調査内容がメインに記された地図だったようだ。

 

高知城歴史博物館 土佐を治めてきた大名

こちらは土佐を支配してきた大名の肖像画が展示されている。一番右の人物は「一条 房家(いちじょう ふさいえ)で、関白だった父親:一条教房の次男として土佐一条氏の当主となる。土佐一条家は応仁の乱によって土佐に落ち延びてきた家系で、長宗我部元親の父である「長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)を保護して、長宗我部の復興にも協力した。

 

高知城歴史博物館 土佐の年表 戦国時代

しかし当時は下剋上が当然の戦国時代だったので、長宗我部氏の復興に手を貸してくれた土佐一条家に対して、国親の跡を継いだ「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は最終的にその一条家を土佐から追い出して四国を統一する事になる。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

自分を裏切ったよりも「自分の屍を超えてゆけ!」的な考えの時代ぜよ!

 

高知城歴史博物館 土佐の年表 江戸時代

しかし長宗我部氏の時代も長くは続かず、激戦区の関西地方を制した織田信長や豊臣秀吉が大きく領土を拡げてきた為に、四国もその大きな波に飲み込まれてしまう。そして江戸時代になると、今度は徳川幕府によって改易とされてしまい、長宗我部氏の歴史はあっという間に終焉を迎えてしまうのであった。

 

高知城歴史博物館 幕末の活躍した土佐藩の人物

江戸時代に土佐が輩出した有名人だと、坂本龍馬板垣退助などの幕末時代に活躍した人物が有名になり過ぎているけど、幕末に権力を持っていた土佐藩15代藩主の山内容堂(幕末時は隠居状態)や、土佐藩を尊王攘夷派に転換させるべく活動した武市半平太など、多くの人物が居た。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

やっぱ万次郎殿も欠かせないぜよ!

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐古地図 土佐全国の図

こちらは江戸時代の元禄(1688~1704年)に描かれた、「土佐全国ノ図」。土佐を黒い線で区分けされているが、これは”郡”を分ける為の表示で、更にそれぞれに背景色に違う色が使われていて、簡単に見分けれるような工夫が入れられている。

 

 

高知城歴史博物館 江戸時代の土佐古地図 土佐国絵図

こちらの地図は1820年頃と江戸時代後期に描かれた土佐の地図で、上の元禄に描かれた地図を参考にして、更に距離なども分かるように記載された地図。

オカン
オカン

どう見てもクロワッサンにしか見えない!🥐

 

高知城歴史博物館 江戸時代(天保)の土佐古地図

こちらはそれぞれの藩から集められた地図や情報を基に、江戸幕府が天保9年(1838年)に作成したという「天保国絵図」。この時代の地図になってくると、川の流れる流域などが細かく記されるようになっており、昔の城跡を表示した地図と比べると詳細さが目立つ。

 

高知城歴史博物館 明治時代の土佐古地図

そしてこちらは「大日本管轄分地図」という、明治21年に発令された市制町村制が施行された後に、明治41年になって製作された高知県内の地図となっている。だいぶ現代に近づいた地図となっているので、細かく市町村の名前が羅列されているのが見える。

 

高知城歴史博物館 館内 ブース

さて、そんな土佐の古地図ブースはここで終了となり、これから山内一豊が治めた土佐藩にゆかりのある品々がおさめられているブースとなる。土佐藩は江戸時代に山内家が16代で守り続けた藩なので、需要な資料などがちゃんと保管されている。

 

高知城歴史博物館 長宗我部地検帳

こちらの古そうな古書は「長宗我部地検帳」という、1587年頃から1598年までかけて土佐の領地を検地した結果が記されている本である。12年かけて土佐7郡を調査した結果で、それぞれの土地の面積や用地区分などが、調査時に立会いした役人の署名入りで羅列されている。

 

なおこの「長宗我部地検帳」は、後に土佐に移封されてきた山内家にとっても治める土地の詳細が示された重要な書類だったので、受け継がれて大事に保存されていった。ちなみに現存する長宗我部地検帳は、全部で368冊に上るという。

 

高知城歴史博物館 土佐物語2

こちらは「土佐物語」という、長宗我部氏の興亡を語り継ぐ軍記物である。軍記物というと、有名処だと『平家物語』や『太平記』などがあるが、四国を制覇したといっても直ぐに滅ぼされたマイナーな武将でもあったので、全国的にはそこまで知られていない物語。

 

高知城歴史博物館 土佐物語 

この「土佐物語」には原本が現存しておらず、現存する物は6種類の写本となっている。長宗我部氏の歴史を記した歴史書でありながら、ちょっと話を盛った部分もあったりで、庶民に長く愛される本となるにはある程度の”フィクション”も盛り込む必要があったのかもしれない。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

真面目に歴史だけ刻まれた本は、学者以外読まないぜよ!

 

高知城歴史博物館 戸次川古戦場図

こちらは1586年に秀吉軍が九州討伐の際に戦った島津家との間で勃発した、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」(大分県)が行われた戦場を描いた『戸次川古戦場図』である。現在の大分県周辺を治めていた大友家は、勢力を増す島津家に脅かされる事が多くなり、織田信長やその跡を継いだ豊臣秀吉に君従の姿勢を取り、援軍を求めた。

 

高知城歴史博物館 戸次川古戦場図 説明

そして時は経ち、九州討伐が視野に入った豊臣秀吉は大友宗麟の懇願を受けて、讃岐地方を任せていた仙石家と、土佐の長宗我部家などを九州に送り込んだ。そして戸次川沿いの手前に陣を張った秀吉勢は、島津家からの奇襲を受けて先陣を務めていた仙石家の部隊が敗走してしまった為に、長宗我部家の部隊が二分されて最終的に敗退してしまう。

 

その際に長宗我部家では、参戦していた当主の長宗我部元親とその後継者候補だった息子の長宗我部信親(のぶちか)が離散してしまう。当主の元親は何とか逃げ帰る事に成功したが、島津家の大軍と対峙した息子の信親は700人とも言われる配下と共に戸次川周辺で討死してしまう。

この息子だった信親は、大いに将来性を期待される程の人望と優れた素質を見せていた人物だっただけに、生き延びた元親もこの知らせを聞いてショックを受けて、後の生活態度が一変したとも言われているようだ。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

期待している人間の死は、自分の死よりも悲しいぜよ・・・

 

高知城歴史博物館 徳川家康から山内一豊に送られた書状1

こちらの書状は徳川家康が豊臣”五大老”の1人であった時に、大坂から東海道を通って江戸に帰国する際に、途中に立ち寄っった掛川城の城主だった山内一豊から馳走を受けた時の謝礼を記した書状となっている。

 

高知城歴史博物館 徳川家康から山内一豊に送られた書状2

山内一豊は織田家と豊臣家に仕えたが、秀吉が亡くなると懇意にしていた徳川家康側に付いて、江戸時代には土佐を与えられた。この豊臣”五大老”の時代には、誰が秀吉の跡を継ぐのかという将来を見据えた視野で動く必要があり、後に家康に加担した山内一豊は見事な選択をした訳である。

 

高知城歴史博物館 徳川家康から山内一豊に送られた書状 説明2

関ヶ原の戦いで西軍に加担した武将らは”豊臣家への恩義”を大義にして参加したが、それは今までの”過去”を見ている人達の軍勢だった。それに対し、未来の覇権を狙う東軍は”未来”を見た人間が集まったので、先を見ていた集団が勝利を収めたのかもしれない。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

常に先を見据えた思考をするぜよ!

 

高知城歴史博物館 山内一豊の肖像画

そしてこちらは土佐藩初代藩主となった、「山内一豊」の肖像画である。豊臣家の滅亡を予測して豊臣家から徳川家に鞍替えした大名は、とても先見の明があったと思う。関ヶ原の戦いでは、西軍か東軍かの二択であったが、それをギャンブルと捉えた人ではなく、先を見据えた人物が生き残ったのである。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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