太平洋で漂流したジョン万次郎は、流れ着いた鳥島でアホウドリに命を助けられる【高知県旅行記4】

高知県旅行記2021年3月-4

旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)

アホウドリの意味!

高知県 足摺岬 ジョン万次郎記念館 建物

高知県の最南端の足摺岬入口に造られている「ジョン万次郎資料館」の中を、これから見学してきます。江戸時代後半に太平洋に流されて漂流した後、アメリカの捕鯨船に助けられてアメリカ本土まで上陸し、西海岸のゴールドラッシュにも参加してタフな人生を送ったジョン万次郎をこれから勉強していきます!

 

【ジョン万次郎資料館】

住所:高知県土佐清水市養老303
営業時間:8時30分~17時頃
電話番号:0880-82-3155
入館料:大人:440円/小中学生:220円

 

 

 

「ジョン万次郎資料館」の見学!

高知県 足摺岬 ジョン万次郎資料館 説明パネル

ジョン万次郎は1827年に貧しい漁師の家に生まれ、10歳頃から稼ぎに出掛けていたという。そしてそんなジョン万次郎の人生を大きく変える出来事が、彼が14歳の時に出掛けた漁で起こったのである。

 

高知県 足摺岬 ジョン万次郎資料館 内観

四国の中でも端っこの方に造られていた資料館だったので、もっと古臭い展示をしている物と思っていた。しかし館内に入ってみると、2018年にリニューアルされた事もあって、比較的新しく綺麗な展示スペースとなっていた。

 

高知県 足摺岬 ジョン万次郎資料館 説明パネル メッセージ

ジョン万次郎が14歳の時に、他の乗組員4人と漁に出た船で漂流してしまう。そして無人島に辿り着き、約5ヵ月間を過ごした時に異国船に救出される事になる。恐らくこのような漂流した経験がない人にはあまり実感できない事かもしれないが、”生き残る事”に執念を燃やさなければ生き残れない過酷な状態だった事だろう。

 

ジョン万次郎資料館 説明パネル 漂流ルート

足摺岬付近で吹き付けた強風によって難破してしまった船は、最初は室戸岬が見える程の近くまで流される。その際に「室戸岬から助けに来てくれる!」と淡い救いのシーンを思い浮かべていたかもしれないが、実際には無常にも助けなど来なかった。そして黒潮の海流に巻き込まれて、太平洋の大海原に漂流していった。

 

ジョン万次郎資料館 漂流ルート 鳥島

そして漂流した約6日経った頃に見えてきたのは、この「鳥島(とりしま)という面積が約4.8k㎡の無人島だった。この鳥島は断崖絶壁に囲まれた島で上陸しやすい海岸が無くて、約6日間も漂流して体力が無くなっていた人間達が上陸するのは困難が伴う島でもあった。

 

 

この「鳥島」は伊豆諸島の島となっていて、今は東京都に属している。また島全土が”国の天然記念物(天然保護区域)”に指定されている事もあって、上陸する場合には東京都の許可を事前に得る必要がある島となっている。

ただ昔は漁に出掛けた船が難破して漂流する事が多くて、この鳥島に流れ着いてから脱出に成功した人は10人以上居たそうだ。このジョン万次郎一同が上陸した前には、この鳥島で約12年間も過ごして脱出した日本人も居たという。

 

ジョン万次郎資料館 アホウドリ 剝製

そして湧き水が見当たらない鳥島は、この「アホウドリ(阿呆鳥)」の生息地としても有名な島でもある。目ぼしい食糧が手に入らない鳥島で漂着してきた人間が生き延びれたのは、このアホウドリが大量に生息していたからでもある。この「アホウドリ(阿呆鳥)」というちょっと不名誉な名前が付けられている理由は、アホウドリの習性から付けられているそうだ。

 

ジョン万次郎資料館 アホウドリ 説明

というのもアホウドリは、近くで仲間が捕らえられても全然逃げようとしなくて、簡単に捕まえる事が出来たからだという。その為に鳥島に漂着した人間は簡単にアホウドリを捕獲し、その肉を食べて命を繋げたのである。

 

ちなみにアホウドリは明治時代になると、その羽毛などが狙われて日本人によって大量に捕獲され殺されて、大幅に個体数を減らされてしまう。ちなみに鳥島には明治時代以降にアホウドリを目当てに多くの出稼ぎ労働者がやってきて、アホウドリを捕獲していった。しかし1902年8月に鳥島の活火山が噴火して、島にやって来ていた出稼ぎ労働者100人以上の全員が死亡してしまい、大正時代を最後に再び無人島となってしまった。

 

 

ジョン万次郎資料館 鳥島救出 ホイットフィールド船長

ジョン万次郎一行はアホウドリを捕獲し、余った肉は燻製にして食糧は手に入れたものの、湧き水の無い鳥島で飲料水の確保に苦労したそうだ。島にあった洞窟内を住居として、その穴に滴り落ちてくる雨水を桶に集めて、その大事な水を少しづつ分けて飲んだという。

ただ雨がいつ降るか分からないので飲み水を切らさないように、飲み水に対して厳格なルールを決めて、少量ずつしか摂取できないようにした。また喉が渇いた際にはすぐに水を飲まずに、近くの草を噛んでその草から出る僅かな水分で喉を潤したという。

そして飲み水が切れそうな時には、自分達が排出する小便を集めて、生き残る為に小便も飲んでいたという。ただ水分不足が極限状態に達すると、そんな小便すらまともに出なくなるそうで、「小便が出なくなる頃が、一番シンドかった・・」と後に語っていたという。

 

ジョン万次郎資料館 鳥島救出 ホイットフィールド船長 説明

そして太平洋の大海原にポツンと浮かぶ島で約5ヵ月間を過ごしていたある日、遠くの水面に小さな点が見えてきた。そしてその小さな点はどんどんと近づいてきて、それが異国船である事に気付く。それを見つけたジョン万次郎一行は、高台から身振り手振りで合図して、助けを請うのであった。

 

ジョン万次郎資料館 鳥島救出 ホイットフィールド船長 説明2

その異国船はアメリカの捕鯨船「ジョン・ホーランド(John Howland)号」で、その船長であったウィリアム H. ホイットフィールドは鳥島に居た漂流民を助け出す為に、小舟を差し向けた。そしてジョン万次郎一行は全員救助されて、手厚く船上で持て成される事になる。

 

ジョン万次郎資料館 鳥島救出 ホイットフィールド船長 説明 ホノルル寄港

しかし当時はまだ鎖国していた日本では、漂流民を載せた異国船でも受け入れされなかったので、ホイットフィールド船長は彼らを連れて補給基地となっていたホノルルに寄港する。その道中にジョン万次郎一行は捕鯨を手伝うようになり、一行の中でも一番幼かった万次郎がいち早く順応し、また物覚えも早かった為にホイットフィールド船長は万次郎をアメリカ本土に連れて帰って教育を施したいと申し出た。

 

ジョン万次郎資料館 鳥島救出 ホイットフィールド船長 部屋再現

そして万次郎もホイットフィールド船長の言う通りにアメリカ本土で教育を受けたかったので、その申し出を承諾した。しかし、一行の他のメンバーは万次郎が幼かった事もあって、離散する事に大きく反対をした。だが万次郎は他のメンバーの反対を押し切って、船長とアメリカ本土に向かう事になる。

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 部屋再現 日誌

こちらはホイットフィールド船長の書いた「ジョン・ハウランド号の航海日誌」のレプリカだけど、このような日誌がちゃんと残されている所にアメリカの凄さを感じる。有名な航海日誌では、黒船来航でも有名なペリー提督の『日本遠征記』もあるけど、日々書く日記の重要性を再認識する。

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 部屋再現 説明

捕鯨船ジョン・ハウランド号はわざわざ漂流民を探しにやって来た訳ではなく、太平洋の大海原に捕鯨をしにきたついでに、物資の補給が出来る島を見つけて”たまたま”やって来ただけであった。しかし当時はこのような大海原に点在する島に漂流する人間もチラホラ居たようで、船長の頭の中では「漂流民が居る可能性」も少なからず計算していたのかもしれない。

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 ジョン・ハウランド号模型

こちらがその捕鯨船「ジョン・ハウランド号」を再現した模型。1830年にアメリカで建造された船で、全長約34mの大きさだったようだ。ジョン万次郎が鳥島から救出されたのは1841年となっているので、船が完成してから約10年後の出来事だった。

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 ジョン・ハウランド号模型 説明

それ以降も修理を重ねて航海に使われたジョン・ハウランド号は、1883年に最後はアラスカ付近の海で炎上して沈没したという。ただこの江戸時代末期には蒸気船のイメージがあるけど、このジョン・ハウランド号は3本マストが付いた木造帆船であった。

 

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 ジョン・ハウランド号模型2

ただその当時の蒸気船と言っても、航海時に常に蒸気機関を動かしていると燃料である石炭がすぐに底を付いてしまうので、風がある航海時には帆を張って進み、港に寄港する際に蒸気機関を動かして運航していたという。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

石炭を船に運び込むのも、結構な重労働ぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 クジラに立ち向かうイメージ図

そしてホイットフィールド船長と共に再びジョン・ハウランド号に乗り込んだ万次郎は、アメリカ本土に向かう道中の捕鯨活動に積極的に参加し、物覚えの早い才能を活かして頭角を現していく。万次郎は一行の中で一番年下であった事もあり、頭が柔軟だったので異国船の中でも素早く対応できたのかもしれない。

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 アメリカ寄港

そして当時存在した捕鯨船の大半が集まっていた一大拠点が、アメリカの東海岸だった。当時の西洋諸国では産業革命以降に燃やしても煙の出にくく、低温環境でも凍りにくい「鯨油(げいゆ)が高値で取引された為に、鯨目当ての一攫千金を夢見た男たちが東海岸に群がっていた。

 

ジョン万次郎資料館 ホイットフィールド船長 アメリカ寄港 説明

そして約3年ぶりの捕鯨活動を終えてニューベッドフォード港に戻ってきたジョン・ハウランド号は、大量の鯨油樽とジョン万次郎を携えていた。ジョン万次郎はこの時で既に1年半ほど航海を共にしており、航海術や捕鯨活動の技術をそれなりにマスターしており、また乗組員から「ジョン・マン!」と呼ばれた事もあって、後に「ジョン万次郎」と呼ばれる事に繋がる。

 

ちなみに日本で”名無しの権兵衛”という意味の英語は、「ジョン・ドウ(John Doe)と一般的に呼ばれている。「ジョン」という名前は英語圏ではありふれた名前なので、身元が不明な人間は「ジョン・ドウ」と呼ばれる。またアメリカの刑事ドラマを見ていると、身元不明の男性死体が見つかると「ジョン・ドウ」として識別されているシーンも見かける。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

なるほど、それで”ジョン”万次郎となったんねゃ!

 

ジョン万次郎資料館 アメリカの捕鯨説明

捕鯨というと体の大きな鯨と対峙するので、アメリカ文学を代表する長編小説『白鯨』の場面を思い浮かべてしまう。捕鯨船は鯨を見つけると、その大きな船で追いかけるのではなく、船に積み込んでいる数隻の小さな舟に銛を持った猟人が乗り込んで鯨に銛を打ち込む。

ただ鯨はその小さな舟に比べると遥かな巨体なので、体当たりされると舟が木っ端微塵にされる。それ程の命を懸けた鯨漁であったが、逆にそれだけにスリルがあった危険な仕事は特に崇拝されており、一番危険ではありながらも一番勇敢である銛打ちになる事が当時の憧れの職業だったようだ。

 

ジョン万次郎資料館 記念写真撮影スポット

そしてこのジョン万次郎資料館内のスペースには、その鯨漁の際に銛打ちシーンを再現した記念撮影スポットがわざわざ用意されていた。

 

ジョン万次郎資料館 記念写真撮影スポット2

捕鯨はアメリカだけではなく、日本でも古来より行われてきた伝統的な漁である。しかしアメリカは主に「鯨油」のみを目的にした捕鯨で、一度航海に出掛けると大量の鯨を仕留めて獲得した鯨油以外は全て海に捨てていた。それに対して日本人の鯨漁は1頭捕まえたら、”7浦が栄える”とまで言われていた程に、鯨の全てを持て余す事なく活用していた。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

鯨肉とか食べんとは、メリケン人は勿体ない事するぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 記念写真撮影スポット 説明

こちらの樽の上には、この撮影スポットでの”上手な写真の撮影の仕方”の説明があった。そこには「銛を投げないでください!」との注意書きがあったけど、銛という道具は投げる為の道具なので、思わず投げてしまう人が後を絶たないのかもしれない。

 

ジョン万次郎資料館 記念写真撮影スポット3

このような撮影スポットでも裏に注意書きがしっかり記載されている光景は、何とも日本らしい光景のようにも思える。日本人は自分達日本人の事を”常識がある民族”だと思い込んでいるけど、このような注意書きの内容を見ている分には、日本人はこういった内容も守れない常識が無い民族に思えてしまうのだが。。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

今の日本人も、だいぶ堕ちたもんぜよ・・・

 

ジョン万次郎資料館 アメリカの捕鯨説明コーナー

この頃のアメリカ合衆国というと、西海岸カリフォルニア側で金鉱を掘っての”ゴールドラッシュ”をイメージするけど、それ以前の時代は東海岸で捕鯨の”ゴールドラッシュ”が起きていた。しかし、そんな鯨油が重宝された時代も次第に石油が採掘されてくると、安価な石油が流通していき、あっという間に捕鯨業界は廃れてしまうのである。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

時代の移り変わりは、本当に激しいもんぜよ!

 

ジョン万次郎資料館 アメリカの捕鯨説明コーナー1

こちらはその当時の捕鯨船で使われていた、銛や槍のようなランスやスペードと呼ばれた道具を復元した物。鯨を発見すると小舟に数名が乗り組み、鯨に近づいてまずは返しの付いた刺したら抜けにくい銛で鯨を突き刺す。そしてその銛にはロープが結ばれていて、銛が刺さった鯨は舟を引きずる形になって抵抗するが、次第に体力が失われて弱ってくるのを待つ。

 

ジョン万次郎資料館 アメリカの捕鯨説明コーナー2

そして鯨が弱ってくると、槍のような「ランス」と呼ばれた左記が尖った刃物で、鯨の心臓などを目掛けて何回も突き刺して鯨を絶命させた。そして「スペード」という短い先端が刃物の道具が、捕らえた鯨から脂肪を切り取る際に使われた。

 

ジョン万次郎資料館 アメリカの捕鯨説明コーナー3

そしてジョン万次郎はホイットフィールド船長の自宅や知り合いの家に居候し、学校に通ったりしてアメリカ式の教育を受けた。また英語は船長の子供とかから学び、独自の”ジョンマン式英語”を取得していった。

坂本の猟犬
坂本の猟犬

水の事は「ウォーター」ではなく、「ワター」と発音していたぜよ!

朋ちゃん
朋ちゃん

海外に行くと、「ウォーター」では通じないよね!

 

ジョン万次郎資料館 アメリカの捕鯨説明コーナー4

それ以外にも航海術なども学び、更には船上での木樽作りも学ぶ。この時代は船の上では捕鯨する人間は換えが利くので安給料だったが、鯨油を詰める木樽を船の上で作る木樽職人は換えが利かずに高給だった。頭の良かったジョン万次郎は、奴隷のように働かされる道ではなく、自分から儲けられる道を選んで行動していた事が伺えるのであった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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