高知県旅行記2021年3月-19
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
一旦は燃えた城!
朝イチに龍馬が生まれた場所近くに造られていた「龍馬の生まれたまち記念館」を見学してから、続いて高知県のシンボルマークともなっている「高知城」に向けて歩いていきます。なお、高知城のすぐ南側には高知県庁の大きな建物が建っているので、ちょっと迂回して進む必要があった。
高知市内にて
高知市内には高層ビルディングなどはなくて、この高知城が市内中心部でも高い場所にあるので、高知市内のシンボルマーク的存在にもなっている。良く言えば、昔の城下町らしい雰囲気を残している街とも言えるし、悪く言えば経済発展が遅れた街とも言えるのかもしれない・・・。
経済発展はいい事ばかりではないぜよ!
そして現在の高知城南東部には「丸の内緑地」なる、高知城への入口兼公園があるのだが、この訪問時にはその入口となる橋が工事中で通行止めとなっていた。ただこの橋の工事も2021年5月中で完成する予定のようなので、このブログが公開されている頃には綺麗な橋が仕上がっている事だろう。
高知城に入城!
そして初日に高知城にやって来た時と同じように、東側にある「追手門」側に到着する。やっぱり城の中に入場する際には、このような重厚な門構えのある場所から入っていく方が、緊張感というか、城らしい雰囲気を味わえるように思う。
この「追手門」は江戸時代の1800年頃に造られた門で、高知城内にある15個もの”国の重要文化財”の1つともなっている。そんな歴史的な門と奥にある天守を一緒に写真に収めるのが、高知城を訪れた時の定番写真のようだ。
江戸時代後半に造られた大きな門だけあって、堅固な造りになっている。櫓部分には石を落としたり、矢や鉄砲を放ったりする窓が取り付けられているのが見える。この追手門から攻め込む事は、かなり難儀な事だったのが簡単に想像できる景色である。
この21世紀に追手門を通過する事はとても簡単になっていて、今となっては物々しい警備が行われていたという雰囲気すら感じられない。しかし、門を一旦通過してから門を振り返って見ると、その厚みや重厚な造りから防御施設の要であった事が理解できるのである。
そして天守の方向を眺めると、初日の夜にも見た板垣退助の銅像が下に見えている。この高知城内でちょっと面白く感じたのは、天守の近くには山内家の当主の像は無く(※追手門外側の藤並公園に、山内一豊の像あり)、板垣退助や山内一豊の妻の像があった事だった。
江戸時代にその藩を治めていた藩主も、現代となっては実績を挙げた全国的に有名な藩主ぐらいしか銅像が設置されておらず、それよりも話題を集めた人物の銅像の方が目立っている事の方が多い。板垣退助も土佐藩で討幕派という過激派思想の持ち主で、土佐藩を代表する人間だったが、江戸時代には藩主が一番の権力者だった割に天守近くにその像がないのが、21世紀の存在感となっている。
板垣退助というと、こちらの『板垣死すとも自由は死せず』という彼が発したとされている言葉がとても有名である。しかし実際には板垣退助がこの言葉を本当に発したかは定かではなく、岐阜で襲われた時に周囲に居た人達や新聞によって、何パターンもの言葉が展開されていったようだ。
そして天守の方へ進んで階段を登っていくと、石垣の中から飛び込み台のような物が突き出ているのが見えてくる。こちらは「石樋(いしどい)」という、全国的にも珍しい石垣からの排水口となっていた。石垣というと雨を弾くような勝手な印象を持っているけど、実際には石や砂などの固まりなので雨が降った場合にはその雨水の排水をしなければならない。
石垣の外側は大きな石が使われているけど、その雨水の排水も考慮して、石垣の内側には小さな石や砂が詰め込まれている。普通の地域であればそれで対応できるのだが、この高知は全国的にも雨が多い地域なので、石垣から雨水を排水しやすいように、このような石樋が設置されているという。そしてこの石樋は一番下に設置されている物なので、高知城内の石樋の中でも一番大きな物となっているそうだ。
今朝は雨が降っていたので、このように咲き出してきた桜の花にもまたその雨粒が残っているのが見られる。ただこれから元気に咲き出す桜にとっては、これしきの雨でヘコたれる訳ではなく、数日後には元気な顔を見せてくれるのだろう。
そしてこちらも初日の夜にも見た、”良妻賢母”の代名詞ともなっているという山内一豊の妻の銅像。肝心の当主で土佐藩初代藩主の山内一豊自身ではなく、その妻の銅像だけが設置されている所が、テレビで放映された事による全国的な知名度に影響されやすい日本人らしさが垣間見える気がした。。
NHKが毎年放送している大河ドラマは昔(1963年)から人気を博しているらしいけど、個人的には全然見た事が無かった。だが2022年にはその前年の後半に鎌倉を訪れた事によって、ちょうど鎌倉時代に興味を持っていたので、三谷幸喜脚本の『鎌倉殿の13人』を全て見ようと思っていたけど、あまりにもドラマが長く続くので早々に脱落してしまった・・・。
高知市内にある標高45mほどの大高坂山の上に造られた天守だけあって、向かうには多少階段を登っていく必要がある。現在の天守は1750年頃に再建された物だとされているけど、戦が起きた事を想定して昔ながらの堅固な造りとなっている。
そして多少の階段を登ってくると、このような出っ張った石垣部分が見えてくる。大概城跡にあるこのような石垣は、そこに門が設置されていた跡で、ここも「鉄門」という本丸に向けて突進してくる敵を撃退する門があった場所となっている。
しかしながら現在はその鉄門の姿はなく、その跡だけしか残っていない。明治時代に発令された廃城令の影響で、このような門なども全国の城で撤去されてしまっている。
この三ノ丸付近の鉄門辺りは、平成時代に石垣の解体修理工事が行われている。ここにあったという鉄門はいつの時代に造られた物かは詳しくは判っていないそうだが、天守が焼失した時に一緒に燃えて、その後に再建されたと考えられているようだ。
そんな風に景色を眺めながら階段を登っていくと、綺麗な外観の天守が見えてくる。それとこの高知城はその石垣の色などが鷹の羽の色に似ている事から、「鷹城(たかじょう)」とも呼ばれていたそうだ。
そして階段を登っていくと、やっと二ノ丸に到着する。という事はまだここは天守のある場所では無く、もう少し先に進む必要がある事を意味している。なお、この高知城では入場料を払わなくても、天守のすぐ近くまで訪れる事が出来るので、入場料を支払ってまで天守に入りたいと思わない人でも、近くまで立ち寄れる場所となっている。
この二ノ丸には、藩主が執政を行う&生活する「二ノ丸御殿」が造られていた場所のようだ。その二ノ丸御殿は明治時代に入ってからの廃城令の後に公園化された時に、全て撤去されてしまったので今では面影を見る事すら出来ないが。。
桜が花咲く時期には、このように天守と桜の花のコラボした景色も楽しめる。全国のお城には沢山の桜の木が植えられているので、春の桜が咲く季節には最高の花見&城見が楽しめるのである。
そしてこの二ノ丸から本丸へ向かうには、こちらの「詰門(つめもん)」と呼ばれた渡り廊下を進む必要がある。一応は渡り廊下ではなく、「渡櫓門」として堀切に設置されていた門でもある。
この詰門は江戸時代の1802年頃に建造された木造の渡櫓門となっていて、1階部分は物資の貯蓄倉庫として、また2階は家老などが控える場所となっていた事から「詰門」という名前になったようだ。
江戸時代から現存する天守に早く辿り着きたいという気持ちを持って詰門を渡ったからあまり印象に残らなかったけど、この詰門も1800年頃と約200年前の江戸時代に造られていた歴史ある建造物だった。なお、この詰門も国の重要文化財に指定されている。
そんな歴史ある木造の門を進んで行くと、奥から明るい日差しが差し込んできて、更には本丸の石垣が見えてくる。このように江戸時代には簡単に本丸に近づけないような構造に敢えてしていたのであるが、そんな時代を知らない現代人からすれば、もっと簡単に天守に近づきたいという気持ちしか感じない事だろうが・・・。
天守のある本丸に到着する!
そしてその詰門を通過して石垣の階段を少し登ると、このように目の前に天守の建物とその脇にある本丸御殿が見えてきた。この2つの建造物はそれぞれ1727年に大火が発生した際に焼失し、その20年後の1747年頃に前の姿通りに再建された物とされている。
その天守のある北側には「多聞櫓(たもんやぐら)」が2軒設置されていて、その外壁が分厚い漆喰で塗られていた。この多門櫓は天守を火事や雨風から守る役目もあったというが、どれほどの効果があったかは定かではない。
江戸時代には木造ばかりだったから、沢山の建物が燃えてしまったぜよ!
そして天守の内部見学の前に、高知城を訪れた記念の写真を撮る。これで江戸時代から現存する天守を訪れるのは7番目となる。昭和時代に入ってから再建された鉄筋コンクリート造りとは違った、情緒溢れる木造建築物をこれから楽しみに見学して行きます!
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓高知県旅行記:初回↓↓