高知県旅行記2021年3月-7
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
重宝された万次郎!
高知県の足摺岬に造られている「ジョン万次郎資料館」。江戸時代に海で漂流して無人島に辿り着き、それからアメリカ本土まで渡って、日本に帰国してからも波乱の幕末を駆け抜けた万次郎の人生を、更に勉強していきます!
「ジョン万次郎資料館」の見学!
思った以上に資料が充実していた「ジョン万次郎資料館」。足摺岬という四国でも端の場所にある割に、意外としっかりしていた館内。2018年にリニューアルされた事により、展示品なども新しくなっていたのかもしれない。
幕末時代にアメリカに10年程住んでいた万次郎だけあって、このような書には日本語ではなく、英語で書かれていた。江戸時代に使われていた日本語と現代の日本語は違うけど、英語は違いがないので、ラテン語まで遡らない限りは昔の書物でも普通に読む事ができそうだ。
そして署名は「John Mung」と入れられている。ちなみに万次郎の名前は、アメリカ滞在時は「ジョン・マン」と呼ばれ、日本に帰国してからは藩士に取り入れられた為に中濱性を与えられて「中濱万次郎」となった。
そして「ジョン万次郎」というこの資料館にも付けられている名前は、小説家の「井伏 鱒二(いぶせ ますじ)」が1938年に第6回直木賞受賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』で一躍有名になった。
こちらは1852年に万次郎が土佐藩に帰ってきて、取り調べを受けている際に書いたという『アルファベット掛け軸』(複製品)である。ただ今のようなシンプルなアルファベットではなく、象形文字のような筆記体で書かれているので、現代人から見れば暗号のような掛け軸だが。。
万次郎は帰国後に土佐藩の藩士に取り立てられ、ペリー提督がやって来た後は江戸幕府に雇われる。そして後にペリー提督が再来日した際には通訳として期待されたが、”攘夷派”の水戸:徳川斉昭が「万次郎はアメリカに住んでいた為に、アメリカ贔屓をする可能性がある」と万次郎の登用を反対した為に、結局万次郎の通訳話は立ち消えとなってしまった。
こちらは『ボウディッチの航海学書』という、アメリカの数学者で天文学者でもあった「ナサニエル・ボウディッチ」が最新の航海術をまとめた本となっている。万次郎が日本に持って帰った本だが、長崎奉行所に連行された際に没収されてしまった。
しかし1856年になってから江戸幕府は万次郎にこの『ボウディッチの航海学書』を翻訳させ、『亜米利加合衆国航海学書』と翻訳書として1858年に完成させた。江戸幕府はアメリカ滞在時に豊富な航海経験のある万次郎を、軍艦操練所教授に任命し、勝海舟を始めとする幕府海軍に航海術を指導した。
そして1860年に『日米修好通商条約』の締結の為に遣米使節団の1人として咸臨丸に乗り込んで、帰国してから初めて再びアメリカに渡る事になる。その渡米の帰国時に同行していた福澤諭吉と共に”ウェブスターの英語辞書”を購入した。
ちなみにこの時に購入されたウェブスター英語辞書が、”日本に最初に持ち込まれた英語辞書”だとされている。
そして1864年には薩摩藩から設立したての薩摩海軍鍛錬所の為に万次郎が招聘された。薩摩藩は直前に勃発した薩英戦争により、これからの時代は海軍戦が重要な役割を占めていく事を実感した為に、海外で航海術を学んだ万次郎の手腕を必要とした。またその語学力とビジネス能力も活用して、長崎に派遣して5隻の外国船購入にも役立つ。
こちらは『異国風俗描写図』(複製)という、万次郎と同じ中濱出身の「池道之助」が万次郎に約2年間同行した際に、彼の話などを聞いてアメリカの景色などを想像して描いた物となっている。
万次郎は”アメリカで初めて蒸気機関車に乗った日本人”ともされているが、その景色を見た万次郎ではなく、池道之助が描いた内容となっている。なので蒸気機関車も、見た事ない割にはそれなりに上手く想像して描けているけど、黒くて煙突のある窯が走っているようにしか見えないが・・・。
太平洋の島々には色んな民族が居て、中には”裸族”という陰部をヤシの木の葉っぱで軽く隠しているだけの民族などにも遭遇している。万次郎はアメリカだけではなく、捕鯨船での航海でインド洋からアジア地方にも巡ってきて、その道中の国で色んな情勢を見てきている。
その旅の中では奴隷として扱われている人も沢山見てきた為に、その不条理さには大きく憤慨していた。それもあって、ホノルルから日本を目指していた時も、日本に向かう船の船長が自分を奴隷のような存在で扱った為に、ブチ切れてしまった程である。
日本に来日したペリー提督がその旅程内容を航海日誌に記載していた話が『ペリー提督:日本遠征記』としてアメリカで出版されると、江戸幕府はそれをいち早く入手し、ペリー提督側から見た日本の様子を知り得た。そして浦賀に訪れる前に立ち寄った小笠原諸島をアメリカが狙っている事もいち早く突き止め、それを防止する為に東京都から約1,000kmも離れた小笠原諸島の領有権を主張していく方針となる。
※明治9年(1876年)に小笠原島の日本統治を各国に通告し、日本の領有が確定する。
その当時の日本人の大半が見た事もないアメリカという国で、10年も過ごした万次郎の見聞録は『漂流記』として人気となる。その漂流記の中でも有名な『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』は、土佐藩の絵師だった河田小龍が土佐藩で万次郎が取り調べを受けている際に立ち会い、また共に生活をしながら話を聞いた内容で書かれている。
こちらには万次郎の子孫が、漂流中に助けられたホイットフィールド船長に対しての”恩”について語った言葉が展示されていた。個人的にはそのような手を掛けてもらった恩というものは、必ずしも本人に何かしらの物体で返す物ではなく、周りに恥じる事なく立派に生きる事がその恩返しだと思う。
キリストの”無償の愛”ではないけど、与える側はその見返しを必ず期待している訳ではない。だから、「何かを返さなくては・・・」という考えは不要で、その分しっかり生きる事が大切だと感じるのである。
こちらの模型は「咸臨丸(かんりんまる)」という、1857年に江戸幕府がオランダから購入した西洋軍艦。長崎海軍伝習所の練習艦として使われた後、1860年に『日米修好通商条約』締結の為に乗り込んだ遣米使節団をサンフランシスコに送り届けた。
その際にはアメリカからの配慮で、アメリカの軍艦:ポーハタン号に遣米使節団を乗せるよう打診されたが、江戸幕府は日本の力を誇示する為に、日本人が操縦する船でアメリカに渡らせる道を選んだ。その為に、”太平洋を航海してアメリカに向かった初めての日本船”となった咸臨丸だが、実際には太平洋の荒波に慣れない勝海舟を始めとする日本人の船員は船酔いに苦しんだという。
その咸臨丸には幕府海軍で教授となっていた万次郎も乗り込んでおり、周りの未熟な日本人船員が荒波に苦しんでいる中で、外国人船員と共に鼻歌を歌いながら余裕で船を操ったという。アメリカの捕鯨船に乗り込み、命を懸けて航海した経験が大きく活きた事だろう。
土佐の偉人として強烈な印象を残した坂本龍馬は、万次郎と直接出会ったという記録は残っていないそうだ。しかし万次郎の漂流記を書いた河田小龍に出会って、彼の著作『漂巽紀畧』にも目を通したとされ、また万次郎が鍛えた江戸幕府海軍の下で鍛錬を積む事になったりと、何かしらの因縁があった。
明治時代になると、”普仏戦争”の視察団の一員として欧州へ派遣される。その道中にアメリカを経由し、ニューヨークを訪れた際にニューヘイブン(New Haven)まで足を延ばして、万次郎達を無人島から救い出したジョン・ハウランド号の船長だった「ホイットフィールド船長」の家を訪れて再会している。
こちらの写真は、アメリカのニューベッドフォード公共図書館で2013年になって発見された物。この写真に裏書などは見当たらずにその詳細は不明だが、万次郎がホイットフィールド船長と再会した際に撮影された写真である可能性が調査されているようだ。
最近は怪しい合成写真が増えとるぜよ!
過去に存在した色んな偉人が残した言葉で共通するのは、こちらに書かれているように『諦めない!』という事。努力した者が全て報われる事はないが、報われる者は全て努力した者。特に無人島に漂着して想像を絶するような日々を送った万次郎の言葉からは、鬼気迫る迫力を感じる。
資料館の2階も見学!
そしてこの資料館には2階部分もあったので、もう少し見学を続ける事にした。
そろそろ、疲れてきました・・・
2階部分は万次郎がアメリカに渡った際に、起こっていた”ゴールドラッシュ”に関連した展示となっていた。人類というのはどれだけ時代を経ても、欲には勝てずに金に群がる習性は消えない。
1848年頃からカリフォルニアで金が採掘されだし、1849年にはその金儲け話を聞き付けた人々が大挙してアメリカ西海岸に押し寄せた。その1849年に群がってきた約10万人以上の群衆は「フォーティナイナーズ(Forty-niners)/49ers」と呼ばれているが、実際に金採掘で儲けた人は一握りしか居なかったとされる。
その「フォーティナイナーズ/49ers」が金採掘で儲けられなかったのは、多くの人々が一気に群がってきた為にカリフォルニアの物価が高騰してしまい、せっかく苦労して見つけた金などが生活費で殆ど消えてしまったからだ。という事は逆に生活必需品などを販売していた商人は、他の町で安く買い占めた物を高値で売り抜けた為にボロ儲けとなった。
そしてカリフォルニアでのゴールドラッシュでは、現代人にはお馴染みの”ジーンズ”という耐久性のある衣服が開発されて、今日に至っている。このゴールドラッシュのようなバブル期の教訓は、その争いに参加するのではなく、参加している大勢の大衆からお金を吸い上げる商売をしなさいという事だろう。
これからは、ビットコインが火を噴くぜよ!
こちらの船の模型は「ポーハタン(USS Pawhatan)」という、1850年に完成した当時としては最大級の軍艦。1846~1848年頃にアメリカはメキシコと戦争を繰り広げていた為に、その戦いに投入できる大型戦艦を建造した。
しかしポーハタン号が完成した1850年にはメキシコとの戦争は終了しており、このポーハタン号は東インド艦隊に配属となって中国水域に配備された。そしてペリー提督が再来日した1854年にはこのポーハタン号も同行し、当時としては世界最大級の軍艦隊で押しかけ、開国の圧力を迫ったのである。
こちらの模型は、幕末に薩摩藩が建造した西洋型帆船の「昇平丸」という船。薩摩藩は国内でも西南端に位置して琉球王国に跨る長い諸島も管理しており、江戸時代後半に諸外国船が出没する回数が増えてきていた為に、他の藩に比べても国防についての危機感を感じていた。
ペリー提督が日本を訪れる1853年までは、日本国内では西洋船の建造は固く禁じられていたが、危機感を感じていた薩摩藩の島津斉彬は老中筆頭だった阿部正弘に、”海外と対峙できる戦艦”の建造を願い出た。しかし当時はまだ外圧はあったものの、江戸幕府は国防の危機を感じていなかった為に却下されたが、薩摩藩は西洋船としてではなく『琉球船』と称して戦艦の建造に着手した。
そしてこの船が建造されている際に万次郎は薩摩藩の拘留下にあった為に、島津斉彬は万次郎に船の建造について助力を願い出て、万次郎も船作りに協力したとされる。
万次郎殿も表に名前は出ないけど、日本の歴史を支えた偉人ぜよ!
万次郎が漂流した一行5人の中でいち早くアメリカ文化に浸透できたのは、彼が一番若かったからかもしれない。明治時代初期には明治政府は外国文化を習得させる為に、まだ幼い子供なども海外に送ったが、留学などは早ければ早い方が吸収能力が大きくて効果があるのだろう。
四国でも最南端の場所にある足摺岬近くに造られている「ジョン万次郎資料館」だけど、このように万次郎の生き様をとても勉強できる施設であった。この資料館の展示品などと共に、河田小龍の『漂巽紀略』や井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』を合わせて読むと、更に万次郎の人生が勉強できる。
こちらは資料館の1階に併設されていた「海風食堂」で、近くにはあまり食堂らしきお店が少ないので、この資料館に来たついでにここで昼食を食べて帰る人も多いのかもしれない。
出川ちゃんも充電旅で訪れた際に、ここでドリンクを飲んで休憩したぜよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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