高知県旅行記2021年3月-34
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
龍馬の血痕!
高知市内の桂浜に造られている「高知県立 坂本龍馬記念館」の見学は、もう少し続きます。龍馬が残した書状などが意外と多く展示されていて、なかなかに見所のある記念館となっている。
坂本龍馬記念館の見学!
こちらは1866年11月に書かれた、盟友だった溝渕広之丞に宛てた「脱藩後の心境を伝える」書状である(※複製品)。
龍馬は一度土佐藩を脱藩したものの、勝海舟の私塾で学ぶ事を前提に山内容堂に勝海舟がその恩赦を求めて、復藩した。しかし、神戸での海軍操練所設立を目指す龍馬にとって土佐藩から他所の地に行く事を認められなかった。そして龍馬は土佐藩に所属する事は”足かせ”としか感じなくなり、翌年に再び土佐藩を脱藩する事になる。
山内容堂公からの酒を呑ませられるパワハラを受けた勝海舟殿の苦労が・・・
確かに龍馬のように自分の考えを優先にして理想に向かって突き進む人間からすれば、旧形態の大きな組織ほど邪魔な存在と感じるのだろう。特にこの時代は江戸時代が始まってから約250年間に渡って、長期政権が治め続けてきた国だったので、余計に進歩的な考えをする人間からすれば窮屈に感じた事だろう。
こちらは1867年1月に木戸孝允宛てに龍馬が書いた、「土佐の夜明けを木戸に伝える」という資料館のタイトルが付けられた書状である(※複製品)。この書状を書く前までは龍馬の土佐藩に対する想いは”何の志もなき国”だったが、この書状を書く直前に土佐藩の参政を担っていた「後藤 象二郎(ごとう しょうじろう)」と会談し、土佐藩にも大きな動きが出てきた事を感じたという。
これまでの土佐藩では山内容堂の藩主隠居後に”尊王攘夷派”の機運が強くなっていたが、山内容堂が実権を取り戻すと攘夷派の武市半平太などが投獄されて切腹に処された。そして山内容堂の晴れてからの念願である、”公武合体派”の考えを推進していった。
こちらは1867年4月に龍馬が姉:乙女に宛てて送った、「世の中の人は、蛎殻の中に住んでいる」と土佐藩の事を揶揄した内容の書状。
龍馬は土佐藩を脱藩後に勝海舟の仲介を経て、脱藩の罪を恩赦されて土佐藩に復帰したが、土佐を出て全国の優れた先進的な考えをしている人々と交流をした後になると、土佐藩の人間が貝の中だけで生活しているような視野の狭い考え方ばかりする人が多いと感じたようだ。
だから世界に一度は出ていく事が必要ぜよ!
こちらは幕末に発行された『和英通韻以呂波便覧』という英語テキストで、海外との貿易を行う海援隊では欠かせないテキストであった。こうやってこの本を見ると、日本語は使う漢字などが変わったが、英語のアルファベットに変化がないのが見て取れる。
こちらはアメリカの「ヘンリー・ホイートン(Henry Wheaton)」という判事や外交官で活躍した人物が出版した、当時の近代国際法が記された『国際法原理(Elements of International Law)』という書籍を翻訳した物である。その『国際法原理』を宣教師だったウィリアム・マーティン(W.A.P.Martin)が漢文に翻訳し、『万国公法』として東アジア地方に広まっていったという。
こちらは「海援隊旗」(※複製品)で、土佐藩が長崎に設立した土佐商会の組織内に海援隊が組み込まれた為に、土佐商会が用いていた”赤白赤”のデザインをした旗を使っていたという。またこのデザインは『二曳(にびき)』とも呼ばれ、土佐藩出身の岩崎弥太郎が創業した日本郵船では、その名残りとして今もこのデザインが用いられている。
岩崎弥太郎は土佐藩が生み出した、世界的な実業家ぜよ!
そして永遠に繫栄する政権はこれまでに存在せず、鎌倉幕府や室町幕府が衰退して消えていったように、江戸幕府も最後の時が刻々と近づいてきていた。江戸幕府が衰退していくのに合わせて、必然的と討幕する勢力が増えていくのである。
そして1867年5月に京で『四侯会議(しこうかいぎ)』が開かれた。これは”幕末の四賢侯”と称された公武合体派を推す、①土佐藩第15代藩主:山内容堂、②宇和島藩第8代藩主:伊達宗城、③福井藩第14代藩主:松平春嶽、④薩摩藩第11代藩主:島津斉彬(島津斉彬は1858年に死去した為に、弟の島津久光が会議に出席) の4人の名君を集めて、今後の朝廷と江戸幕府の動向を協議した会議である。
先に4名の大名が集まって作戦会議を開き、その後に朝廷と徳川慶喜と会議を行い、朝廷を中心とした公武合体の政治体制を要求したが、結果的には四賢侯側の主張は失敗に終わった。そこで江戸幕府が朝廷と手を組むという公武合体の理想は崩れてしまい、残された手段は”討幕しかない”という考えに移っていくのであった。
話の分からん奴には、武力行使しか手段がのうなるぜよ
こちらの書状は1867年7月に長崎で、イギリス船:イカロス号の乗組員だった水夫が殺され、その疑いが海援隊に降りかかり、急遽京から長崎(土佐経由)へと移動せざるを得なかった時に書かれた物(※複製品)。土佐に帰るつもりはなかったけど、たまたま事の次いでで土佐に帰ってきてしまったが、結局土佐に上陸はしなかったという。
この頃の龍馬は”四賢侯”の間を多忙に動き回っており、公武合体から討幕へと移り変わっていく情勢を体感しながら、忙しくはありながらも充実した人生を送っている実感があった事だろう。
四侯会議が失敗に終わった後に討幕に傾く薩摩藩に対して、土佐藩の後藤象二郎らは龍馬の進言に基づいた王政復古/大政奉還を目標となす『薩土盟約』を締結する事になる。しかし薩摩藩はその直前に武力討幕を掲げる板垣退助らとの間に、”薩土討幕の密約”とも呼ばれる、「討幕の際には土佐藩が30日以内に必ず駆けつける!」という密約を結んでいたのである。
西郷と大久保は、とても狡猾なコンビぜよ!
1867年の春頃に下関で一時お龍と住んでいた時に、龍馬が遊郭で遊んで朝帰りすると、お龍に見つかり怒られてしまう。カンカンに怒るお龍に対して、龍馬は知人が遊びにやって来た時に三味線で即興を引き、お龍に対して謝る内容の詩を唄ったという。こちらはその際に龍馬が唄ったとされる内容が記されている。
龍馬も精力的じゃったから、遊びたい年頃でもあったぜよ!
遊郭&朝帰りなんて、どんな奥さんでも怒って当然よ!(怒)
こちらは1867年4月に龍馬が設立した亀山社中が、土佐藩の藩政を担っていた後藤象二郎によって、土佐藩の支援する組織内に組み込まれて「海援隊」となり、龍馬が海援隊:初代隊長に指名された時の喜びを姉:乙女に伝えた書状となっている。土佐藩を脱藩しつつも、生まれ育った土佐の地が忘れられない龍馬からすれば、土佐藩からのお墨付きを貰えて、更にその責任者に認められた事がよほど嬉しかったようだ。
江戸幕府が崩壊へと傾き出す中、龍馬はその裏で暗躍した中心的な人物でもあった。精力的に京や長崎などを行き交い、王政復古の理想主義に走り、遂に大政奉還という夢の瞬間を迎える事になる。
1867年10月14日に、江戸幕府の最後の将軍となった徳川慶喜が『大政奉還』を行い、政権を朝廷に返上する事になる。大政奉還を理想にして突き進んでいた龍馬であるが、ここがゴールではなく、あくまでも通過点でしかない事を認識していた。というのも、政権を朝廷に返上しながらもまだ徳川幕府は解体されておらず、朝廷が政権を行う際には江戸幕府を武力で解体せざるを得ない事を悟っていたという。
ライオンの群れの王みたく、最後は叩き落とされるぜよ!
こちらは龍馬が1867年10月9日に書いた、家族に宛てた最後の手紙である(※複製品)。龍馬は板垣退助が”薩土討幕の密約”に従って討幕の準備を進めている事を察知し、独断で1000丁以上の銃を購入し、土佐に乗り込んで土佐藩にその銃を買い取らせる事に成功する。
そして土佐に戻った際に久々に実家に泊まり、家族に成長した顔を見せた龍馬。その時は色んな武勇伝を家族に披露した事だろう。その後10月に土佐を出発し京へ向かい、10月9日に到着した京から家族に送ったこの手紙が家族への最後の連絡となる。
こちらは1867年11月13日に龍馬が書いたとされる、陸奥宗光宛に送った”現存する最後の手紙”(※複製品)となっている。龍馬は陸奥宗光から贈られた小刀が、自分が贈ろうと思っていた小刀に比べて良い物であると述べている。自分が贈る予定の小刀は大坂で刀研ぎが終わり次第、披露すると回答している。
その陸奥宗光宛の手紙を書いた2日後の1867年11月13日に、龍馬は京の河原町にあった醤油商を営む近江屋の2階に宿泊していた。そして夜20時頃に近江屋の2階で中岡慎太郎と話をしていると、数人の暴漢が部屋になだれ込んできて、油断していた龍馬は切り殺されてしまうのである(満31歳没)。
こちらの屏風は”国の重要文化財”にも指定されている『梅椿(うめつばき)図』(※複製品)で、龍馬と中岡慎太郎が切り殺された時に近江屋2階の床の間に飾られていた物だという。下部には血痕らしき物が付着しており、龍馬もしくは中岡慎太郎の血が付着した物と推測される。
なお、この掛け軸はこの龍馬が殺される当日に勤王派藩士を援助していた、画家の「淡海 槐堂(おうみ かいどう)」が龍馬に誕生日プレゼントとして進呈した物である。龍馬は奇しくも31歳の誕生日を迎えた日に、切り殺されているのである。
祝えない誕生日ぜよ・・・
また、掛け軸の上部に書きこまれている文章は、龍馬が殺された後にその跡を継いで”海援隊2代目隊長”となった長岡謙吉による追悼文となっている。
こちらに置かれている屏風も、龍馬が暗殺された時に近江屋2階に置かれていた物(※複製品)。こちらの屏風には絵や書状や短冊など貼られている”貼交屏風”で、53滴もの血痕が付着しているという。
屏風の左下には、現在大人気の猫が描かれた絵が貼られている。そんな屏風の下の方に血痕が集中的に付着しているが、この血痕の血液鑑定はされていないという。なので、もしかしたら龍馬や中岡慎太郎の血ではないかもしれないけど、状況的に2人の血が付いた屏風という認識になっているようだ。
南無阿弥陀仏・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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