高知県旅行記2021年3月-33
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
おもちゃのようなピストル!
高知市内の太平洋に面した桂浜に造られている「高知県立 坂本龍馬記念館」の見学はまだまだ続きます。知っているようであまり何をした人かを知らない坂本龍馬について、彼の残した書状などを見ながら勉強して行きます。
坂本龍馬記念館の見学!
こちらの書は1866年に長州藩の「木戸 孝允(きど たかよし)」(桂小五郎)が、坂本龍馬に対して『薩長同盟』が結ばれた後に”覚え書き”として締結した内容を書き起こして龍馬宛に送った表書となっている。※複製品
こちらはその木戸孝允から送られた『薩長同盟の表書き』に対して、寺田屋事件で襲撃されて薩摩藩に匿われていた坂本龍馬がその返事を記載した「裏書」(※複製品)となっている。寺田屋事件では危機一髪のタイミングで抜け出す事に成功した龍馬だが、手などに斬られた傷があり、後にその傷を療養する為に薩摩へ向かって湯治をする事になる。
こちらは「裏書」の現代語訳で、木戸孝允のまとめた内容について、その通りで異論のない事を記している。かつての職場での上司はよく会議や得意先との打ち合わせが終わると熱心に”覚え書き”を作成していたが、口約束という物ほど信頼できない証拠はないので、なるべくこういった形に残す事は大事である。
こちらは龍馬が襲われた寺田屋事件で、その現場跡を目の当たりにした木村隼人という人物がその様子を報告している書状となっている。
寺田屋より何とか逃げ延びた龍馬が近くにあった材木納屋に逃げ込んだが、その現場跡には多くの血痕が見られたという。その光景から、龍馬はかなりの出血をして深手を負っていたという報告になっている。
そして龍馬は命からがら寺田屋から逃げ延び、薩摩藩に匿われて、深手を負った傷を治す為に薩摩の地に送られた。この龍馬の温泉湯治は妻となった「お龍」を連れての旅だったので、”日本初の新婚旅行”としても有名になっている。
こちらは長州藩の木戸孝允が、当時は敵対していた薩摩藩と薩長同盟を組んだ時の”複雑な心境”を読んだ詩が書かれている書状である。『昨日の敵は今日の友』ということわざがあるが、敵対する要素よりも手を組んだ場合のメリットが大きくなると、その立場は一転する事が多い。
『敵の敵は味方』の言葉通り、同じ討幕する気持ちが繋がったぜよ!
こちらは龍馬が姉である坂本乙女に対して、妻となる「お龍」を紹介する1865年9月に書かれた書状となっている。※複製品 そして乙女などに礼儀の本や歌の本などを送るように依頼もしている。
こちらは1866年7月に龍馬が木戸孝允宛に送った書状で、直前に勃発した「第二次長州征討:下関海戦」にも参加した龍馬は、「また、ヤジ馬をさせてくれませんか?!」とおどけた表現を使っていた。
龍馬が下関海戦に参戦した際に乗り込んでいた軍艦:ユニオン号は、龍馬が興した”亀山社中(後の海援隊)”が長州藩の為に薩摩藩名義で、武器商人でもあったグラバー商会から購入したイギリスの船だった。
こちらはその龍馬が参戦した1866年に起きた第二次長州征討:下関海戦で、その海戦時の様子を書いた海戦図となっている。この海戦図では、上側の突き出た部分が福岡県の門司となっていて、下の方が山口県の下関と、南北逆さまで描かれている。
そしてこちらは龍馬が長州藩の高杉晋作から贈られたという、「スミス&ウエッソンⅡ型:32口径のピストル」と同型の実物である。龍馬が所有していた同型のピストルは、寺田屋襲撃事件の際に身の回りの品を捨てて逃げた為に、現存はしていないという。
このピストルは32口径で6連発式のリボルバー銃となっている。なお、このピストルは個人所有者から寄贈された物だが、現代では”銃刀法”に抵触する為に、見れば分かるように銃身と弾倉部分は白い物で埋められている。
こちらは1866年12月に坂本龍馬が姉:乙女宛に送った、「新婚旅行の報告」の内容となっている書状。この1866年1月に寺田屋で襲撃されて両手を斬られていた龍馬は、薩摩藩の西郷隆盛などの勧めによって、薩摩を訪れて湯治も兼ねて旅行をしている。
こちらは坂本乙女宛に妻となった「お龍」の事情が記されている。「お龍」は京都の医者の娘として生まれ育つが、勤王家だった父が安政の大獄で捕らえらえ、後の恩赦後に病死して家計に困窮するようになる。そして身の回りの品々を売り払うが、それでも困窮は続き、妹2人が大坂と島原に身売りさせられてしまう。
そんな「お龍」は京の旅館や土佐藩の隠れ家で働く事になり、その時期に龍馬と出会ったという。そして不遇な境遇を哀れんだ龍馬は、「お龍」を寺田屋の女将に預ける事にしたのである。
そして薩長同盟を結んだ直後の1866年1月23日に、龍馬は懇意にしている寺田屋に宿泊した。この頃には龍馬も幕府側から狙われる存在となっており、護衛と共に警戒はしながらも宿に泊まる事になった。そしてその晩、寺田屋で働いていたお龍が入浴していると、外で不審な集団が取り囲んでいる事を察知し、すぐに龍馬が狙われていると伝えたのである。
この知らせが無かったら、龍馬殿もここで切り殺されていたかもぜよ!
そして命からがら逃げきった龍馬は、そんなお龍を妻に迎える事にした。そして湯治旅行となった薩摩(鹿児島)で、霧島などを訪れて新婚旅行を楽しんだという。そしてその旅行時に長州への用事を頼まれて、お龍を長崎に預けてから長州へと向かうと、ちょうど第二次長州征討:下関海戦が勃発して、それに急遽参戦したという。
こちらの絵は霧島神社に立ち寄った際に訪れた「高千穂峰」が描かれており、馬の背を通るコースを登って、滑りそうなポイントがあり、お龍の手を引っ張って登ったという内容が記されている。
そしてこの薩摩での湯治&新婚旅行で一番の収穫は、薩摩藩の西郷隆盛と深く親交を交わした事かもしれない。龍馬は西郷隆盛の妻にも紹介されてその人柄を褒めており、薩摩藩に西郷隆盛が欠かせない人物であるとも述べている。
こんな旅はまた次回に続きます!
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