高知県旅行記2021年3月-32
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
残された手紙!
高知市内の太平洋に面した桂浜の高台に造られている「高知県立 坂本龍馬記念館」の見学はまだまだ続きます。2018年に新たに新館が増築された事により、館内で展示されている資料が増えた模様で、龍馬や歴史好きにとっては更に魅力ある場所に生まれ変わっているようだ。
坂本龍馬記念館の見学!
こちらの肖像画は土佐藩で尊王攘夷運動を主導した「武市 半平太(たけち はんぺいた)」が描かれている。この肖像画を描いた人物は、明治~昭和初期に活躍した日本画家の「公文 菊僊(くもん きくせん)」である。画家の公文菊僊は高知市生まれで、生まれた時には既に他界していた坂本龍馬や中岡慎太郎などの土佐偉人の肖像画を描き、それが大ヒットしたという。
こちらの肖像画も同じく高知出身の画家:公文 菊僊が描いた、「中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)」である。この中岡慎太郎も土佐藩出身で、武市半平太に賛同して尊王攘夷派を目指す勢力に所属し、陸援隊として薩長同盟にも一役買った人物である。そして最後は坂本龍馬と共に近江屋で、一緒に切り殺された人物としても有名である。
こちらは中岡慎太郎と同様に土佐藩の尊王攘夷派で、土佐勤王党にも加わった「吉村 虎太郎(しむら とらたろう)」が書いた書状である。※複製品
吉村虎太郎は脱藩して京に向かい、孝明天皇が大和行幸して奈良の寺に参拝して力を誇示して、それから討幕を行う計画に加担した。しかし、1863年に”八月十八日の政変”と呼ばれる政変が起きて、その計画は白紙となった。だが吉村虎太郎は抜いた刀が収まらないように、その政変を知らない十津川郷士(奈良)を挙兵させたが、幕府軍の攻撃で壊滅してしまい、戦死してしまう事になる。
幕末は多くの血が流されたぜよ!
こちらの刀は「和霊神社」という、元は愛媛県宇和島市にある神社で、坂本家の6代目当主:坂本直益が守り神として高知市内に勧請してきた神社の宝刀でもある。この宝刀はその和霊神社に奉納されており、江戸時代初期頃に造られた刀となっている。この坂本直益が当主の時代に才谷屋は更に繁盛し、”郷士株”を取得して長男:直海を郷士坂本家として分家させたのである。
直益殿は龍馬の4代前の先祖ぜよ!
こちらの坂本龍馬の肖像画も、上の中岡慎太郎などと同様に高知出身の画家:公文 菊僊が描いた作品となっている。ちなみにこちらの肖像画は昭和初期に2000枚近くが発行されたので、全国的に出回っている為に希少性は少ないという。
こちらの書状は、坂本龍馬が1862年に土佐藩を脱藩してから最初に家族宛(坂本乙女宛)に書かれた手紙となっている。※複製品
ちなみに龍馬には20歳近く歳が離れていた兄がいて、坂本家の当主を引き継いだ兄が後に龍馬に家督を譲る事も考えていたが、龍馬の脱藩して日本を変えたいという決意の前に、その家督を継がせる事を諦めたという。
こちらにはその翻訳文と現代語訳が用意されている。
この龍馬の手紙で面白い部分は、
運の悪い人は風呂から出ようとして、きんたまを風呂桶の縁で詰め割って死ぬこともある。
by 坂本龍馬
と姉への手紙の中でも、平気で”きん○ま”と表現していた事である。
当時の龍馬も、まさかこんな手紙が後に資料館に展示されるとは思もわんぜよ!
こちらの書状は、龍馬が脱藩後に勝海舟に弟子入りして、充実した日々を送っている様子を書き留めて姉に送った内容となっている。※複製品
坂本龍馬「日本の洗濯」 動画
このような書状も現代人からすれば解読不明のような筆跡だが、このような内容でも読める人がいたから書かれている訳である。龍馬が家族に送った書状は殆どが姉の坂本乙女宛となっており、小さい頃から面倒を見てこられて頭が上がらない存在だったので、大人になってからも常に内心を書き綴って送り続けていたそうだ。
こちらの書状は、”池田屋事件”が起きた1864年6月に坂本乙女宛に書かれた物で、『ねぶとの手紙』とも呼ばれている。
この”ねぶと”とはニキビのような腫れ物を指す言葉らしく、腫れ物に針を刺して膿を出す際には、早過ぎると膿が出ないので、ちゃんとその時期を見計らって実行しなければならないという想いが籠められていたという。
この”池田屋事件”は、京に潜伏していた尊王攘夷派が密議を行っていた池田屋を新選組が襲撃し、数名が切り殺された事件である。この池田屋事件で新選組は名を挙げ、更に勢いを増していく結果となったようだ。
こちらは勝海舟が書いた『二行詩書』という掛け軸で、坂本龍馬が最も尊敬した人物が勝海舟だったのである。その勝海舟に憧れて、坂本龍馬は海軍養成所を手伝う事になる。
なお、山内容堂が勝海舟に無理やり酒を呑ませたという事件は、勝海舟が脱藩した坂本龍馬を恩赦してもらい、土佐藩に復帰させてもらう陳情に行った際に行われたやり取りである。
こちらは坂本龍馬が神戸で開かれていた勝海舟の私塾で、勉学に励んでいた頃に作られた可能性があるという『坂本龍馬:和歌』。※複製品
坂本家ではみな和歌に興じており、坂本龍馬も数多くの和歌を詠んできたという。
世の人は我を何とも言わば言え
我なす事は我のみぞ知る!
by 坂本龍馬
こちらの和歌は坂本龍馬が残した和歌の中でも、特に人気のある有名な箇所である。周りの人間に何と言われようが、自分が決めた事を必ずやり遂げるという強い意志が見られる。
短い人生やき、やりたい事に集中するぜよ
こちらは1863年8月頃に書かれた、龍馬から21歳上の兄:権平の奥さんの弟(川原塚茂太郎)に送った書簡。坂本家の家督を継いだ兄:権平は男子の子供に恵まれなかった為に、龍馬を養子にして跡継ぎにする事を考えていた。龍馬から「オレは世界に打って出るぜよ!」的に言われても、権平はなかなか諦めるつもりはなかった。
そんな自分を跡継ぎにしたくて中々諦めない兄:権平に対して、奥さんの弟(川原塚茂太郎)に龍馬は代わりに説得を依頼した内容となっている。
跡継ぎを残すのは、命懸けだったぜよ!
兄:権平に対して、奥さんの弟である川原塚茂太郎は、龍馬に対して「土佐一国に留まるより、世界に出て行き大きく活躍せよ!」というように言い聞かせた人物だったので、龍馬も一目置いていたという。
そして龍馬は40歳になるまで修行を続け、更には海外に出ていく可能性もある事から、早く自分以外の後継者を別に見つけて欲しいという懇願が書かれていた。
当時は家督を継ぐ事を何よりも重視していた時代で、男子に恵まれなかった兄からすれば、何としてでも龍馬を跡継ぎにしたかったのだろう。しかし、龍馬はもっと大きな夢を見て動いており、跡継ぎの座に収まる事は無かったのである。
こちらは明治23年(1890年)に勝海舟が発行した『追賛一話(ついさんいちわ)』という、徳川吉宗から山岡鉄舟まで龍馬を含む45人の事を取り上げて、”賛”を送った内容となっている。龍馬は38番目に登場しており、勝海舟と初めて出会った時に龍馬は勝の回答次第では斬り捨てる腹積もりをしていたと書かれている。
龍馬は勝の話を聞いて、逆に惚れ込んで弟子となってしまったぜよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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