高知県旅行記2021年3月-31
旅行期間:2021年3月某日(2泊3日旅)
面白い幕末の歴史!
さて高知県旅も終盤に差し掛かり、ここは桂浜のかつて長宗我部氏の居城だった浦戸城の天守跡近くに造られている「高知県立 坂本龍馬記念館」。これから高知県では一番の偉人と格付けがされている「坂本龍馬」について、勉強していきたいと思います。
「坂本龍馬記念館」の見学!
まずジョン万次郎のブースを見学してから、常設展示のブースに向かう。この坂本龍馬記念館は坂本龍馬の自筆の書状やゆかりの品が数多く展示されており、坂本龍馬好きにとっては訪れるべき場所となっている。
こちらは2018年に増設された新館部分で、ご覧のように多くの史料が展示されている。まだ比較的新しい建物だけに、清潔さを感じれて、快適な資料館見学が行えた。
そしてまずは坂本龍馬が生まれて活躍した、江戸時代も後半の「幕末」と言われる時代背景から、資料は始まっていく。
江戸時代の歴史についてあまり興味ない人からすれば、「幕末にアメリカからやって来たペリー提督一行が、大砲を打ち込んで鎖国をこじ開けた」という認識が強いだろう。しかし実際には江戸時代後半頃には海外の軍艦などが日本海周辺に多く出没するようになっていき、また江戸幕府も長年続いて腐敗したシステムを騙し騙し続けていたので、弱体化してきていた。
そして徳川吉宗が江戸幕府8代将軍となった際に、それまで中国からの書物以外は輸入禁止となっていたのを、キリスト教関連の書物以外の洋書の輸入を解禁にした。それによって欧米の文化や医学などが書かれた書物が国内に流入し、”蘭学”という、西洋文化を研究する学者が増えていった。
するとそのような洋書を通して発達していく海外に対し、日本国内は昔のシステムのまま腐敗して衰退していく現状を知って、反感を覚える人物が増えていく。そうして各地では今までのように藩に囚われた存在から抜け出す”脱藩”を行い、江戸幕府時代を改革させる思想の人物達が顔を揃えていく事に繋がる。
当時の「脱藩」は、藩では厳しい罪となっていたぜよ!
1853年7月に浦賀沖に姿を現した、アメリカ合衆国の軍艦。ペリー提督一行は前年1852年11月にアメリカ東海岸を出航し、約半年かけて日本にやって来た。なのでこの「黒船来航」はいきなり訪れた訳ではなく、またペリー提督が出航する数ヶ月前にオランダ大使から、「アメリカから開国を求めて、軍艦が押し寄せる可能性が高い!」との情報があったものの、鎖国に慣れ切っていた幕府は特にこの進言を気にもせず、のんびり過ごしていたのである。
こちらの右側が、かの有名な「マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)」提督である。日本までの約半年に渡る大航海をした時点で、50歳代後半だったペリー。帰路も同じぐらいの日程が掛かる旅だったが、日本を開国させるという強い任務意識を持って行動した為に、その長旅という苦労に似合う成果を持って帰る事に成功する。
ペリー提督が日本開国にチャレンジする前にもアメリカの戦艦がやって来て日本に開国を迫ったが、失敗に終わっていた。そして日本開国という難題を与えられたペリー提督は、出発前に日本について詳しく研究を行っている。当時の日本は鎖国していてヨーロッパにはその国の情報が知られていなかったと思いがちだけど、実際には出島に駐在していたオランダ商館の医師だったケンペルなどが、日本の様子を細かく観察して書物に書き記して、ヨーロッパでその内容を記した本を発行していたのだ。
このような日本を紹介する本から、”ジャポニズム”が発展していくぜよ!
この本を読めば、当時の日本の事が世界に知れ渡っていたか、知れるぜよ!
こちらはペリー提督一行が、横浜の地に降り立った際の陣を描いた絵となっている。ペリー提督一行はその威厳さと恐怖さを見せつける為に、大柄で整った服を着させた部下約200人を連れて、日本の地に降り立った。この場所はその当時には何も無かった場所だが、今では大都会:横浜でその面影は殆ど残っていない。
こちらの外輪式蒸気フリゲート艦は、当時世界最大級の大きさだった「ポーハタン号(USS Pawhatan)」。ただポーハタン号はペリーが最初に来航した際には東シナ海での任務があった為に参加せず、ペリーが翌年に再び日本に来た際に艦隊に加わった。
そして1860年に条約締結の正式文書をアメリカに手渡す為に、日本の使節団が渡米する際に太平洋を渡る足としてアメリカから迎えの船として送られたのが、このポーハタン号だった。
日本ではジョン万次郎以外の人間にとっては、恐らく想像もした事のないような黒煙を吐く黒い大きな船だったので、特に庶民達の動揺は激しかっただろう。ちなみに1853年にペリー提督一行が来航した際には、坂本龍馬は江戸遊学中の身で、土佐藩の警護の任についていたという。
こちらの絵は、幕末から江戸時代にかけて活躍した浮世絵師の「月岡 芳年(つきおか よしとし)」が描いた、井伊直弼が襲撃された『桜田門外の変』を錦絵として描いたもの。1858年に大老に就任した彦根藩の「井伊 直弼(いい なおすけ)」が、水戸藩などを脱藩した浪人に襲撃されて命を落とすという歴史に残る暗殺事件であった
この頃の日本国内は、外国からの敵を排除して今までの鎖国を継続する事を支持する派と、開国する派で大きく意見が割れていた。そんな中、井伊直弼は当時は形式ばっていた天皇からの勅命なしに日米修好通商条約を調印したのであった。
その行動に怒った、尊王攘夷派で一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を次期将軍に推す一橋派でもあった元水戸藩主の徳川斉昭などが許可なく江戸城に登城し、井伊直弼に詰め寄った。当時は許可なく藩主レベルでも勝手に江戸城に入ってはいけない決まりがあり、その違反行為に怒った井伊直弼は徳川斉昭や松平慶永などを隠居に追い込んだのである。
これが『安政の大獄』だけど、逆に浪人達に火を点ける形になってしまったぜよ!
このように龍馬が生まれ育った幕末の時代は、かつて誰も歯向かえない強大な江戸幕府が徐々に弱体化しており、備中松山藩の山田方谷は既に江戸幕府が崩壊していく頃合いだというのも見切っていた。長く独裁政権が続けば続く程にモロくなっていき、最終的には腐って崩壊してしまうのが地球上の絶対の法則でもある。
龍馬が生まれた坂本家は、土佐で裕福だった豪商の才谷屋から分家した家系で、その分家の際に財産贈与されて龍馬も比較的裕福な家庭条件の中で育つ事になる。龍馬の家が裕福だった事もあり、後に江戸遊学の際には自費を出していた程である。
こちらの世界地図は、フランス人が1835年頃に製作した地図を参考にして、1844年頃に江戸時代後期の地理学者であった「箕作 省吾(みつくり しょうご)」が作成した世界地図となっている。
この地図『新製輿地全図(しんせいよちぜんず)』は、日本で初めて発行された世界地図となっている。江戸時代に西洋地理の専門家だった箕作省吾が発行した本は、幕末を動かす有力な人物達にも多く読まれた書物となっているようだ。
こちらの絵は土佐藩の絵師であった「河田 小龍(かわだ しょうりょう)」が描いた、『東方朔之図(とうほうさくず)』。東方朔は中国前漢時代の文人で、不老不死の桃を食べて武帝に仕えたとされている人物。
桃太郎の老後みたいなジジイぜよ!
失礼で~~!!
この河田小龍の絵が展示されていたのは東方朔の絵というよりは、土佐藩で私塾を開いて坂本龍馬に万次郎から聞いた世界の広さを伝えた人物とされているからだ。河田小龍はジョン万次郎が土佐藩に戻ってきた際の取り調べに立ち合い、更には万次郎と生活を共にして、万次郎の話を詳しく聞いた。そしてその万次郎の話を纏めて、『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』という本を仕上げた人物でもある。
こちらは万次郎らが土佐藩に戻ってきた際に、取り調べを受けた約2ヶ月間滞在した浦戸町の旅館で、生活を共にした河田小龍に贈られた『アルファベット掛軸』(※複製品)である。江戸時代に書かれた掛け軸で、このようなアルファベットが書かれた掛け軸はとても珍しい物だった事だろう。
こちらに置かれているのは、「一弦琴(いちげんきん)」という、名前の通り1本の弦しかない楽器である。この楽器の伝来は諸説あるものの、江戸時代には土佐でも流行っていて、坂本龍馬の姉である坂本乙女も一弦琴の教室に通っていたとされる。
こちらは坂本龍馬が着用していたという紋服のレプリカ。龍馬の身長については正確な記録が残されていないが、当時の話では170cm代で現在の成人男性の平均身長程だったと考えられている。
こちらの書は坂本龍馬の父である「坂本直足(八平)」が、19歳頃となった龍馬が単身江戸に剣術修行に出向く際に書き渡した『修行中心得大意』という、3箇条の教訓が書かれた書。※複製品
内容は「国(藩)の為に修行に打ち込め!」や「無駄な道具などにお金を浪費するな!」、更には「女の色気に溺れるな!」などとなっている。龍馬は常にこれをお守りとして胸に入れて、携帯して過ごしていたという。
こちらには坂本龍馬が写っている写真の中でも、最も有名な写真のレプリカが置かれていた。この写真は「湿板写真(しっぱんしゃしん)」という今ではまずお目に掛かれなくなってしまった撮影方法で撮られた写真で、撮影時間に数十秒間ジ~~ッとしている必要があったという。
その数十秒間で動かないようにと、後ろには首を押さえる器具などがあったと考えられている。またこの台に肘を付いているポージングは恰好をつける為ではなく、長時間体を動かさないように持たれかかっていただけなのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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